佐和山の城
余談だが、いわゆる「道路」を日本に作ったのは、織田信長らしい。
他の逸話や武勇伝が豊かすぎて語られることが少ないせいか、信長こそ日本で初めて全国規模の交通整備を実施した人物であることはあまり知られていない。
そして道半ばで果てた信長の遺志を受け継ぎ、道路や橋の整備を行った者こそ、天下人の豊臣秀吉である。そしてさらに次の天下人になった徳川家康にも引き継がれるわけだが、これは今より先の話だ。
どうしてそんなことを思い出したかというと、中山道があまりにも走りやすく、つい感動を覚えたからだ。
俺たちのルートは現代で言うなら大津、草津、守山、近江八幡と越えて彦根に至る道のりだ。直線距離にしておよそ80キロ。名神高速を使えば1時間ほど掛かるだろうか。
当然、この時代に高速道路なんてものはもちろん、アスファルトもない。しかし道幅は自動車が走るには申し分なく、ほとんど荒れておらず平らな道だった。当たり前だが信号や他の車もないので、走りやすいことこの上ない。
こうして先ほどの危機が嘘だったかのようなスムーズさで、俺たちは佐和山のふもとに到着した。
そして俺は双子姉妹と車を降り、今はこうして目前の城を見上げている。
『三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城』
この時代から俗謡としてうたわれ、後世にも広く伝わる有名な一文である。
いずれの歴史書にも、石田三成という人物を紹介しようと思えば、まず間違いなく抜粋される文章だろう。
その過ぎたるものの一つ、佐和山城がここにある。
佐和山の山頂に見える本丸は湖畔より200メートルよりも上のところにあり、五層の天守閣がそびえている。それを支える石垣も10メートル近くはあろうか。
なるほど、これは石高19万程度の大名の根城としては分不相応であり、まさしく「過ぎたるもの」であるかもしれない。
「これが佐和山城……」
文羽が感嘆とした声を漏らし、詩羽ですら一言も発さず棒立ちになっている。無理もない。現代に佐和山城は残っておらず、こうして佐和山城の実物を拝むことは、絶対に適わないのだ。
これがどんなに貴重な体験か。感慨深い――そんな感情に支配される。
さてそんな佐和山城だが、いまは夜であり城の全貌を見ることはできない。しかし闇の中にうっすら浮かぶ紡錘形をした佐和山のシルエットに、覆いかぶさるように構えた佐和山城は、とんでもない重圧を放っている。
俺は元の世界で佐和山を見たことがある。といってもネット上で現地の写真を見ただけだが「思ったよりも低い」というのが佐和山を見た時の感想だった。佐和山の標高232.9メートル。数値を見ればけして低くはないが、彦根の街中にあるということもあり、いちいち見上げるほどの山ではない。
それがどうだ、こうして城の本丸や天守があるだけで、こうも高く、畏怖を感じさせるほどの山になるのか。
どこかで完成された城は、見た目で攻め手の闘争心を奪うと聞いたことがある。なるほど、たしかにこの城を落とせと言われても現実味が沸かない。
重機もないこの時代に、人力だけでこれほどの城が建てられるのか。到底信じられない。人外の力を借りたのではないかと疑ってしまう。
日本は神の国と言うが、少なくともこの国に建築の神がいたことは確かだろう。
「すごい」
文羽の瞳が潤んでいた。そういえば俺がまだ高校生だった時に、文羽は石田三成、詩羽は大谷吉継が「推し」だという話を聞いたことがある。
今回の関ヶ原古戦場巡りツアーでも、関ヶ原からほど近い彦根市の佐和山城跡を見学するという日程を組んだのは文羽だ。
ここに立派なお城があったのかと思いを馳せる心積もりだったのに、こうしてまさか実物を拝むことになり、感情が爆発して零れ落ちたんだろう。
そして、その感情は喜びだけではないはずだ。
何故なら俺たち三人は、この城の行く末を知っている。それは城の末路としては悲劇として言いようがない歴史だ。
現在の佐和山城は、本丸跡のわずかな石垣を残すのみとなっている。
これは徳川にとって悪人の居城ということで徹底的に壊されただけでなく、ここよりほど近い彦根城建設のために、城の建材や城壁の石が持ち出されたからだと知られている。
その彦根城は言わずもがな現代も残っており、国宝の1つだ。後の城主である井伊氏よりも、とあるゆるキャラのほうが広く知られている。
「ところで三成さんは?」
「あっ」
詩羽に言われてはっとした。佐和山城を見ることができた感動で、まさか城主の存在を忘れるとは。というか三成さんて呼ぶな。
車のほうを見ると、三成はまだ助手席に収まっている。そしてガラス越しに見える顔は曇っているように見えた。まずい、怒らせてしまったか?
「えーと……と、殿?」
取り急ぎドアを開け、そう呼びかけてみる。
「佐和山のお城に到着しました」
「…………」
三成の返事はない。俺たちが先に車から降り、城主を放って城の見物をしていたことにご立腹なのか。
「殿?」
「……わるい」
「え?」
「気分が悪い。吐きそうだ」
そう言って三成は辛そうに顔をしかめる。
まさかの車酔いだった。
「外に出て遠くを見れば良くなりますよ」
「そうか」
では早速、と三成は腰を上げようとして、途中で動きを止めてしまった。
「すまぬが、肩を貸してくれんか」
ずっと同じ態勢だったせいで、体が上手く動かせないらしい。現代人からすれば車のシートよりも、馬の上にいるほうが遥かに辛いと思うのだが。
「あと手も痺れておるようだ」
そう言って、三成は弱々しい動作でベルトから手を放す。まさか今までずっと握りしめていたというのか。
こみ上げそうになる笑いを堪えながら、俺は三成の細腕を肩に回した。三成は大人と思えぬほど軽い。
三成は数時間ぶりに踏む地面を、ありがたそうに何度も踏みしめた。
「うむ、そなたはいい体躯をしているな」
そして肩を貸す俺に、そんなことを言ってくる。
「そなたは武士ではないのか」
「どこにでもいる普通の学生ですよ」
「がくせい? 学問を嗜むのか」
「ええ、学に生きると書きます」
「学に生きる……そのような者が日本におったのか」
学生という身分はもちろん、学者という職業もこの時代では一般的ではなかったと思う。学問の各分野が発達するのは江戸時代に入ってからだ。この時代に学問がなかったわけではないが、武士の嗜みとしては自学自習が基本である。
豊臣政権において学問に優れていたのは誰かと聞かれれば、誰もがこの三成を推すだろう。計数に明るく、現代で言うところの総務や経理といった事務的能力において右に出る者はいなかったという。
その点で言えば、武勲ではなく事務的能力で出世して大名になった三成などは、まさに学に生きた張本人なのだが。
「島様はまだ到着していないようですね」
「…………」
「殿?」
三成の動き出しがなければ俺たちが城に近付くことは適わない。しかし肝心の三成はというと目を細め、顎に指を添えるようにして考え事をしている。
窮地を脱して居城に無事逃げ延びたことで、色々と思うところはあるだろうが、車酔いの最中にあまり頭を使わないほうが……
「っ、すまん、失礼する」
俺の杞憂は的中し、三成は俺を振りほどくようにしてこの場から離れようとし、数歩進んだところで地面に腕と膝をつくと、そのまま戻し始めた。
言わんこっちゃない。
「日本で初めての車酔いって石田三成だったんすね」
「交通事故に遭ったのもね」
双子は悠長にそんなことを話している。俺は軽口を叩く気分ではないので、三成の下へ行き、その背中をさすってやることにした。
この小さな背中こそ、この巨大な城の主である。
島左近の苦労が、ちょっとだけ分かった気がした。
ブクマ・評価頂けますと励みになります。