第二十五話 雲に隠れゆく時
薬草庫での仕事が始まり、おそらく一か月近くになると思う。特に患者を診れるわけではないので、医官や医女の簡単な手伝いをしていた。毎日のルーティンは入荷される薬草の仕分けと、薬草をもらいに来る人の用途にあったものを処方する位の簡単な作業だ。
薬草の知識は多少はあるが効能や活用方法などの詳しい事はわからない。玖麻がいる時には一日中彼につきまとい、色々と教えてもらっていた。玖麻は私が働きすぎる事を嫌がったが、時間も忘れて夢中になるには薬草を学ぶのは最高の時間の使い方だった。
一ヶ月前に会って以来、山代王はまだこの薬草庫に来ていない。
きっと忙しいのだろう、期待しない方が楽なので淡々と一日を過ごし時間が過ぎるのを待っていた。最初のうちは目を輝かせながら近況を尋ねてきた小彩も私の期待はずれな返事が続いたせいか、あれこれ聞いてこなくなった。いつもと変わらぬ一日を終え部屋に戻り寝台に寝転がった。
コンコン。部屋の戸が鳴った。
「燈花様、入ってもかまいませんか?」
「もちろんよ」
小彩は部屋に入ってくると、神妙な顔つきで話し始めた。
「実は今日、厩坂宮で働く医女に市でばったり会ったのです。立ち話でしたので詳しくは聞いてないのですが、どうやら、先日行われた百済大寺でのご病気回復祈願のかいもなく、田村皇子様の病状がまた悪化されているようなのです…」
私は返答に困り、そう、とだけ答えた。へたに未来を知っているのも酷な事だ。何もできないもどかしさが本当に心苦しい。
ここ最近、胸騒ぎを感じよく眠れない。なぜこんなに気持ちがざわつくのだろう…山代王に会えない不安からだろうか?それとも先の見えない未来に対してだろうか?
相変わらず朝はあっという間にやってくる。いつも通り支度を済ませて薬草庫へ向かった。毎朝のルーティンを済ませたあと薬棚の整理をしていると外から叫び声が聞こえてきた。
「助けて下さい!助けてください!」
小屋の外に出てみると一人の年老いた男が小屋の前の地べたに横たわっている。彼を運んできたであろう数人の男たちが心配そうに周りを囲み男の様子を見ている。
私が急いで駆け寄ると、隣にいた息子らしき若い男が青ざめた顔で言った。
「櫓の上で作業をしていて突然崩れて一緒に下まで落ちたんです!すぐに診てください」
若い男が早口で叫びながら言った。
「まずは落ち着いて、まだ医官が来ていないのよ、私では適切な処置ができないわ」
朝早い時間ということもあり、どの医官も来ていなかった。とはいえ、年老いた男は胸を両手で押さえうーん、うーんと苦しそうにうなっている。しかも転落時に足首を骨折したらしく、足首が大きく赤く腫れている。私は動揺している若い男を落ち着かせるように言った。
「とにかく小屋の中の寝台に運んでちょうだい。私は痛み止めの薬草を調合してくるから。もう少しで医官が来るからそれまでの辛抱よ」
ちょうどこの時、広場の奥から若い医官が歩いてくるのが見えた。私は早くこちらへという風に大きく手を振り彼を呼んだ。若い医官は状況を察したのか走ってくるとすぐに慣れた手つきで処置を始めた。ひとしきり応急処置を終えると年老いた男も安心したのか、調合した薬草を飲みすぐに眠りについた。若い医官にお礼を言うと、命に別状はないが数日後にもう一度来るようにと言い残し小屋から出て行った。
「命に別条がなくて良かったわ」
私はほっと胸をなでおろした。
「ありがとうございました」
息子らしき若い男が頭を軽く下げた。
「どこの櫓から落ちたの?」
「……」
なぜか若い男は黙ったまま答えない。隠す理由など何もないだろうと不思議に思ったが、それ以上深くは追及しなかった。医療の発達していない古代では軽い怪我さえも命取りになる。細心の注意を払いながら生きなければならない。しつこいようだか私はもう一度念を押すように言った。
「気を付けないと、今回は骨折ですんだけど、内臓を痛めてしまっては命が危ういわ」
「…普段は田畑を耕すだけの農民ですので、危ないことはいたしません。ご心配なく…」
若い男が遠慮がちに答えた。
「農民?なぜ農民が危険な仕事を?」
「……」
若い男は横たわる父親を見つめまた黙りこんでしまった。しばらく眠ると父親は目覚め、若い男に支えられながら家に帰っていった。その日を皮切りに連日のように怪我人が運びこまれるようになった。
「玖麻様、なぜ毎日、怪我人が運び込まれてくるのですか?ただでさえ医官が少ないのに…原因をご存知ですか?」
私は少しイライラとした口調で玖麻に尋ねた。連日の怪我人で疲労がたまっていたのもある。
「…ふーむ、恐らく…、皆、甘樫丘の麓で働く農民たちでありましょう…」
「甘樫丘ですか?」
「はい…なんでも豊浦大臣の命で、甘樫丘の東方側に武器庫を早急に建てていると聞きました」
「豊浦大臣様ですか⁈」
私が大声で叫ぶと、玖麻は慌てて指を口にあて言った。
「燈花様、お声が大きいです」
「でもなぜこのような時に武器庫が必要なのですか?」
我慢できず呆れ声を上げ、玖麻を見た。玖麻もため息をつくと困ったように答えた。
「私も詳細はわかりませんが、だいぶお急ぎのようで蘇我家の私兵だけでは足りぬ為、都の兵や農民までも借り出していると聞きました。誰も断われませんので農民は慣れぬ仕事に怪我を負うのでしょう…」
「そんな…」
こんなに連日怪我人をだされてしまったら、ただでさえ医官が少ないのに手当が追いつかない。そのうち命を落としてしまう人も出てしまう、蘇我一族の傍若無人な振る舞いに一気に怒りの感情が沸き起こった。
「玖麻様、少し暇をいただいてもいいですか?甘樫丘はここからすぐ近くですし一度現場を見てまいります」
事の成り行きを察したのか、すかさず玖麻が答えた。
「燈花様、豊浦大臣に逆らってはなりません。朝廷を裏で牛耳る重鎮のお方です。。誰一人逆らえぬゆえ、このような事態になっているのです」
玖麻が必死で私を引き留めるように言った。
「心配はいりません、作業の様子を確認してくるだけでございます。無茶はいたしません」
私は冷静にそう言うと最後の怪我人の手当てを済ませ甘樫丘へと向かった。
甘樫丘は飛鳥川西岸に位置し標高も高くない丘陵だ。確かこの丘の中腹と麓に蘇我蝦夷と入鹿の邸宅があったと歴史書で読んだ事がある。
自分達を天皇一族だとでも勘違いしているのだろうか?そんな怒りの感情を持ちつつ飛鳥川沿いを歩いた。
しばらくすると遠くからカンカンと何かを叩く音が聞こえてきた。前方に数名の男達の姿が見える。その側には大きな大木を担いでいる男達の姿もある。皆よろよろとした足どりで今にも倒れそうだ。遠くからだが男達のやつれた顔や疲労の様子がわかった。
そのまま山の裏側に沿って歩くと少し進んだ林の中に大きな武器庫らしき櫓が二つ並んでいるのが見えた。隣には鍬や鋤や弓矢と槍が山積みに置かれている。玖麻が言っていた事は本当なのだと思い、私は手をぎゅっと握りなおした。
「医女様、お待ちください。医女様!」
誰かに呼び止められ振り返ると、見覚えのある若い男が立っていた。数日前に怪我をして薬草庫に運ばれてきた老人の息子だ。
「あ、あの時の…」
「はい、先日父を診ていただいたものです。あの時はお世話になりました」
「お父様の具合はどう?」
「はい、胸の痛みもだいぶひき容態は安定しておりますが、足首も骨折しているので回復するには時間がかかりそうです…」
「そうね、無理は禁物よ。ゆっくり養生してちょうだい」
「はい、でもなぜこんな場所にいらっしゃるのですか?医女様のようなお方が来る所ではございません。木を伐採しており危険ですのでお戻りください」
「大丈夫よ、心配ないわ。何を建てているのか気になってしまって…所でこの現場の責任者は豊浦大臣だと聞いたのだけど…お屋敷が近くにあるのでしょう?もし出来ればお会いしたいのだけど…」
若い男は急に顔を曇らせて小声で言った。
「…確かに命を出されたのは豊浦大臣様ですが、この現場を仕切っておられるのは子息の林臣様です…なれどお会いするのは…」
「林臣様が?」
「さ、さようでございます。ご存知なのですか?」
「えぇ、少しだけね…」
「さようでございますか。今日たまたまお見えになっているのです。丁度今この丘の頂上におられるかと…」
「そうなの?…ありがとう。では、せっかくだから林臣様に会ってゆくわ。この丘は女人禁制ではないはね?」
「違いますが、裏側からですと木々で薄暗くお足元が悪いかと…」
「大丈夫よ、以前に何度か登ったことがあるわ」
「えっ⁈以前にですか?」
しまった!と思い両手で口を押えた。若い男は目をパチパチさせ驚いた表情で私を見ている。
「いえ、以前にも別の山に登った事があるから、山登りは得意なのよ」
「さようでございますか…低い丘ですが、途中蛇などもおりますので、十分気を付けてください」
「ありがとう」
私がそう言うと、若い男は軽く会釈をして、櫓の方へと戻っていった。蛇は怖いけど以前にも登った事があるしきっと大丈夫…林臣様なら少しは話しやすい相手だし…
私はゆっくりと山道を登り登り始めた。秋はすっかり深まり空から木の葉がはらはらと落ちてきている。飛鳥での秋はこれが二度目だ。時折立ち止まっては風の中を舞う木の葉を眺めた。もう三十分近く登っているだろうか、当然なのだが、舗装されていない山道は想像以上に歩きづらい。息が上がったところでようやく目の前が開け、木々の隙間から眼下に飛鳥の都と集落が見えた。
ふぅ、着いた…疲れた…膝に手をあて体をかがめた時だ。ビュンと鋭い音が耳元をかすめていった。驚いて顔を上げると十メートルくらい先に林臣が弓をこちらに向け構えている。
「キャーッ」
思わず甲高い声をあげその場にしゃがみ込んだ。
「動くな!!」
掛け声と同時にまたビュンと大きな音が耳元をかすめボトッと鈍い音が背後から聞こえた。飛んで来た矢がどこに当たったのかわからず頭の中はパニックだ。心臓はドクドクと大きく脈打ち自分が生きているのかどうかもわからない。
とにかく体に痛みがない事を確認したあと深呼吸をし落ち着かせた。呼吸が整い恐る恐る後ろを振り返ると、すぐ後ろにある切り株の上に大きな蛇が横たわっている。まだ動いてはいるものの矢は頭と胴体の境目を見事に貫通していた。
全身の力が抜け起き上がれない。手で体を支えるのがやっとだ。前からガサガサと足音が近づき林臣の両手がひょいっと私の体を持ち上げた。
「な、何⁈」
驚いて叫んだが林臣は何食わぬ顔で、
「別の蛇の餌食になるか?」
と言い、私を抱え少し離れた見通しのよい広い場所へとうつった。林臣が地面に向け雑に手を離したので私は勢いよく尻もちをついた。私は彼を睨んだあと、ちょっと!と大声で言った。でも、彼に会うのは実に久しぶりだ。
「なぜここにいる?」
いつも通りの冷めた口調だ。朝の蓮を一度見たくらいで調子に乗るなと冷たい目が言っているようだ。私は服に着いた土を払いながら立ち上がった。
「女人のくる場所ではないぞ」
「…林臣様がこの丘の頂上におられると聞いたので、お会いして…」
「会う理由など何もないが…」
私は自分で言うのもなんだが、元来穏やかな性格だ。でも彼の言葉はいつもどこか棘がありカチンと来る。いつも上から目線なのだ。こちらが下手に出ているからって…
私の怒りは再燃したが、この感情を表に出したら負けだと思いキッと林臣を見たあと淡々と言った。
「では、率直に申し上げます。数日前よりこの甘樫丘の麓から何人もの怪我人が薬草庫に運ばれてきております。今は田村皇子様のご容態も良くないうえ、ほとんどの医官や医女が都におりません。限られた人員のなか手一杯なのです。ゆえに、この丘での作業は早急に取りやめて頂きたいのです」
林臣が黙ったまま北西の方角を指さし言った。
「……そなた、あの真っすぐ横に伸びる大道が見えるか?」
林臣の指さした先に幅の広い道が真横に延びている。きっとこの時代に整備された横大路の道だろう。私はうなずいた。
「では、あの大道の先にあるものはなんだ?」
「斑鳩宮でございますが?」
「もっと西だ」
林臣は横大路が続く道の遠い先を見つめたままだ。
「更に西に進んだ所に難波宮がある。そのまた先は何がある?」
「……」
返答に困っていると、林臣はようやく振り返り私を見て言った。
「海を越えればすぐに朝鮮三国、百済、新羅、高句麗がある。今はまだ均衡を保っているが常に互いの国に攻め入る隙を見計らっている。更にその先にあるのは…大唐だ。その昔500年も戦に明け暮れていた大国だ。その者たちが本気でこの国を攻め入れば赤子の首をひねるようなもの、わが国の武力ではなんの太刀打ちもできぬ。あっという間に領土は奪われ、虐殺が始まる。そうなったら、誰が一体この国を守るのだ?今にも命の灯がこと切れそうな帝がこの朝廷と都と民を守るのか?」
考えてもみなかった…私利私欲の為ばかりだと思っていた…そうだった…すっかり忘れていたが今は朝鮮三国と大唐が睨み合う戦国の世……いつこの国だって攻められてもおかしくないんだった…
「今、この国の防御を固めずにいつやるのだ?何人怪我人が出ても構わぬ。替えはいくらでもいるからな」
「……」
何も言い返せない。彼は朝鮮三国と背後にある大唐の脅威を知り尽くしている。大国との力関係をしっかりと把握し冷静に未来を見据えている。井の中の蛙では想像も出来ない世界を彼は知っているのだ。認めたくはないが彼は外交のプロだ。
「わかったのなら、すぐに立ち去れ。次は助けぬぞ」
林臣はそう言うと、その場を去った。夕方の西日がいつものように眼下に広がる都を美しく照らしている。
この国の基盤がつくられ始めた最初の時代にいたんだった…侵略された史実はないと分かっていたから危機感など微塵もなかった…。
そんな事を考えながらとぼとぼと山道を下った。下山中、大蛇に襲われた事などすっかり忘れていた。
薬草庫に戻ると、珍しく怪我人の姿は見えず中は静まりかえっていた。
「燈花様、お戻りですか?」
玖麻が薬棚の脇からひょっこり顔を出した。
「えぇ、人手が足りないのに抜け出してしまってごめんなさい…」
「いえ、大丈夫です。見ての通り何故か本日は患者が全く居ないのです。今のうちにと思い、薬棚の整理をしていたところです」
玖麻が顔についたホコリを払いながら笑って答えた。
「良かった…」
「燈花様、顔色が優れぬようですが甘樫丘でなにかあったのでございますか?まさか、豊浦大臣様に咎められたのですか⁈」
玖麻が困惑した顔で言った。
「ち、違うのです!久しぶりにあの丘に登ったので少し疲れました…」
私は苦笑いをして答えた。
「さようでございますか…、間もなく夕方になりますしもうお屋敷にお戻りください。明日からまた怪我人が何人運ばれてくるかもわかりませんし、休めるうちにお休みください」
「玖麻様も帰られますか?」
私が尋ねると、
「私はせっかくの機会ですので、薬棚の整理を終わらせてから、帰宅いたします」
と言い、手に持った籠の中をガサガサといじり始めた。
「私も手伝います。二人の方が早く終わりますよね?」
「ええ⁈そんな、困ります。私一人で出来ますので…」
私は玖麻の返事などお構いなしで台の上に積まれた籠を取り薬草の選別を始めた。玖麻はいつものように困った顔をしたあと頭をかき、作業に戻った。
「玖麻様、この生薬は見慣れぬものだけど、どこにしまえばいいですか?」
「あ、それらはその薬棚の奥にもう一つ小さな棚があるのです。少し変わった珍しい生薬ですので、そこに置いておいてください」
玖麻が言った。
「大丈夫、自分で調べてしまいます」
いつも使っている薬棚の奥にもう一つ小振りの小棚があるのが見えた。きっとあの棚だ。ガタガタと棚の間をすり抜けながら奥まで進んだ。
小棚の上には丈夫な作りの小箱がいくつか綺麗に並んで置かれていた。初めて見る小箱だ。中を開けると更に布で包まれた生薬が厳重に保管されていた。
私は一つ一つの包みを丁寧に広げ中の生薬を確認し始めた。どれも珍しい形や色をしていて尚且つ独特な香りだ。一番下の小箱には薬草が入っていた。包みを広げた瞬間に独特の香りが鼻を突いた。でもどこかで嗅いだことがある香りだ。この特徴のある香りはなかなか忘れることは出来ない。どこだっただろう?
確かにどこかで嗅いだのになかなか思い出せない。過去の記憶を必死でたどった。
…そうだ、あの時の薬だ…間違いない。足首を骨折した時に使った塗薬だ。この塗り薬のおかげで驚くほど早く腫れが引いたのだ。
私は興味津々で部屋の隅で作業している玖麻に尋ねた。
「玖麻様、お聞きしたいのですがこの薬草ですがこのあたりでも採取は可能ですか?骨折などの鎮痛や消炎にとても効能があるようなのですが…」
「どれどれ…」
と言って玖麻はやってくると薬草を手に取り興味深く眺めたあと、草の匂いをクンクンと嗅いだ。
「あっ!これは、新羅から取り寄せた大変希少な薬草です。全ての怪我や病に万能であると聞いた事がございます、残念ながら我が国では手に入りません。良かった…そんなところにしまってあったとは、あまりにも希少な薬草だったので、厳重にしまったのですがそのあとにどこに保管したのかわからなくなってしまい…探していたのです」
玖麻が面目なさそうに言うと頭をポリポリとかいた。
「そんなに貴重な薬草なのですか⁈」
「さようでございます。新羅でしか採れぬ薬草ですが大唐の商人を通し取り寄せるので入手が大変困難なのです。一般庶民では一生使うことのない薬です」
「そう…」
「燈花様、まさかお使いになられたことがあるのですか?」
「えぇまぁ…これは朝廷で取り寄せたものですか?」
私が答えると、玖麻は目を丸くし言った。
「いえ、それが違うのです。数か月前に嶋宮より早急に取り寄せてほしいと要求がありました…確か、巨勢様からの注文でしたが運よく大唐から来ていた商人が偶然持ち合わせていたんです。私物だったようで出し渋りましたが相当な高値で交渉し手に入れたのです。こう言ってはなんですが、巨勢様が買える代物ではございません、恐らく背後で林臣様が所望されたのでしょう」
「…林臣様が…そう…」
怪我をした時、この薬の事を小彩に一度尋ねたことがあった。その時は朝廷の医官から支給されたものだと言っていたのだ。きっと彼女もこの希少な薬の出どころまでは知らなかったのだろう。
まさか、林臣様がこんな希少な薬を用意してくださったなんて知らなかった…
体中から一気に力が抜けた。林臣様が何を考えている人間なのか全くわからない…歴史書からは悪役の烙印を押された一族だけれど、どうしてもそんなに冷酷非道な人間だとは思えない…
その時、ゴーンゴーンと飛鳥寺から大きな鐘の音が聞こえてきた。急いで外にでてみると、五重塔の一番上に内官らしき男が白い旗を振っているのが見えた。
「た、帝がお亡くなりになった…」
後から出てきた玖麻が背後でぼそりと言った。
「えっ⁈」
私は振り返り聞き直した。
「あの白旗の意味はなんなのですか?」
玖麻はその場にへたへたとしゃがみこむと目に涙を浮かべ大声で泣き出した。
「田村皇子様がお亡くなりになられたのです…」
「そ、そんな…」
鐘が鳴り続ける中、広い槻木広場の片隅にいつまでも立ち尽くしていた。
その日から薬草庫に行くことはなく、橘宮で喪に服す日々が始まった。活気のあった都は行きかう人もまばらでシーンとしている。一般の民から朝廷の大臣まで田村皇子である舒明天皇の崩御を偲び心を寄せていた。気づくと木の葉はすっかりと落ち北風がピューピューと寂しい音をたてていた。
「燈花様、田村皇子様が崩御されてからしばらくたちますが、こんな時に不謹慎かもしれませんが山代王様から何かご連絡はあったのですか?」
小彩はもう耐えられなかったのだろう。意を決したように聞いてきた。
「うんん、何もないわよ。殯の儀で忙しいはず。私のことどころではないわ…」
「燈花様…」
「大丈夫よ、きっとまた連絡をくださるはず。今はまだまだ喪に服す時よ」
気丈に言ったものの小彩は今にも泣き出しそうだ。私が不憫に思えて仕方なかったのだろう。私は苦笑いした後、美味しい粥を作って欲しいとわがままを言っておどけて見せた。
しはらくして飛鳥の都はすっかり冬を迎えた。山の落ち葉が北風に乗ってどんよりとした空を舞っている。今朝は特に寒い、薄暗い雲から初雪の音が聞こえそうだ。寒さでかじかむ手に息を吹きかけながら厨房の竈に火を起こしていた。小彩がすごい勢いで飛び込んで来た。
「燈花様!お見えになられました。急いで中庭に来てください!」
「え?誰が来たの?まだ朝よ、火を丁度起こしていて…」
「それどころではありません」
小彩は私の手から薪を取り上げ床に置くと厨房から強い力で引っ張り出した。私は体のバランスを崩してあわや転倒しそうだった。
「ちょ、ちょっと」
「山代王様がお見えになっているのです」
「え⁉︎」
「山代王様が庭でお待ちになっているのです」
はっきりと大きな声で小彩が言った。あまりにも突然の来訪に心臓は飛び上がり緊張で足はかくかくとし上手く歩くことができない。なんとか小彩に支えられながら庭に向かった。
いつぶりだろう…頬が少しやつれた山代王がこちらを向いて立っていた。
「や、山代王様…」
山代王は私の側まで走り寄ると私の体を強く抱きしめた。
「すまない、だいぶ遅くなってしまった…」
「山代王様…」
朝の冷気の中、急いで馬を走らせてきたのだろう。彼の体は冷たく冷え切っている。
「すぐに温かい茶をご用意いたしますので、まずはお部屋にお入りください」
「そうしよう」
私が山代王を部屋へ案内すると、中はすでに暖かく囲炉裏の火がパチパチと勢いよく燃えていた。小彩が用意してくれた桂花茶の甘い香りが部屋中に漂っていた。
「良い香りだ」
山代王はふうっと息をひとかけし熱いお茶に口をつけた。
「長い間なんの連絡もせずすまなかった…とにかく身動きが取れずにいたのだ…許してほしい」
山代王が真っ直ぐな瞳で言った。
「当然のことでございます。山代王様は皇族にとっても朝廷にとっても民にとっても尊いお方です。私のような人間をいちいち気にかける必要はありません」
「何をいうのだ、私がどれほどそなたに会いたかったか…」
山代王は優しく私の手を取った。
「今日は冬韻様はご一緒ではないのですか?」
「はは…実は一人夜明けを見計らい屋敷を抜け出してきたのだ。ゆえに長居はできない。ただ、そななたに伝えたいことがあり参った」
山代王は私をじっと見つめて言った。
「この先少なくとも数か月は殯の期間となり、公の祝いの儀式はできぬ。だが恐らく文月あたりには婚姻の許可は降りるはずだ。その前に私の後宮に移り住み王妃のもとで側室としての準備をしてほしい。来年の晩秋には誰からの反対もなく正式にそなたを娶りたいのだ…」
突然の山代王からの言葉に驚き、頭の中が真っ白になった…二度目の婚約だ…
「気が進まぬか?」
「いえっ、そんな事はございません。あまりに突然の嬉しいお話に気が動転してしまい…」
「そなたとこれ以上離れ離れで暮らすのは耐えられない。本当ならばすぐにでも入宮させ私の近くに置いておきたい」
「山代王様…」
「そなたも私と同じ気持ちでいてくれていると信じているが、どうであろう?今の気持ちを聞かせ欲しい。私に嫁いでくれるか?」
私は静かにうなずいた。
「良かった、私の生きる希望だ。来月からまた、薬草庫の仕事に復帰してほしい。朝廷に出向いた時には必ず会いにいくゆえ」
「わかりました」
山代王は立ち上がると再び私を抱きしめ屋敷へと帰って行った。
山代王が去るとすぐに小彩が部屋へと入ってきた。そわそわと落ち着かない様子だ。私は彼女を寝台の横に座らせ全ての話を伝えた。
「まぁなんと…こんな時ではございますが、言わせてください。燈花様おめでとうございます。何があってもやはりお二人は強い絆で結ばれておられるのです」
小彩が目に涙を浮かべて言った。
「ありがとう。これが私の運命、突き進まなくてはならぬ道なのね…」
私は自分自身を奮い立たせるように言った。
「燈花様、王様に嫁げるなんてこの国の女人にとっては夢のまた夢のお話です。最高に贅沢で華麗な世界で生きてゆけるのです。しかも山代王様のご寵愛のもとで裕福に暮らせるなんて、これ以上の女人の幸せな一生はありません」
さっきまで涙を浮かべていた小彩は一変し興奮し話し始めた。そんな彼女に大袈裟すぎると私は笑った。
「だって、燈花様の長年の想いが報われるのですからこんなに嬉しいことはありません。今日の夕飯はごちそうを作ります!」
「駄目よ、このことはまだ一部の側近にしかお話になっていないはず。しかも今は先帝の喪中の真っ只中よ。山代王様が公にするまでは私とあなたの二人だけの秘密にしましょう」
「そうでございますね。それにしても本当に嬉しくて嬉しくて…すぐにでも誰かにお話ししたいくらいです」
小彩が満面の笑みを見せた。
私達はまた熱い桂花茶を入れなおし話を始めた。外はどんよりとした空から、はらはらと雪が降り始めていた。




