1.月を宿した人
私は、彼の目に月を見た。
驚くより先に、ぽろり、と涙が溢れた。
「えっ」
彼の声で我に返った。
慌てて頬を触る。濡れてる。
「えっ、なんで!? いや。あの、ごめんなさい!」
慌てて頬を拭って、頭を下げる。
「これは、その、なんでもないんです! 体質。そう、体質なだけで、はい。では、失礼します……!」
「は? ちょっと!?」
そして私は彼に背を向けて脱兎の如く駆け出した。
「ホントなんで……?」
あの目を見て涙が出た理由が分からなくて、それを見られたのが恥ずかしくて。
分からないまま涙を拭って、私は寮まで逃げ帰った。
□ ■ □
「ティアラドール=クラレック」
次の日。図書室に本を忘れた私を待ち受けていたのは、昨日のあの人だった。
毛先が赤く透ける黒髪と一筋の白い髪。少し気難しそうな顔立ちに、淡い黄色の瞳。
最上級生のルナイル=ヴァンカリア先輩。
魔法国家ラズクォーツを支える4大公爵家のひとつ、ヴァンカリア家の次男。
成績優秀で、将来はヴァンカリア家の守護術師や、王宮に仕える魔術師になるのだろうと言われている。
だけど、この学校において、先輩は別の意味で有名だ。
一方私は、中央都市近郊のしがない貴族の出。とはいえ、この学校内では一部を除いて階級の垣根は取り払われている。そうしないと授業や研究に差し支えが出るからだ。
「……ヴァンカリア先輩。こんにちは」
階級の垣根はないとはいうけど、先輩後輩の関係はもちろんある。挨拶をして顔を上げると、先輩の手に昨日私が借りようとした本があった。
なるほど。先輩が私の名前を知ってたのは、貸し出しカードを見たからだろう。
「どうも。ところで君さ」
「はい」
綺麗な輪郭を黒髪が縁取っている。少々不機嫌そうに曲がった唇で、先輩は問う。
「どうして俺を見て泣いたの?」
「っ!」
思わず声を喉に詰まらせた。どうしよう。それを聞かれるととても困る。
「ええと、その」
「俺さ、噂をされるのは別に良いし、それで避けられるのも慣れてるよ? でも、初対面で泣かれる程じゃないと思うんだよね」
確かにそれは傷つくことだ。理由はあるんだけど、説明してどうにかなるものじゃない。
「すみません……」
深く頭を下げると、軽く笑う声がした。
「君、素直すぎるって言われない?」
「いえ、そういうことはあまり」
「そう。まあ、いいよ。実の所、そんなに気にしてないし」
先輩は軽く笑って許してくれた。それにホッとしたのも束の間。
「――でも、その涙には興味がある」
「涙、ですか?」
思わず聞き返す。そう、と頷かれた。
「こうして待ってたのもそのためだからね」
「待ってた……」
「うん。待ってた。単刀直入に言おう。俺は君の涙が欲しいんだ」
「えっ。どうしてですか?」
「どうしてか。ふむ。そうだな」
先輩は少し考えるような仕草をして、にやりと笑った。綺麗な顔に、悪戯っぽい影が差す。
「吸血鬼は血を求めるけど、俺は血が嫌いだから――ってのはどうだろう?」
はぐらかした。何か言いたくない事情でもあるんだろうか。
「どうだろう、と言われましても。先輩は吸血鬼なんですか?」
「いいや? あれはただの噂だ。根も葉もないよ」
「そうですか……」
先輩の代名詞とも言える噂だけど、本人に否定されるとちょっと残念な気持ちになる。いや、そういう話じゃない。
私の涙に価値とかないと思う。普通の涙だ。首を傾げていると、それを見た先輩はそうだなと呟いた。
「理由を伏せたままじゃあアンフェアだというのも分かる。だけど、これは俺の個人的な問題だから、誰にでも話せる訳じゃないんだ」
「なるほど」
「君が涙をくれるというのなら、理由は正直に話すし、ちゃんと対価も出す」
「対価」
「そう、俺にできる範囲で、という条件はつくが、できることならなんでも聞こう」
「なんでも……」
「そう、なんでも」
私の涙には、先輩のような人にそんな条件を出されるほどの何かがあるらしい。
とはいえ、私が先輩に望むようなことが思いつかない。別に出世とかを望んでるわけでもない。平和にこの学校を卒業して、穏やかに過ごせたらそれでいい。……いや、ひとつだけお願いできそうなことがあった。
禁書を読み漁ってると噂の先輩なら、解決手段を持ってるかもしれない。それが私の涙でなんとかなるなら。
「分かりました。よろしくお願いします」