関ヶ原2
慶長5年(1600年)8月10日。
日が完全に暮れるのを待って、俺は姉妹と三成を車に乗せて大垣城を出ると、関ヶ原へ向かった。
大谷吉継、立花宗茂の両名と打ち合わせをするためだ。二人には昨日のうちに使いを出しており、書状にて今後の作戦を伝えてある。
赤坂にいる敵ではなく、どちらかも分からない小早川を全軍で叩くことについて、吉継はどんな意見を言うだろうか。
吉継は関ヶ原の南西にある山中村という小さな集落の神社に陣を構えている。一方で立花勢は大谷勢の東、大垣に近いほうに陣を張っており、藤古川を抑えていた。かつては不破関と呼ばれる関所があったあたりである。
両軍の役目は中山道を塞いで、敵を大坂方面へ行かせないことだ。道路を立花勢が塞ぎ、近くの山からは大谷勢が目を光らせているという、二段構えの陣になっている。両軍合わせておよそ1万人。
この軍勢がいるお陰で、赤坂にいる敵は大垣城と睨み合ったまま、家康の到着を待つしかない状況に置かれていると言える。
書状で今夜俺と三成が向かうことは伝えてあったので、初めて車を見た兵士の混乱はあったものの、俺たちはスムーズに大谷勢の陣地に到着した。
「夜分すまない」
三成がそう切り出し、軍議が始まった。出席しているのは俺たちのほかに、吉継とその息子吉治に家臣の五助、平塚為広と戸田重政、宗茂とその家臣もいる。
「赤坂の敵はどうか」
続いて口火を切ったのは、髭をたくわえて、見るからに強そうな大男だ。
この男が立花宗茂か。
宗茂は豊臣秀吉が生前に「東の本多忠勝、西の立花宗茂」と評したほど武勇に優れていた。秀吉の行った九州征伐にて、あの島津相手に少ない手勢で打ち破ったのだから、その評価も納得だ。
さらに秀吉はその功労を称え、そのとき大友家の家臣に過ぎなかった宗茂に、なんと所領を与えて大名にまで昇格させている。異例の出世をしていることからも、宗茂の強さは秀吉から見ても規格外だったと言える。
つまり立花勢は毛利勢や宇喜多勢よりはるかに少ない5,000人ほどながら、宗茂が率いている時点で西軍最強の戦力だと言える。
歴史好きの多くが「立花宗茂さえ関ヶ原にいれば、西軍が勝てたのではないか」と語るように、必ず西軍に良い戦果をもたらしてくれるはずだ。
「現状の報告とこれからの策について、家臣の権兵衛より説明する。権兵衛」
「はい」
三成に言われ、俺は頭を下げた後、話し始める。
「敵は岡山に陣取り、家康の到着をひたすら待ち続けているようです」
「家康はいつ来る」
「分かりません。しかし赤坂の敵は、家康が来るまで動けないのは確かです」
「その隙に金吾中納言を叩くのだな?」
「はい」
「いいだろう。あの若造に戦を教えてくれる」
金吾中納言とは小早川秀秋のことだ。宗茂も宇喜多秀家と同じで、自分を取り立ててくれた秀吉に深い恩義を感じている。
秀吉の養子という立場ながら、豊臣家を裏切ろうという小早川に対して、かなり強い憎悪を持っているようだ。
「攻め手はどうしますか」
これまで黙って話を聞いていた吉継が、口を開いた。
吉継は初めから最後まで小早川の裏切りを予測していたという。だからまず小早川を叩いてから東軍と戦うという作戦に、理解を示していた。
「このような布陣で臨みたいと思います」
そう言って、俺は布陣図を取り出した。
これは絵の上手い姉妹が手分けして描いてくれたものだ。
松尾山に向けて大谷吉継、平塚為広、戸田重政と立花宗茂の1万。その後方にある天満山に宇喜多秀家の1万7,000、小西行長6,000、丹後田辺勢1万が続き、遊撃隊として島津義弘1,500を置く。そして最奥の笹尾山に石田三成6,000。
また、小早川が西や南へ逃げないための抑えとして脇坂安治1,000、朽木元綱600、赤座直保600、小川祐忠2,000らの部隊を配置しておく。
彼らは裏切る可能性が高いが、小早川が袋のネズミになっているこの状況では、与えられた役割を全うするしかないはずだ。
この図では、全軍が南の松尾山に向けて布陣しているが、これを下ではなく横に向けた形が、史実にある関ヶ原の布陣図である。
「三成は最も遠い位置ですか。総大将なのに、ずいぶんと控えめな位置ですね」
「俺は総大将ではない。単なる囮に過ぎぬ」
「囮ですって?」
自尊心の高い三成から出たとは思えない言葉に、吉継は驚きを見せた。
「敵は殿を憎んでいる大名が数多くいます」
三成がこちらに目配せしたので、俺が代わりに答える。
「もし赤坂の敵が小早川を助けるために関ヶ原へ進軍してきたとしても、松尾山ではなくまず石田の本隊を攻めて来るでしょう」
「驚きました。大将を囮にするなど聞いたことがありません」
「だから俺は大将ではない」
「いや、此度の挙兵を実質的に画策したのは三成殿だ。この場に毛利輝元殿がいない以上、総大将は三成殿だ。その勇気には感服するが、三成殿がこれほど危険な位置に陣取るというのは、どうだろうか?」
宗茂が三成をどのように評価していたのか資料がないので知らなかったが、この口振りを察するに、西軍の総大将として三成の手腕を認めていたらしい。
「せめて小西殿と島津殿を援軍に回してはいかがです?」
「いえ、攻め手は一人でも多いほうがいいと心得ます」
人数差は圧倒的だが、小早川勢は1万5,000もいる。高所を取られていることもあって、小早川討伐に時間を費やしてしまうほうが怖い。
「敵は5万。石田勢は6,000。果たして耐えられるのか」
宗茂はこのあまりにも思い切った策を不安に感じているようだ。
三成の本陣がもし落とされるようなことがあれば、松尾山に攻め上がっている味方は背後をつかれ、大損害を受けてしまう。
「耐えられます。いえ、耐えてみせます」
俺が断言して、その場が静まり返った。
俺がこれまでの戦を通して、石田勢に血を流させないように徹底していたのはこれが理由だ。
敵を小早川勢だけだとすると、石田勢は最後尾で最も安全な位置と言える。しかし東軍5万人が一斉に攻め掛かって来るとなれば、最も危険な位置に変わる。
小早川討伐の知らせが来るまで、永遠に耐えなければならない。
しかし史実でも、石田勢は四方を敵に囲まれても笹尾山の地形を利用して、かなり長い時間を耐え抜いている。それどころか島左近を筆頭に優秀な家臣団が攻めに転じ、敵に甚大な被害を与えている。
「南宮山の毛利勢は動きますか」
「それは……」
十中八九動かない。何故なら向こうの実質的な指揮権を持っている吉川広家が、すでに東軍に内応しているからだ。しかしそれを断言するわけにはいかない。
「毛利などアテになるものか」
宗茂が毒づく。
「すでにこちらの策などお構いなしに高い山に陣取っている。あれでは戦となっても身動きが取れぬ。日和見を決めている証拠じゃ」
南宮山の味方は3万人だが、もはや自軍として勘定に入れてはならない、というのが西軍大名の中で共通事項になりつつあるようだ。
「それは同時に我々が小早川を攻めても、毛利は動けないということです」
勢いづく宗茂とは対照的に、吉継は淡々と話す。
「小早川は毛利家の一門。金吾殿が寝返ったとなれば、南宮山にいる吉川殿も、大坂城にいる輝元殿も動かざるを得ないかと」
「毛利に選択を問うのだな?」
「はい」
そこから話題は身内から裏切者を出してしまった毛利一族が取るであろう選択肢になった。輝元はすぐさま家康と和睦を結び、軍をまとめて所領である広島に撤収したがるであろう、というのが大筋の予想だ。
しかし秀頼君を抱えて大坂城を占拠してしまっている以上、申し開きが立たない。腹を括って家康との戦を続けるしかあるまい、と宗茂は主張した。
史実でも関ヶ原で味方が大敗し、東軍が大坂城へ迫りつつあった際も、宗茂だけは徹底抗戦を主張したという。
「後のことは、小早川を討ってからでよいのではないか」
話が逸れてきたところで、三成が軌道修正した。
「まずは松尾山の憂いを絶たねばなるまい」
「そうじゃ。この布陣であれば間違いなく勝てる」
宗茂が豪語し、吉継が静かに頷く一方で、俺は嫌な予感がした。
史実の関ヶ原も、この布陣であれば西軍が勝てると誰もが思ったはずだ。
明治時代、来日し陸軍大学校に着任したドイツ軍参謀少佐のメッケルが、関ヶ原の布陣をひと目みて「西軍の勝ちだ」と断言したという逸話が残っている。
これは造語だと言われているが、実際西軍が与えられた役割を遂行すれば、西軍の勝利は疑いないほど、完璧な布陣だった。
さて、どうなるか。
「松尾山攻めの決行はいつになさいますか」
吉継が問い、三成は顔を引き締めて答えた。
「明日、朝陽が上るのと同時に攻め掛かる」
ブクマ・評価(下記の☆☆☆☆☆)頂けますと励みになります。
なによりもモチベ向上、執筆意欲に繋がりますので何卒よろしくお願いします。




