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七色の心臓  作者: 九頭坂本
7/8

赤色の生気

 わたしの知らなかったわたしが、目の前に映ってい

た。

 太ももまで露わになって落ち着かない、丈の短い、

桜色のスカート。

 活発で純粋な、真っ白のオーバーサイズシャツ。 

 長い横髪で隠れされていたフェイスラインが前面に

現れた、心寧と同じ、ハーフアップ。

 女性らしいというより、女の子らしい私の装いは、

以前の彼女とのデートで一緒に選び、購入した夏服だ

った。

 桜色のスカートも、オーバサイズのシャツも、心寧

が試着した私の姿を見て、可愛い、って、言ってくれ

たものだ。

 でも、普段のわたしなら、こういう着こなし方はし

ない。

 いつもは、もっと大人っぽく、落ち着いた印象に映

るようにするのだが、今は、特別だった。

「真琴の全てを知りたい」

 心寧にそう、言われて、わたしも、全部知って欲しい、って、思ったから。

 わたしの新しい一面を知って欲しくて、初めて、こ

んなに丈の短いスカートに脚を通した。

「でも、これはこれで、わたし、可愛い」

 鏡に映るわたしは、キラキラと輝く瞳と柔らかい黒

色の長髪が目を引く、純粋な少女らしい、女の子だっ

た。

 少し前までのわたしの影がちらつくが、目の中の真

っ直ぐな光がそれを焼き払う。

 わたしは、濁った黒色の瞳しか知らなかった。

 わたしの中に、こんなにも輝いていて、綺麗な光が

あることを見つけ出してくれたのは、彼女だ。純粋な

少女であることを教えてくれたのも、彼女。

 きっと、心寧とわたしは、この先もずっと一緒にい

て、新しいわたしのことも、心寧の、初めての顔も、

沢山、知り合っていくのだろう。

 永遠みたいに長く思える未来は、実は案外、短くて、

一瞬で終わってしまうかもしれない。

 今、この瞬間に終わってもいい、って、思えるくら

いに、心寧との日々を愛したい。心寧に、愛されたい。

 不意に、彼女の甘いヘアオイルの匂いが香った、気

がして、わたしの心から七色の感情が溢れ出してきた。

「すごく、幸せ」

 気がつくと、鏡に反射するわたしは口元が緩んで、

だらしなくて、それでも、満たされたような、初めて

の表情をしていた。

「こんな顔は、心寧には、見せられない、な」

 恥ずかしくなって、両手で顔を隠す。わたしは本当

に、ただの、女の子なのだと、実感した。

 化粧室を出て、広いリビングのソファに腰を掛ける。

ガラス張りの壁から、爽快な青色の空が広がっている

のが見えた。

 付けっぱなしになっていたテレビから、無感情に何

処かで起きたらしい、事件の概要を読むニュースキャ

スターの声が聞こえてくる。

 また人が死んだ、だのという内容らしい言葉の羅列

と、ソファの軋む乾いた音が混じって、何に遮られる

ことも無く、部屋の中に反響していった。

 家には、わたし一人だった。

 金だけ渡し、わたしを置いて、両親が滅多に帰って

こないことは、いつものことだった。寂しくなって、

人肌が恋しくなってしまうようになったのは、心寧の

体温を知ってからだった。

 心の中で生じた寒気に、切なくなって、スマホを起

動し、レインを確認した。

 昨夜、心寧と交わしたメッセージの履歴が表示され

る。一つ、一つのメッセージに巡る熱い感情の温度に、

心が癒されていくの分かる。

 今日はこれから、心寧との、デート、の約束があっ

た。

 浮かれた感情が透けて見えるわたしからのメッセー

ジが、今更、恥ずかしくなって見ていられなくなる。

 でも、恥ずかしいのと同じくらいに、いや、それ以

上に、わたしは彼女と一緒に過ごす今日が、楽しみで、

嬉しかった。

 居ても立ってもいられず、バッグを腕に提げる。

 待ち合わせ場所に行くには少し早かったが、それで

も構わなかった。彼女を待つ時間も、甘い味がするか

ら。

 テレビの電源を消し、化粧室に戻る。

 もう一度だけ、姿見で自分の姿を確かめた。

「うん、可愛い、可愛い」

 最後に、忘れ物がないか、バッグを開く。

 不意に、ピンク色の小さな財布の中に保管され続け

ている宝くじの存在を思い出し、彼女との初めてのデ

ートの記憶が、蘇ってきた。

 気付けば、わたしは、あの頃の、ずっと先にいる。

 前を向いて、道を歩いている。

 わたしからは、夢みたいな、七色の幸福な未来が見

えていた。

 わたしと愛し合ってくれる心寧と、手を繋いで、ど

れほど困難なことも、どれほど幸福なことも、一緒に

歩いていける。

 そんな未来の方へ、一歩を踏み出せれば良かった。

 玄関のドアの鍵を開け、外へ踏み出す。

 刹那、見覚えのある男の影が、私を覆い隠した。


 いつからか、拳銃を握る手が震えなくなっていた。

 相手を殺せば、私の安全が保証される。

 怖がっているうちに、次第に恐怖は殺意に変わり、

私はずっと強くなり、そして、弱さに溺れていた。

 汚い人間を殺すことが、誰かを幸せにする、って、

それが正しいことなのかすら分からないまま、無理矢

理に信じ込み、自分を納得させた。

 目を覚さない彼の唇の感触で自分を保ち、力を振る

って自分を守る。

 私はただ、必死だった。

 誰かを幸せにする。

 その為に、生まれてきたはずだった。

 七色に輝いて見えた光を頼って、それだけを追って、

それだけを信じて、それだけに縋って、私は、生きて

きたはずだった。

 私が私である為でもあった願いは、呪いみたいに、

心を縛りつけた。

 逃げてしまおうと足掻いても、それだけは解けない

心の檻。私が私であることを辞められないのは、それ

こそが人の死であるかもしれない、という予感があっ

たからかもしれない。

 私が誰かを撃ち殺すように、自分を生きられていた

人間が死んだとしても、誰かの心の中で、その人間は

生き続ける。だが、自分を生きることを辞めれば、次

の瞬間から、生き続けるのは本当の自分自身ではない。

 所詮、私は死にたくないだけかもしれない。

 七色に見えた光も、本当は光を放ってなんていなく

て、自己満足の為に作り出した幻想かもしれなくて、

初めから、私は現実から逃れるために幻想に酔ってい

たのかもしれなくて。

 いや、いっそ、そうであって欲しかった。

 私は本当に、こんなに苦しい思いをする為に生まれ

てきたのだろうか?

 しかし、心の中の七色は光を放ち続ける。

 誰かを幸せにしたい。

 誰かの幸せな顔を見たい。

 そんな、誰もが心に抱くような願望が、私の黒色の

全てでもあった。

「五月蝿いな」

 制服の胸ポケットに入れてある業務用の携帯電話が

また、ろくでもない仕事の通達に震える。

 彼と二人でこなしてきた業務を一人で処理するには、

人殺しの称号と極度の肉体の疲労が対価として必要だ

った。

 洗っても、洗っても取れない両手の赤色を諦めて、

私は重い体を起こす。足取りは重く、呼吸をしている

感覚が無い。

 次の仕事は、誘拐事件らしい。

 文目高等高校の近くの、高級住宅街で女性が誘拐さ

れる犯行の一部始終が目撃されたそうだった。

 一体、何故、こんな明るい時間帯に誘拐を決行した

のか、不思議だった。計画的な犯罪ではないのかもし

れないし、不慣れな者達による犯行の可能性もあった。

 さらに不可解なことは、誘拐を決行した彼等が、女

性を連れ去る直前、彼女の前に跪き、地面に額を擦り

付け、深く頭を下げたのだという。

「何だ、これ」

 異質な事件だった。

 女性を誘拐するのに、頭を下げる必要は無いし、頭

を下げられたからといって、誘拐されなければいけな

い訳でもない。

 しかし、彼女と犯人達の間には、当人達にしか分か

らないような、複雑な何かがあったのかもしれない。

 そもそも、本当に誘拐事件なのか、定かでもないが。

「私には、関係ないけど」

 私はただ、何も考えず、もしもそれが本当に事件な

のだとしたら、女性を誘拐した彼等を殺して仕舞えば

いいだけだった。

 いや、そうしなければ、この町が、回らなくなるの

だった。

 タクシーを捕まえ、犯人達が立て籠っているらしい

東京の端の、倉庫に向かう。

 コンビニで買ってきたおにぎりを齧りながら、タク

シー窓の外側に流れる街の景色を眺めた。昼下がりの

街並みも、普段と変わり映えせず、面白くもない。

 タクシーを拾ったのは商店街の近くだったが、到着

には多少の時間を要する。

 おにぎりを食べ終えた後は、静かに目を閉じるだけ

だった。

 しばらくそうしていると、瞼のうちの暗闇に薄らと

浮かぶ、記憶があった。

 倒壊した家々、潰れた商店街、濁った海の描く水平

線。誰からも忘れ去られてしまったのように人の気配

のしない、不気味な雰囲気。

 私達が、半殺しで許された、あの場所。

 記憶は定かではなかった。

 だが、今、向かっている現場が、その場所付近であ

ることは確かな事実で、蘇る衝撃と体温が、心音を煩

く鳴らし、汗の膜で肌を覆わせる。

「殺せばいい、殺せばいい」

 力に酔って、暴れ出す心を紛らわせる。

 中毒的な甘さの安堵感が、私を満たしていったよう

な、感覚はあった。歪んで、物が捉えられなくなって

いく視界、薄れていく意識に深く、溺れていく。

 覚えのある快楽が、体を満たしていった。

 遂に意識を手放し、悪夢に息ができない。


 すごく良いニュースと、すごく悪いニュースがあっ

た。

 どちらから聞きたい?

 なんて聞いてみたかった相手が、約束のデートをす

っぽかしたことが悪いニュースだ。特大級の、すごく

良いニュースを掻き消してしまうくらいに、不安と恐

怖が心の中を切り裂き回し、血が吹き出す。

 約束の時間から、二時間が経過していた。

 人通りの少ない花咲駅のホームの、いつものベンチ

で、いつまで経ってもやって来ない彼女を待ち続けた。

 世界を色付かせるような、真琴の髪の匂いが香って

くることは遂に無く、約束の時間から数分後にレイン

でメッセージを送信してから、スマホを確認すること

が出来なかった。

 不安と動揺が、現実を直視することを拒んでいた。

 今や、真琴は、私の半身だった。

 極めて良好だと思っていたはずの私達の関係に、私

の気付いてあげられぬ間に、亀裂が走ってしまったの

かもしれない。

 万が一、それが真実だったとしたら。

 そう考えただけで、未来が陰って、酷く全身が震え

て、心の中の感情の流れが狂って、何も分からない。

 真琴に何かあったのかもしれない、なんて頭に浮か

ぶことも無かった。

 ただ、自分を恨むだけで一杯だった。

 一緒に幸せになろう、って、誓い合った人を勝手に

疑って、恐怖に囚われるよりも先に、信じるままに、

彼女の身を案じるべきだったのだ。

 涙の枯れた頃、ようやく見ることのできたレイン。

 私の送信したメッセージに既読が付けられていない

ことを目にしてしまい、心臓の鼓動の遠のく感覚から

逃れようと、咄嗟に起動したレインの位置情報共有サ

ービス。

 画面に表示された不可解な情報に、思考が止まる。

 真琴がいるのは、花咲町の端。人が住んでいるのか

さえ定かでは無く、寂れた倉庫があるだけの場所だっ

た。

 真琴が何か、恐るべき非現実に巻き込まれた事を悟

るまでに、時間はかからなかった。

 冷たい電流が血管を伝い、体が勝手に走り出す。

 駅を出て、タクシーを捕まえる。

 捲し立てるように場所を伝える、私の荒げられた声

は、初めて聞くような色をしていた。

 心の温度が、半分に欠けていた。


 野球のボールのような大きさの、凹凸だらけの歪な

形をしたコロッケには、脳を揺らすような直線的な美

味しさがあった。

「美味しいですね、これ」

「それのお陰で、俺の店はなんとかやれてるからな」

 規則的に並べられた小さな窓から入ってくる太陽の

光の線だけが影の中に浮かび上がる、薄暗い倉庫に、

わたし達はいた。

 肉山さん、本間さん、涼子さん。

 かつて、一緒にチラシを配った三人に加えて、初対

面の女性が二人いた。文目商店街で八百屋を経営して

いる八木さんという、目の大きな女性と、居酒屋を経

営している、酒倉さんという明るい女性だった。

「昔から、変わらないですよね、このコロッケも」

 涼子さんは愛おしそうに口にする。

 人形みたいに白い肌色も、暗闇に隠れて見えない。

「うちから仕入れたじゃがいも使ってるだけあって、

味はいいんだけど」

「親父さんが綺麗な形のコロッケを作れるようになっ

てしまったら、それはそれで、商店街一の人気商品も、

売れなくなってしまうかもしれませんけどね」

 八木さんと本間さんは顔を見合わせ、口角を上げる。

「不器用であり続けられる事も、才能かもね。全ては、

捉えよう、だ」

 酒倉さんは言い、コロッケに齧り付く。

 交わされる会話の裏で鳴り続ける無機質な電子音に、

誰かの溜息が聞こえたような気がした。

 暗闇の中で光を放つ、スマホの画面を見つめながら、

肉山さんは呟く。

「繋がらねえな」

 わたしを取り囲むように、四人は位置取っていた。

 私含む全員が倉庫の床に座り、コロッケを食べてい

る。四人が床に転がしてある拳銃の銃口は、他人の方

を避けて置かれていた。

 摩訶不思議な現状だった。

 わたしは、今頃は恋人とデートをしているはずだっ

たのだ。唐突に現れた彼等の犯罪行為に手を貸し、古

い倉庫の床に座ってみんなでコロッケを食べながら雑

談をしている現状を今朝のわたしに聞かせても、おか

しな話だと笑われて終わりだろう。

 実際、今の自分が不思議な夢の中にいるような感覚

は、拭えなかった。

 数時間前、玄関のドアを開けた刹那、わたしを覆い

隠した影は、商店街の彼等のものだった。

 視線が交わるが早いか、彼等はわたしへ頭を下げ、

商店街の復興に協力して欲しい、と話した。頼れる金

融機関もなく、残された最後の手段なのだ、と。

 金利をつけて、何年以内に返す、などと言っていた

ような気がするが、よく覚えていない。

 要するに、彼等のグルになって犯罪行為を敢行して

欲しい、ということだった。最後の手段、なんて。も

のは捉え様らしい。

 しかし、一体誰が、こんな滅茶苦茶な願いを受け入

れるだろうか?

 彼等の要望が叶えられた事は、実に奇跡と言って良

かった。

 頭を地面に擦り付ける大人達を前に、身の危険を感

じていたわけもないのに、何故、わたしは首を縦に振

ってしまったのか。自分でも、よくわからなかった。

 誘拐をするだけなら力づくでやればいいところを、

そうしなかったことに、面白みを感じたのかもしれな

い。

 儚くて綺麗な、彼等の未来を見てみたかったのかも

しれない。

 お父さんとお母さんに、構ってもらいたくなったよ

うな、そんな気もする。

 彼等の用意したミニバンに乗り込んだ時に、黒色の

拳銃が一箇所に固められて、無造作に置きっぱなしに

されていたのを視界の端に捉えた時は、少し、楽しく

なった。彼等が銃を撃つのは、誰かを守らなければい

けない時だけだ。

 まさしく愚直に真っ直ぐな彼等の姿に脳をやられた。

 心寧のデートのこともわからなくなってしまうくら

いに、彼等のことが七色に光って見えてしまったのは、

彼等の強さと誇り、そして純粋さによるものだった。

「でも、わたしを選んだのは間違いだったかもしれま

せん」

 彼等は、一斉に視線をわたしに向ける。

「わたしの両親、ご飯、作ってくれないんです。助け

ようと、してくれるかも、分からないと思いますよ」

 言うと、室内を覆う重たい空気に沈黙が這った。

「そんなことはない」

 肉山さんは言う。会話は、それで途切れてしまった。

 今朝、ミニバンに乗り込んだ後、家から倉庫に向か

うまでに、彼等はわたしの両親に電話を掛け、身代金

を要求しようとした。

 しかし、何度電話を掛けても繋がらず、現在に至っ

てもなお、わたしの両親と連絡は取れていない。

 家を出てから、既にニ時間が経過していた。

「電話、どうして繋がらないんだろう」

 涼子さんの小さな独り言に、わたしは首を捻ること

しか出来ない。

「分かりません」

 わたしの言葉を最後に、再び沈黙が訪れる。

 泥のような時間だった。

 窓からの太陽の線だけが浮かび上がる薄暗い倉庫の

中で、彼等は絶えず両親の携帯電話に電話を掛け続け

る。

 誰も拳銃に手を伸ばそうともしないが、彼等の心の

裏側に染まった焦りの感情の色が不明瞭な空気の中に

流れ出しているのが、座り込み続けるわたしの視界か

らはよく見えていた。

 彼等の必死に目を逸らしている、宙に浮かぶ巨大な

嫌悪感の正体はわたしへの罪悪感と、無機質な材質の

床の温度だ。

 不気味な安心感が、不思議と心地良い感じがして、

眠気を誘った。

 世界が遠のいていく感覚があった。

 暗転していく視界にも、崩壊を始める現実感にも、

何も思うこともなく、ただ、眠たかった。

 彼等は人殺しにはなれない。しかし、だからこそ、

わたしは捕えられ続ける。この場を、何よりも強い力

で支配しているのは、拳銃ではなく、人間の感性だっ

た。

「真琴!」

 深い、意識の底から引っ張り上げられるような感覚

が襲い、視界が開ける。

 倉庫の暗がりの先に立っているのは、目を赤く泣き

腫らした、一人の少女だった。

 肩まで流れる明るい黒色の髪に、揺れる、白いプリ

ッツスカートが太陽の線に透けて、不安定に揺れる目

の中の光が宝石みたいに輝いて見える。

 わたしと同じ、初めてのデートで買った服で着飾っ

た心寧が、窓の側に立っていた。僅かに上下する肩と

荒い呼吸音が倉庫中に響く。

 わたしの元へ駆け寄ろうとした彼女と、立ち上がる

透明な人影。

 立ち上がった拍子に足に飛ばされ、引き摺るような

重たい金属の音が心寧の足元で消え、彼女は悟る。

 しかし、無骨な黒い殺意の塊の存在を認めながらも、

彼女の呼吸は止まらず、わたしから目を逸らすことは

ない。

「お金、ですよね。肉山さん」

 脚の震えている肉山に対し、温度の無い声色で彼女

は言う。

 心寧を安心させようと、その場で親指を立ててみた

りして、思いつく限りのジェスチャーをして見せる。

 彼女の問いに静かに頷く肉山に、影の中で、心寧は

小さく笑ったように、見えた。

「普通を犯すことは、幸せになるための最低条件。私

は肉山さん達が、間違えているとは、思いません。真

琴も、元気そうだし。ですが、あるんです、いいニュ

ースが」

 心寧は言い、肩に下げたバッグに手を入れる。

 その瞬間だった。

 倉庫の扉の、蹴り破られる破裂音が暗闇を晴らす。

 音の発生源に立っている、拳銃を右手に構えた女性

警官。

 彼女の背後に立ち竦み、こちらを盗み見ている無数

の警察官達の影が、得体の知れない化け物のように不

気味に蠢き、無数の冷たい眼がこちらを見つめている。

「蛍さん」 

 心寧はわたしの知らない誰かの名前を呟き、女性警

官の方へ向き直る。

 次の瞬間、唐突に、銃声が弾けた。

 青色の炎が銃口から噴き出して、弾丸が暗闇を切り

裂く。僅かに熱を帯びていた弾丸は心寧の顔を掠め、

肉山の首を擦る。

 千切られ、桜のように舞い散る心寧の髪に、肉山さ

んの首から噴き出した血飛沫。

 床に飛び散る血液の色に、わたしと心寧、商店街の

彼等、ここいる誰かが、もしくは皆が、殺されようと

しているのだと、死の予感が背筋を伝っていく。

 四方八方から鳴り出す足音と心音。

「蛍さん!」

 心寧の声の先に、咄嗟に視線を向ける。

 白色の影の中に、青色の炎が煌々と燃える銃口が、

隣の涼子さんに向けられているのが見えた気がして、

反射的に体が動いていた。

 両手を力任せに押し出し、涼子さんの体を突き飛ば

す。確かに彼女の体に触れた感覚を得た直後、銃声が

鳴る。

 渦を巻く青色の炎が、わたしの目の前を通過し、そ

の先で起きた炸裂音を聞いた。

 崩した体勢を立て直し、顔を上げる。

「あ」

 女性警官と、目線が交わった。

 彼女の目は、綺麗だった。

 世界を見ないように、必死に自分の心の光を隠そう

として苦しんで、それでも抑えきれずに溢れた光が瞳

の上で乱反射して輝いていて。

 気づけば、わたしは彼女に手を伸ばしていた。

 彼女の苦しみを取っ払いたかった。そして、目の中

にある、わたしとも、心寧とも違う七色の光を、この

目に焼き付けたくて、堪らなくなっていた。

「真琴!」

 心寧の声に、ようやく気が付いた。

 わたしが彼女に手を伸ばす代わりに、彼女から差し

出された手に握られた拳銃の銃口が、眼前にあった。

「真琴、ちゃん?」

「え?」

 女性警官はわたしの名前を呟き、酷く怯えるように

視線が揺れた。

 両手で覆い隠すように、影に覆われた彼女の瞳から、

溢れる光に目が眩む。

 銃弾が放たれていていた事に気づいたのは、後ろで

起きた炸裂音によってだった。

 両手を広げ、わたしを守る為に女性警官に向き合う

心寧の後ろ姿が、影になって目の前に立っていた。

「見逃してください、蛍さん」

 蛍は後退り、心寧の体を避け、肉山達の方へ銃を向

けようと腕を振りかぶる。彼等は用意した拳銃を構え

ることもなく、ただ、彼女達の方を見つめ、互いを庇

い合うだけ。

「みんな、いい人です。仕方ないんです」

 心寧は真っ直ぐに口にし、荒っぽく両腕を伸ばす。

彼女の両手は蛍の拳銃の銃身を力任せに掴み、銃口を

自身の脳天に向け、押し付ける。

「事はすぐに解決します。大丈夫です、蛍さん」

 掠れるような、蛍の狂った呼吸音の後、金属の強く

擦れ合うような、酷い歯軋りの音が響き渡った。

 蛍が力を入れれば、力任せに振り解けるであろう拘

束を、彼女は解けなかった。人差し指は引き金から外

され、心寧に乱暴も出来ず、ただ、縋るように、蛍の

体は強張る。

 蛍の目の中の影が、心寧の手によって無理矢理に除

かれていく。目の中から七色が溢れて、宝石に現実が

反射する。瞳の奥で流れる涙に映る、彼女の心の痛々

しい絶景が、わたしには見えていた。

「ほら、頭、撫でて下さい」

 心寧は拳銃を離し、蛍の左手を取り、頭に乗せる。

「蛍さんの柔らかくて大きい手、暖かくて、私、大好

きですから」

 蛍の理性を超え、彼女の左手は優しく、心寧の頭を

撫で始め、拳銃を床に落とす。

 そのまま、動かなくなった蛍の唇が震え、声もなく、

言葉が溢れた。

「人を殺すことも出来なくて、もう、私に何も、残っ

てない。誰のことも、幸せに出来ない」

 心寧の体温と頭の感触は、蛍にとって、それはそれ

は残酷だった。惨たらしく、蛍の縋る幻想を振り払っ

て、望まない、歪んだ現実を突き付けられる。

 それでも、止むことの無い七色の光に、彼女の目は

輝き続ける。

 苦しそうに両目を瞑り、心寧の体を抱き締めようと

伸ばした両腕は、あっけなく拒まれ、彼女は独りだっ

た。両手で顔を覆い、中から聞こえてくる乾いた笑い

声には、温度が無かった。

「良いニュース」

 心寧は言い、肉山の方を振り返った。

「これ、真琴と交換して下さい」

 バッグの中から取りだした財布。

 心寧の差し出したのは、新聞の切り抜きと、一枚の

宝くじだった。

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