第十八話 深田池の畔で
ガサガサ、ガサガサ
耳元で乾いた草を踏む音が聞こえる。二人の男が不思議そうに覗き込んでいる。
「誰であろうか?」
「なんだかあやしい女です、放っておきましょう」
「待て、この女の上着の袖を見てみろ…中宮様の紋章が刺繍されているぞ」
「ま、まことですか⁉︎まことであれば大変だ小墾田宮に運びましょうか?」
「いや、待て…この灯籠にも刻印が…橘宮の印だ。ちょうど六鯨様が畝傍山の倉に居るから呼んでこい!」
「はっ、はい!」
若い方の男が畝傍山にめがけ駆け出し、しばらくして六鯨を連れて戻ってきた。六鯨は足をもたつかせながら手前で立ち止まると、ふぅふぅ言いながら大汗をぬぐっている。
「六鯨様、こちらです!見てください」
待っていた男がこっちだと手招きしている。
「なっ、なんと驚いたことか!燈花様ではないか!」
六鯨はその場で大声を上げのけぞったあと早口で言った。
「果安よ、急ぎこの方を橘宮にお運びしなさい!慎重にな。あと、朝倉に出向き急ぎ小彩を呼んできてくれ」
「はっ、はい」
翌日の昼前、橘宮に小彩が到着した。
六鯨が小彩を急かすように屋敷の中へと案内している。
「小彩よ、よく来てくれたな、見てくれ」
六鯨が腫れものでもさわるかのように、部屋の戸をゆっくり開けた。部屋の中に入るとすぐに小彩の顔色が変わった。
「ま、まさか燈花様⁉︎︎本当に燈花様にございますか?」
小彩は信じられないというように口を大きく開け驚いている。
「そうなのだ。どう見ても燈花様であろう?しかも中宮様の紋章入りの上着を着ているのだから間違いないはずだ」
「なれど、なぜ今…六鯨様、燈花様のご容態は?」
「いや、私にも何がなんだかわからぬのだ。昨日、深田池の畔で倒れているのが見つかり、宮まで運んだのだ。脈も呼吸も正常だがなぜか目を覚まさぬ…」
「な、なんと…燈花様、どうかお目覚め下さい。小彩が参りました…」
すすり泣く小彩の声が耳元で聞こえる。二人の会話を夢の中でぼんやりと聞いていた。なんとなく意識はあるが瞼が異常に重く目が開かない…醒めない麻酔を打たれている気分だ。そして再び深い眠りについてしまった。
また夢を見ている…
中宮様…一体誰の事を案じていらっしゃるのですか?…私はいったい、何をすれば良いのですか?…行かないで中宮様!!…
深い深呼吸を一つして目を開けた。いつもの見慣れた天井がぼんやりと見える。
…夢か、喉が乾いたわ…
「誰か…誰か…」
声を振り絞り言った。
「燈花様!お気づきですか?私でございます!!」
誰かが手を握ってくれている…温かい手だ…
「…その声は…小彩?」
「さようでございます。小彩でございます!」
いつのまに橘宮に戻ったのだろうか…記憶が全くない。でも小彩の声を聞き安心していた。
「…喉が乾いたわ…お水をくれる?」
「はい、すぐにお持ちいたします!」
いつものようにバタバタっと小彩が部屋から出て行った。あぁ…まだ頭がクラクラする…視界もぼんやりしているし…
すぐに小彩は部屋に戻ってきた。
「燈花様、お水をお持ちしました。起き上がれますか?」
「…体が動かないわ…」
そう言うと、さじを使い水を口に運んでくれた。冷たい水が一気に喉を潤し体中に沁み渡った。
「美味しい…ありがとう…」
かすかに開いた目の前はぼんやりとし、まだぐるぐると回っている。
「燈花様、大丈夫ですか?」
小彩の心配そうな声がすぐ横で聞こえる。
「よっぽど寝てしまったのね…頭が重いわ…」
両手を顔の上に乗せた。
「お疲れなのでしょう、無理しないで下さい」
小彩はそう言うともう一度水を飲ませてくれた。
「私…いつの間にか橘宮に戻っていたのね…昨晩は…中宮様とお会いしてたのよ…」
大変…中宮を一人深田池に残したままだ…あれ?どうしたんだっけ?まるで思い出せない…
「小彩…私、昨晩中宮様にお会いして…そのまま一人帰ってきてしまったみたい…後で一緒に小墾田宮に挨拶に参りましょう…」
小彩は返事をしない。黙ったままだ…空気がしんとしている。
「小彩?私、中宮様に会いにいかないと…」
「と、燈花様?」
小彩がようやく口を開いた。
「もう少ししたら起きるから支度をしてくれる?中宮様の事が気がかりだわ…妙な事をおっしゃっていたから…」
「…あのう、燈花様…申し上げにくいのですが…何か誤解をされているのでは?」
小彩が言葉を選ぶように遠回しに言った。しかもいつになく神妙な声だ。
「え…?何のこと?」
会話が噛み合わない。でも見上げた天井はさっきよりも鮮明に見える。間違いない…橘宮の自分の部屋だ。
「燈花様…ご、ご存知ないのですか?」
小彩が何かを確かめるように少し大きめの声で言った。
「何を…?」
「…中宮様はもう、お亡くなりになっております…」
小彩が小さく震える声で答えた。
「えっ…」
一瞬の間を置いた後、ありったけの力を使い起き上がった。眩暈はもう治まっていた。目の前に見知らぬ美しい女性が立ち心配そうにこちらを見つめている。
「…あなたは…誰?」
思わず声に出して聞いた。
「燈花様、私でございます。小彩でございます。お忘れですか?」
忘れるも何も飛鳥に来て以来毎日会っている。もちろん昨日も会っている。目の前に立つ女性は見知らぬ大人の女性だが間違いなく小彩の声だ。困った表情も少女の時の小彩の面影がある…いったいどうなっているのだろう…状況が全くわからない…。
「本当にこ、小彩なの…?」
もう一度聞いた。
「さようでございます」
小彩は私の手を握りしめると顔をすり寄せた。近くで見るとくりくりとした瞳も少し低い鼻も丸いおでこも全て小彩だ。
一体どういうことなのだろう?まだ夢を見ているのだろうか?自分を落ち着かせながらゆっくりと深呼吸をした。
「もう一度、言ってくれる?中宮様は…」
「はい…中宮様は十三年ほど前にお亡くなりになっています」
深く息を吸い込み両手を胸に置いた。心臓が止まりそうだ。
「十三年前?そ、…そんなはずないわ、私、昨晩お会いしたのよ深田池の畔で」
確かに昨夜、間違いなく中宮に会っている。虚言でもなく寝ぼけているわけでもない。私はいたって正常だ。
「燈花様…いったい何を…」
小彩も訳がわからないという風に混乱した様子だ。私は小彩の言葉を遮るように話を続けた。二度目の意味の分からないタイムスリップなど到底受け入れられない。半ば怒りにも似た感情が沸き上がっていた。
「漢人を連れてきて、昨日あなたへの言付けを頼んだの」
私はぱっと立ち上がると、小彩が止めるのを無視し部屋の外に飛び出し大声で叫んだ。
「漢人~!漢人~!」
呼び声は屋敷中に響き渡りすぐに馬小屋の後ろの方から一人の男がひょっこりと顔を出しこちらに向かって走ってきた。
「はぁはぁ、燈花様。お気づきになられたのですね、良かった」
男の肌は薄黒くあごにはもじゃもじゃの無精ひげが生えている。背はさほど高くはないが中肉中背の体格の良い男だ。この男もまた少年の頃の漢人の面影がある…
「あなたは…」
「馬番の漢人でございます。大変長い間、ご無沙汰しておりました。改めて燈花様にご挨拶を申しあげます」
漢人は嬉しそうに目を細め深々と頭を下げた。
愕然とした…そんなはずはない、昨日確かに中宮に会っている…私はその場でヘタヘタと座り込みうずくまった。どうしていいかわからない…小彩がそっと近づき私の体を支え起こした。
小彩と漢人に両脇を支えられながらヨロヨロと歩きなんとか部屋の中へと戻ると再び寝台に倒れ込んだ。私が落ち着いてきたのがわかると二人はこれまでの事を話し始めた。
そんな…嘘だ…
気がづくと部屋から飛び出し馬小屋から馬を一頭連れ出し、飛び乗っていた。
「燈花様!どこに行かれるのですか!燈花様!!」
後ろから小彩の叫び声が聞こえたが、振り返らずに無我夢中で馬を走らせ小墾田宮を目指した。
夕暮れ時なのか西の空は真っ赤に染まっている。どうしても信じられなかった…中宮様にお会いして、真実を聞かなければ…
ドンドンドン、ドンドンドン、
小墾田宮に着くと思い切り門の戸を叩いた。中はシーンとしている。
「開けてちょうだい!誰か!」
大声で何度か叫ぶと一人の中年の女が門から出てきた。女は一瞬疑うように上から下まで舐めるように見たが、目が合うと私の顔を思い出したのかすぐに笑みを浮かべた。
「橘宮の燈花様ですね?ご無沙汰しております」
「あなたは、この宮の侍女?良かった、中宮様は中にいらっしゃる?お会いしたいのよ、すぐに通してちょうだい」
私が背伸びをして無理やり屋敷の中を覗き込むと女が慌てて答えた。
「燈花様、どうか落ち着いてください。中宮様は十年以上前にお亡くなりになっているではありませんか。この屋敷には今、誰も住んでおりません。当時の侍女も、使用人ももうおりません。私は今日たまたま器を取りに来て…」
「そ、そんなはず…」
女を押しのけ強引に敷地の中に入ったが、人気はなくひっそりとしていてる。
美しかった中庭には雑草が生い茂っていた。
う、嘘でしょ…何かの間違いよ…私はまた屋敷から飛び出すと再び馬に飛び乗り走り出した。
もしかしたらあの場所にいらっしゃるかも…馬を走らせながら、小彩と漢人から聞いた話が頭の中をグルグルと回った。
「燈花様は、きっと長旅で疲れて混乱されているのでしょう。十三年前、燈花様が中宮様に会いに出ていかれた翌日、小墾田宮に呼ばれました。そして、燈花様がやむを得ない事情で急ぎ東国に帰り、しばらくは戻って来られないと中宮様から直接お聞きしました。突然の別れに、挨拶もできずにいた事を橘宮の皆が心苦しく思っておりました。ただ、いつの日か必ず戻ってくるから、その時はまた誠心誠意お仕えするようにと、中宮様より仰せつかっております。この十三年間の都の事情を何もご存知ないのですか?私はてっきり小墾田宮から便りが届いているものだとばかり…あっ、燈花様⁉︎どこに行かれるのですか⁉︎」
馬を走らせながら小彩の話を何度も思い返していた。
ヒヒーン、ヒヒーン
畝傍山が見えた、この山の麓だ…あった!きっとこの小道だ。私は馬を止まらせ下りると、昨夜通った小道を走り出した。辺りはもう薄暗く空には昨夜のように明るく大きな月がぽっかり浮かんでいた。
はぁはぁ…着いた…
目の前には昨夜と同じように月明かりに照らされた美しい池が広がっている。池の畔にある東屋を目掛けて走り出した。
きっとあの場所にまだおいでのはず…
「中宮様!中宮様!」
池中に響き渡る大声で何度も叫んだ。どれだけ中宮の名前を呼んでも池の周りを見渡しても誰も居ない。大きな月が池の水面に映し出され、ゆらゆらと揺れているだけだ。
暖かい風が優しく吹き出し、ヒラヒラと白いものが舞降りてきた。
…雪?違う…花びらだ…
振り返ると池の畔に沿って植えられている桜の花が満開だ。青白い月の光に照らされた桜の美しさに息を飲んだ。
桜?…なぜ?…き、季節が違う…
また暖かい風が吹き何枚もの桜の花びらがヒラヒラと雪のように飛んできた。
やっと気づいた…これ夢じゃない…
目の前に舞う何枚もの桜の花びらを見ながらその場にしゃがみこんだ。夢ではない…現実なのだ。
春になったら一緒に夜桜を見る約束だったのに…私の本当の正体を知る唯一の方だったのに…中宮様は私一人を残し何も言わずに逝ってしまった…
一気に喪失感と寂しさが押し寄せ涙が溢れ出た。泣き声が静かな夜の池に響き渡っている。
「燈花様~!燈花様~!」
遠くで誰かが呼ぶ声が聞こえる。
バタバタ、バタバタ…
「ハアハア燈花様、ご無事でございますか?」
小彩はそう言うと私の体をぎゅっと抱きしめた。
「見つかって本当に安心しました。あちこちお探ししたのです。燈花様?」
小彩は私の泣き顔を見て驚いているが、何も答えることが出来ない。これから起こるかもしれない得体のしれない恐怖と不安に一気に襲われ足がすくんでいる。
冷え切った体はガクガクと震えだし、声を出す事も起き上がることも出来ない。
「燈花様お体が冷え切っておいでです、急ぎ宮に戻りましょう。漢人、悪いけどここまで馬を連れてきてくれる?」
「承知しました」
私の運命を慰めるかのように何枚もの桜の花びらが頭上をひらひらと舞っていた。




