狐と狸
左近と大坂から佐和山城に戻ってからというもの、暇な日々が続いた。
なにせやることがないのである。
「あんま触るとすぐ電池切れになっちゃうんすねぇ」
「…………」
この時代にやって来て、ひと月が経とうとしている。詩羽と文羽のふたりもだいぶ疲れているようだ。現役の女子高生であるふたりはスマホを気軽に触れないというだけでキツいものがあるだろうし、なによりも辛いのが、食事に関してだった。
「ハンバーグ食べたい」
普段思ったことをあまり口に出さない文羽ですら、そんなことをこぼす始末だ。
「ていうか、この時代の人はなんでお肉を食べないんすか」
「長いこと肉食が禁止されてきたからだよ」
675年、天武天皇が牛や馬、鶏を食べることを禁止した。これが日本最初の肉食禁止令であり、その後なんと1,200年以上にわたって続いたのだ。
この時代においてはすべての人間がまったく食べないわけではないだろうが、牛肉は禁忌とされている。日本で牛肉が食べられるようになったのは明治時代のことで、牛肉を食べることが文明開化の象徴だと考えられたようだ。
「誰かひとりくらい、試しに牛を食べてみようと思う人がいないんすかねぇ」
「俺らの時代で言えば、犬や猫を食べるようなものかな」
「……そりゃいないっすねぇ」
食事に関しては、もちろん俺も大いに不満がある。これでも俺は大名の家臣なので、足軽や庶民よりは幾分ましな物が食卓に並んでいるはずだ。
それでも全体的に味付けが薄く、主食であるご飯も水気が少なく、甘みがまったく感じられない。
野菜に関してもそうだ。どれを食べてもボソボソとして味気がなく、初めは食べちゃいけない雑草を口にしてしまったかと思ったほどだ。
「現代のお米とか野菜とは別物なんすねぇ」
「俺らの知っている米や野菜の味は、品種改良された後だからな」
俺たちが不満なく食べられた物といえば漬物くらいだろうか。
これに関しては現代よりも美味しいと感じた。
「この時代の人は、よくあんな食事で力が出るっすね」
「まったくだ」
腹が減っては戦は出来ぬと言うが、左近などはあんな食事でよく筋肉が育ったものだ。なんだか別の人種であるかのように感じてしまう。
「――ところで、いつ関ヶ原が始まるんすかね」
詩羽が何気なく言い、俺と文羽は口をつぐんだ。
福島正則ら七将による石田三成襲撃事件があったのは、1599年の3月頃とされている。それが正しければいまは4月か5月くらいだろう。
関ヶ原は1600年の9月15日。まだ1年以上の猶予がある。
俺たちがこうして石田三成の下にいる以上、関ヶ原の戦いに直面することは避けられない。そして先日、左近と直江兼続が共謀したことから分かるように、歴史は変わることなく関ヶ原へと向かっているように思える。
一方で家康はなにをしているかというと、天下取りへの手始めとばかりに、まずは伏見城を手に入れたようだ。
用いたのは武力ではない。政治の力である。豊臣家を象徴するものとして、いちに大坂城がある。伏見城はその次だ。
その伏見城を、家康は自分の城としてしまった。
この事件を受け、民衆の間では伏見の家康と、大坂の豊臣家の間で戦が始まるのではないかと、騒ぎになっているようだ。
「関東の狸はやりたい放題だ。佐和山の狐はなにをしているのか」
大名同士の噂を好む者たちは、口を揃えてそう言っているらしい。
らしいというのは、すべて左近から聞いた話だからだ。
城から出られない俺たちを憐れんでか、左近はよく外の話をしてくれた。
左近はあの後も合間を縫うようにして大坂へ出かけており、馴染みにしている遊女から情報を引き出しているとのことだ。同時に伏見にも数人の密偵を放ち、家康に動きがあれば即座に報告するように言いつけてあるらしい。
左近はかなり忙しく動き回っているようで、たまに佐和山の城内で見かけても、言葉を2つか3つ交わすだけだった。
「殿の愚直さには困ったものよ」
そして左近と顔を合わせれば、俺が会釈をして顔を上げるタイミングで左近の愚痴が始まる、というのがお決まりのパターンになりつつあった。
「ああ見えて、殿は策略を好まれない。だから京や大坂に放つ忍びを取り仕切るのはわしの役目よ」
左近自身も本音を言えば、諜報活動にあたるのは得意でないのかもしれない。
むしろわしがこの手で家康を討つ、と真っ先に言いだしそうなタイプだ。
「わしは何度も家康の暗殺を持ちかけたが、殿はついぞ首を縦には振らなんだ」
俺の思った通り、左近は憎らし気にそうぼやいた。
家康の暗殺なんてものがもし実行に移され、成功しようものなら歴史は大きく変わることになる。とはいえ家康はかなりの慎重な性格で、どこへ行くにも影武者を用意していたとの逸話が残っている。おそらく決行されたところで、成功することはなかっただろう。
もしかしたら三成は、そう判断したのかもしれない。
これまで書物などを読んで俺の頭の中に出来上がっていた石田三成像は、暗殺など武士の風上にもおけぬ卑怯な行為だ、と非難するタイプだった。
しかし実際の三成はそこまで頭が固くないようだ。むしろ武士や大名に相応しくないほどの柔軟な発想の持ち主だと言える。
三成には、家康を暗殺しようとしても成功しない、左近が無駄死にするだけだと分かっているのかもしれない。それにもし暗殺が成功したとしても、それで豊臣の世が守られることはないと考えているのかもしれない。
いま家康が暗殺されれば、誰もが首謀者は豊臣秀頼だと思うだろう。それでは諸侯や大衆から、卑怯者だと背を向けられることになる。豊臣家の威光が失われるようなことがあればおのずと戦乱の世に逆戻りになり、第二、第三の家康が出て来るだけだ。ならばその人物をまた暗殺しろと言うのか――
三成ならば、そう考えるに違いない。
左近のことだから、三成の考えも理解している。しかし家康相手に真正面から正々堂々と大戦を仕掛け、打ち破ろうなどというのは、あまりにも無謀だと考えているのだ。
たしかにこのまま関ヶ原の戦いが始まってしまえば、西軍は多くの裏切りに遭い、敗北するだろう。西軍が勝つには裏切る武将を事前になんとかするか、そもそも関ヶ原ではなく別の場所で戦闘を始めるしかないかもしれない。
ちょっと待て。俺はいまなにを考えている?
完全に無意識だったが、俺はどうすれば関ヶ原で西軍で勝てるのかを考えている。そんなことをすれば歴史が変わってしまうのは明らかだ。
これはいけない。戦国時代にあてられてしまったか。それとも三成の家臣になったことで、さすがに情がわいたか。
「結局のところ、豊臣家が生き残るには、我らが殿次第だ」
左近によると、三成は相変わらず自室に籠っている。城内で見かけることも皆無だ。ただひたすらに、各諸大名への書状を書き連ねているという。
「殿がどれだけの大名を味方につけることができるかに掛かっている」
左近の言う通り、三成単独では到底家康に対抗できない。毛利や宇喜多といった有力大名を揃えることができて、初めて兵力の上では戦えるだけの軍勢になる。
しかし、数を揃えただけでは勝てないのが戦だ。事実として関ヶ原の西軍は徳川方に兵数では勝っていたが、実際に三成の味方として戦ったのは半数以下だった。
ただ味方を増やすだけでは駄目だ。
そうなれば史実通り、裏切りと傍観による敗戦が待っている。
俺ができることは三成にそのことを伝え、なんとか関ヶ原に西軍の全戦力を投入させて、裏切りの目を潰すことだろうか。
――まただ。また俺は良からぬことを考えてしまっている。
「もうじき大きな戦になる」
そう話す左近は、どこか遠い目をしていた。
「わしの死期も近いようだな」
「…………」
俺が返答に詰まっていると、左近はなぜか嬉しそうに笑いながら踵を返した。
その年の9月、家康は伏見城だけでは飽き足らず、ついに大坂城の西の丸に入った。さらに命令して四層の天守閣を築いてしまった。
大坂城へ訪れた諸大名は、秀頼か家康のどちらへ先に挨拶へ行けばよいか迷ったとされている。家康の力は日々膨れ上がり、豊臣の威光は日々薄れてゆく。
まだ、三成は動かない。ひたすら機会を待つのみだ。
そしていよいよ激動の1600年を迎える。
序 了
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