織田家と岐阜城
長良川の左岸にそびえる金華山の西麓一帯を岐阜と名付けたのは、織田信長だという説がある。「信長公記」によると、1567年に信長が斎藤龍興の稲葉山城を攻め落とし、井口と呼ばれていたその地を、岐阜と改めたようだ。
岐阜という名の由来は、中国の周王朝が岐山という町から始まり天下統一まで至ったため、ゲンを担いでそこから取ったという説と、応仁の乱の時代からここら一帯には岐阜という地名があって、それを採用しただけという説がある。
どちらにせよ今も残る岐阜の名付け親は信長で間違いない。
俺がいまから会いに行くのは、その信長の孫である。
佐和山城から岐阜城まではそれほど離れていない。直線距離で50キロほどしかなく、車ならば現代の道で1時間半もあれば十分だろう。
とはいえ敵に悟られてはいけないため、今回の移動手段は車ではなく馬だ。
その馬も、時代劇などで見る馬とはずいぶん違う。
ずんぐりむっくりしていて、現代のポニーに近い見た目だ。
「なんすか、その子」
「可愛い」
俺にあてがわれた馬を見た、双子姉妹の感想がこれだ。
俺が馬に乗って岐阜城へ行くというのを聞いた双子姉妹は、見送りも兼ねてやったこともない乗馬に挑戦する俺を冷やかしに来ていた。
しかし用意されていた馬を見て、興味は完全にそっちへ移っていた。
現代人が思い浮かべるであろう、脚の長くてすらりとした一般的な馬、いわゆるサラブレッドは、この時代にはまだ日本にやってきていない。
そもそも品種改良によって誕生したのが18世紀初頭ごろなので、それより200年も前のこの時代には存在すらしない。
戦国時代に乗り物として使われたのも、戦場に駆り出されたのも、小さくて足の短い日本在来馬である。これはおそらく木曽馬だろう。
サラブレッドが走るスピードは時速60から70キロだが、日本在来馬はせいぜい40キロほどしか出なかったはず。
とはいえ、歩くより格段にマシなのは言うまでもない。
「ところで、その荷物はどうしたっすか?」
「これか。これは切り札だ」
俺が布でくるんで厳重に抱えている木箱は、秀信の説得にあたって必要になるかもしれないと、三成に頼み込んだものだ。どれだけ効果があるかは不明だが、悪いようにはならないだろう。
「それじゃあ行ってくる」
「先輩、お気をつけて」
「ばいばーい」
心配そうな文羽と、のんきに手を振る詩羽に見送られ、俺は佐和山を後にした。
◆
そんなわけで三成がつけてくれた道案内役の部下と、護衛役の武装した部下ふたりと一緒に、岐阜城までやって来た。
雄大に流れる長良川には現代のように橋が架かっていないため、舟で渡河しなければならない。そんな舟の上から見上げる岐阜城は格別だった。
長良川を渡れば、城下町が広がっている。斎藤道三の時代から整備されていただけあって、大坂ほどではないが発展しているようだ。そして金華山の山麓から中腹に掛けて石垣や砦が築かれており、頂上には立派な天守閣がそびえている。
ここに来るまでの岐阜城は山上にぽつんと城があるようなイメージだったが、実態は自然の地形を生かして山全体が城として機能しているようだ。
なるほど、難攻不落の名にふさわしい城に見える。
なお、金華山の標高は329メートル。現代ではロープウェイで手軽に登ることができるが、当然ながらそんなものはないので、歩きで登ることになる。
佐和山城の上り下りもしんどいのに、岐阜城の過酷さはそれ以上だ。
こうして佐和山を発ったのは早朝だったのに、ようやく山上の城郭部分までたどり着いた頃には、いよいよ陽が沈もうかという時間帯になっていた。
「ご苦労でござる」
城門で迎えてくれたのは、初老の男だった。
この男が信長の孫、織田秀信のところまで案内してくれるらしい。
「あれは誰ですか?」
「家老の木造具政さまです」
案内役に小声で尋ねると、同じく小声でそう教えてくれた。
なるほど、筆頭家臣自らのお出迎えというわけか。すでに奉行職を解かれた身分とはいえ、三成の家臣ということでそれなりの出迎えを用意してくれたらしい。
しかし俺の気のせいでなければ、俺が来ることを歓迎していないような節があった。閉店間際に訪れた客に対して、飲食店の店員が内心では「めんどくせえ」と思いながらも、一応「いらっしゃいませ」と笑顔で接客するような感じだ。
「木造殿と、我らの殿との仲はどうですか?」
「良くも悪くもない、といったところでございましょうか」
案内役はさすがに向こうの事情までは分からないようだ。
しまった、三成か左近に織田家臣団についての事情を聞いておくべきだった。秀信は21歳かそこらなので、決定権は木造ら家老が握っているだろうに。
俺が後悔に打ちひしがれていると、ついに秀信と面会の時が来た。
そういえばこれまで大物と会話するときは決まってそばに左近や三成がいたが、こうして単身で会談に挑むのは初めてだ。
やばい、そう考えるとめちゃくちゃ緊張してきた。
ひとまず作法に則り、低頭姿勢で御前に出る。
「石田三成が家臣、権兵衛と申します」
「ご苦労であった。面を上げよ」
意外と声は高い。信長もこんな声だったかもしれない。
許しを得て、ようやく秀信の顔を見ることができた。
なるほど、目鼻立ちのくっきりしたイケメンである。
信長やお市の方がそうだったように、織田家の生まれはみな男女ともに整った顔立ちをしていたとされているが、その通りらしい。
声が高いのも相まって、現代の男性アイドルグループにいそうな感じである。信長も若い頃はこんな感じだったんだろうか。
「目的は分かっておる。挙兵の加担の申し出であろう」
俺が前置きを挟む前に、向こうから本題に切り込んできた。
「詳しいことは、すでに治部殿から書状で聞き及んでいる」
なるほど、三成は秀信にも手紙を出していたか。
「徳川内府殿と一戦交えるようだな」
「はい。岐阜中納言さまのお力添えを頂きたく存じます」
「じつは会津へ向かう準備の最中に、これが届いたのだ」
なるほど、家康は織田家にも出陣要請をしていたらしい。しかし城内はどう見ても平常通りで、戦の準備をしているようには見えなかった。
「よって出立を遅らせて、よくよく考えることにした」
「岐阜中納言さまのご配慮、痛み入ります」
本当はぐだぐだと理由を付けて、会津行きを遅らせていただけなんじゃないだろうか。この線の細いイケメンを見ていると、どうもそんな感じがしてしまう。
明らかに武芸をたしなんでいるようには見えない。
「書状には恩賞として美濃・尾張二か国を与えるとあるが相違ないか」
「はい。間違いございません」
そう自信ありげに即答したものの、厳密に言えば確証はできない。三成は秀頼からのお墨付きや、豊臣家に許可を得たわけではないからだ。
「うむ。俺とて秀頼君に馳走するのはやぶさかではない」
やはり織田の現当主としては、豊臣家を恨んでいないようだ。
それならば、さっきの木造の態度が気にかかる。
「しかし織田家は家老に相談せねばならぬ。これは取り決めじゃ」
読み通り、やはり秀信は織田家当主とはいえ、若さゆえに決定権はない。織田家はあくまでも家臣たちとの合議制ということか。
「丁度良く、この場には当家の家老がいる。権兵衛殿を交えて話すとしよう」
秀信の近くには、二人の男が控えている。
ひとりは先ほどの木造、もうひとりは誰だろう。
「百々綱家と申す」
疑問に思っていると、向こうから名乗ってくれた。
俺は座ったままふたりに向き直って、頭を下げる。
たしか木造家は伊勢、百々家は近江の名家だったはず。三成の挙兵に応じそうな大名の諸事情などは、ある程度把握しているかもしれない。
「さて、治部殿の申し出だが、ふたりはどう思う」
「恐れながら申し上げます」
木造のほうがずい、と前へ進んだかと思うと、
「一考にも値せぬ事と存じます」
大きな声でばっさりとそう言い放った。
「秀頼君はまだ御年7歳でござる。よって此度の挙兵は秀頼君の意思にあらず、治部少輔殿の陰謀であることは明らか。間違っても同心してはいけませぬ。よってすぐさま軍勢を率いて会津へと下り、内府殿にこそ馳走すべきかと」
なんてこった。木造は完全に家康派だ。三成とは仲が良くも悪くもないと聞いたが、この上なく分かりやすい三成アンチじゃねえか。
「拙者も同意見でござる。これは豊臣家ではなく、あくまでも治部少輔殿の起こした戦。豊臣家の後ろ盾がなければ、治部少輔殿はたかだか19万石の身の上でござらんか。海道一の弓取り、内府殿の足元にも及ばぬところ」
おいおい、百々も家康派か。
織田家がこの三人による合議制としたら、数の上ですでに家康方につくことに軍配が上がってしまっている。
ここへ来る前は、信長の孫をどう説得するべきかと思っていたが――説得すべきは秀信ではない。この家老ふたりだ。
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