橙色の海底
肉の肉山、と書かれ、可愛いんだか、可愛くないん
だか微妙な豚のイラストの描かれた袋を開けると、タ
クシーの車内に美味しそうな油の匂いが広がった。
袋の中では、野球のボールくらいの巨大な、歪んだ
球のような形のコロッケが圧倒的な存在感を放ってい
る。
「確かに、中々ユニークな形をしてますね」
物珍しそうに、隣に座る葵は袋を覗き込み、コロッ
ケを観察していた。
目を閉じ、袋の中の匂いを嗅いでみると、刹那、重
たい油と牛肉の脂の匂いに脳内を支配された。お腹が
蠢き、下品なお腹の音が鳴ってしまいそうになるのを
堪えつつ、口を開いた。
「形もそうだけど、何より、大きいよ、これ。食べ切
れるかな」
「蛍さんは食いしん坊ですし大丈夫だと思いますけど」
「女の子に食いしん坊、は失礼だから」
言いながら、視線を手元に戻す。
袋を隔てて、じんわりと熱が伝わってくる。買って
すぐに比べれば少し冷めてしまったが、コロッケはま
だ温かかった。
心寧と別れた後、肉屋の肉山の前を通りかかった際、
珍しく売れ残っていた数個のコロッケを発見し、購入
したものだった。
昨夜、このコロッケが食べてみたい、と葵が言って
いたことを覚えていた。ほんの小さな恩返しのつもり
でもないが、私が彼に貰ったあまりにも大きなものに
少しでも報いることが出来れば、幸福だという気持ち
が心の片隅にあった。
「いただきます」
隣で彼の小さな呟く声が聞こえてきた直後、食欲を
駆り立てるような軽快な音が響いた。
私も彼に倣い、いただきます、と口にし、狐色の野
球ボールにかぶりつく。
爆発的に口内に広がる油の甘みと牛肉の旨み。しっ
かりとしたじゃがいもの食感とほのかな甘みをベース
に、繊細さなど微塵も感じられない、直線的で暴力的
な味わいに頭を殴られるような感覚。
「美味しい!」
思わず、大きな声が出た。
見ると、葵も目を見張り、大きく頷いた。
「美味しいですね」
彼と視線が合う。
一瞬だけ、心臓の音が耳元で聞こえた。
こうして、似たような感情を共有して、隣同士で居
るなんて、いつ振りだろう?
思い返しても、思い返しても、彼との記憶が海に沈
んで、見つからなかった。
こんな時間が、幸せだと思った。
こんな時間を、ずっと過ごせたら良いと願った。
タクシーが目的地に到着したのは、それから十五分
ほど経過した頃だった。とうにコロッケを食べ終え、
大きな幸福感と若干の胸焼けに襲われていた。
タクシーの料金を支払い、外に出ると、空気がやけ
に清々しく感じられた。車内に充満していた油の匂い
によるものだろうが、次に利用する客とドライバーに
とってはたまったものではないだろう。
「怖いくらい、人気ないね、ここ。まだ日、出てるの
に」
私達が立っているのは、老朽化の酷い倉庫群の前だ
った。この場所は、東京の端の、花咲町の端
倒壊した家々、潰れた商店街、濁った海の描く水平
線。誰からも忘れ去られてしまったのように人の気配
のしない、不気味な雰囲気が漂っていた。
「こんなところ、日本にあるんだね」
「俺も初めて来ましたけど、確かに、犯罪行為にこれ
ほど適した場所も中々無いでしょうね」
葵は周囲を見渡しながら、感心したように口にする。
三十分程前、警察に通報があった。
男の声だったが、取り乱した様子で、今、私達のい
るこの場所で、殺人があっただか、何だかと捲し立て
てきたらしい。
詳細は不明。
調査も兼ねて、だのと言って、いつも通り私達が突
撃させられることとなった。
「こんな所で何しても、見つかる事なんて無さそうだ
けど」
思ったままに言うと、葵は深刻そうに賛同した。
「俺達を誘い出す罠、の可能性もあります。気を付け
て。危なくなったら、逃げてください」
「逃げるとしても、葵と一緒だから」
言うと、彼は困り顔で頭を掻いた。
「まあ、負けなきゃ、いいのですからね」
倉庫群の中の一つの入り口に、怯えた顔をした警察
官達が群がっていた。
近づいてみると、彼等はいつも通り、生気のない顔
をして小刻みに体を震わせている。
「状況は?」
葵が聞くと、彼等のうちの一人が口を開いた。
「つい、先程まで、倉庫の中で、数多の銃声と、怒鳴
り声が、響いていました。今は静まり返っていますが、
ほんの、数分前のことです」
「数多の銃声に、怒鳴り声?何があったの?」
「分かりません」
「他に、何か情報は?例えば、中に潜んでいる人数、
とか、推測で構いませんが」
葵が聞くと、彼は目を閉じ、首を横に振った。
「まあ、仕方ありません。いつも通り、ですよ。蛍さ
ん」
葵は無感情にそう言って、腰から拳銃を抜き、構え
た。私も倣い、一人で倉庫の入口へ歩いていく彼の後
を追う。
倉庫の中は霧がかかったみたいにぼやけて、薄暗か
った。所々に設けられた灰色の窓を通して差し込む陽
光の線が、宙に浮く埃に反射して光っていた。ギリギ
リ人が隠れられるくらいの木箱のようなものが、そこ
ら中に転がっている。
一歩踏み出すと、硬い足音が倉庫中に反響した。
灰色の影が私達を飲み込み、余韻を残し、不気味に
消えていく足音は、奥に潜む冷たいものの存在を予感
させた。
銃を構える右手の力を入れ直す。
恐怖に支配されたあの夜から、銃に触れると手が震
えて止まなかった。正確に狙いも定まらない、それで
も、私にも何か、力になれることがあると思えること、
恐怖に、立ち向かうことが出来るのは、葵が、すぐ隣
にいてくれるからだった。
「血と、火薬の臭い」
倉庫の中の臭いは、先程まで銃撃戦が行われていた
ことを裏付けるようなものだった、奥に進むほど、濃
くなっていく血と火薬の臭いに目眩を誘われる。
不意に、音もなく倉庫の最深部に人影が現れたこと
に、私達は気が付けなかった。
「甘いものは好きか?」
突然聞こえてきた男の声に、咄嗟に飛び退く。木箱
の裏に身を隠し、聴覚に意識を集中させる。
男の軽快な笑い声が弾け、倉庫の奥で深い黒色が肩
を揺らした。
「そう警戒するなよ。ここにいるのは、俺、一人だけ
だ。安心しろ、俺はお前らの敵じゃない。まあ、味方
って訳でもねえけどな」
陽気な若い男の声が、少しずつ近づいて来るのが分
かる。覗くと、ライフルのようなものを両手に携え、
こちらへ歩いてくる影があった。
「貴方は、何者ですか?」
葵の問いに、男の歩様が一瞬、乱れた。
「俺はただのバンドマンだ。見るからに、そうだろ?」
直後、何か、正体不明の物体が鈍い音を鳴らし、私
達から数メートルの近くに落下してきた。
身構え、落下してきた物体の方へ視線を向ける。
「見ろよ。そいつ、甘い物を食べる為に生まれてきた
ような野郎なんだよ。何せ、ついさっきまで甘ったる
いパフェ食べてたんだからな。こんな場所で、信じら
れないだろ」
男は愉快なことでも話すみたいな声色で言った。
男に投げつけられた、物体の正体。
それは、首の半ばで千切れた、男の頭だった。
「何が、目的ですか?」
葵の声色は乱れない。
「別に、お前らだけに用があったわけじゃないんだ。
俺の目的は、ほとんど果たしちまった。ほら、見ろよ。
奥に積まれた死体の山。俺は働き者だろ?お前らみた
いな奴らには、負けるけどな」
「警察に通報したのは、貴方でしたか。俺達に、何の
用ですか」
「何の用ですか、って、分かるだろ。俺はバンドマン
だぜ?一曲聞いてもらうんだろ」
男は立ち止まる。
視認出来る限り、男はギターケースのようなものを
背負い、ライフルを手にしていた。葵よりも背が高く、
体格もある。
目を凝らすと、倉庫の最奥に数多の倒れ込む人影が
見えた。男の言うように、人影が本当に全て死傷者な
のだとしたら、何ともないような風なこの男は、一体
何者だ?
「まあ、そういうことだ。俺はお前らに用がある。せ
めて、姿くらい見せてくれよ。目を合わせる事は、人
間のコミュニケーションの基本だろ?」
倉庫の中に、男の声が反響する。
葵は、口を開かなかった。
男の声の残響だけが、影の覆う空間に木霊する。
その時、葵の方から瞬間的に三度、拳銃を硬い地面
に打ちつけた音が聞こえてきた。彼からの、合図だ。
心臓が握り潰されるような感覚があった。
葵と、私が傷ついてしまうかもしれないことへの恐
怖が体を震え上がらせるが、しかし、合図に従わず、
彼一人を危険に晒してしまうことへの恐怖がそれを上
回った。
何度も繰り返し、体に染みついた動作が震える体を
支配し、無理矢理に体を動かした。
瞬発的に右脚で地面をを蹴り、体を丸め、木箱から
姿を見せると同時に、拳銃を男の方へ向ける。
刹那的に狙いを定め、引き金を引いた。
「外した?」
男の影は、その場に立ったまま、動かない。
葵の放った銃声が響くも、男は身軽に身を翻し、倒
れない。
姿勢を整え、再び狙いを定める。
視線の先で、男の影の構えるライフルの銃口がこち
らを向いているように、見えた気がした。
直後、目の前で光の塊が弾け散った。
両腕から凄まじい衝撃が全身を伝い、意識が激震す
る。
一瞬の暗転の後、気付けば、視界一杯に倉庫の天井
が映っていた。
両腕に痺れるような感覚が残っている。
全身の筋肉が強張り、体の自由が効かない。
「蛍さん!」
葵の私を呼ぶ声に、反射的に立ちあがろうとするが、
膝が笑って、その場で座り込む。
上がらない両腕の先の拳銃は、男の銃撃によって半
分に砕けていた。奇跡的に拳銃が銃弾を防いだのか、
それとも男は拳銃を狙い銃撃を放ったのか。
恐らく、後者だった。
葵は私の下へ駆け寄りながら、男に向けて銃弾を放
つ。
「二人で手繋いで仲良く生きてきたような奴らが、自
己だけを頼って一人で苦しんできた人間に勝てる訳が
無いと思わないか?」
銃弾は、男を掠めすらしない。
「まあ、それでもお前らが同時に撃ちでもすれば、当
たったかもしれないけどな。二人でなら、生きれらる
くらいだからな」
男のライフルの銃口が、私の心臓に向けられる。
直感的に理解していた。
男が引き金を引いた瞬間、私は死ぬ。
不思議と、恐怖感は無かった。動かない体と砕けた
拳銃は、私の死を示唆するアクセサリーみたいで、苦
痛だった毎日が終わるのだと思うと、簡単に全てを諦
められてしまいそうだ、と、一瞬だけ、頭を掠めた。
「蛍さん!蛍さん!」
遠くから、私の名前を呼ぶ葵の声が、私の中の恐怖
心を蘇らせ、再び湧き上がらせた。
私は叫んでいた。
「置いて行かないで!」
甲高い絶叫が世界を引き裂く。
葵は、戦闘を放棄した。
でたらめに拳銃の引き金を引き、動けない私を救う
為に、必死に駆けた。
影の降る中で、互いに手を伸ばす。
だが、垣間見えた希望は、簡単に打ち砕かれた。
男の影が笑っているみたいに、ふらふらと揺れて、
ライフルの引き金は引かれた。
耳の痛くなるような破裂音を纏った冷たい銃弾は、
血肉の満ちた胸部を貫いて、艶やかな赤色の鮮血は花
火みたいに光って咲いた。
赤色の光の中心で、力尽き、倒れ込む。
鈍い音が、世界を揺らす。
「どう、して?」
私の眼前に、銃撃を受けた葵が倒れていた。
認めたくない、と訴える心が事態を受け入れず、た
だ、彼の息を確かめようと、上手く動かない体で這い
ずり、虫みたいに、彼に近づいた。
「血が、血が」
倒れた葵の心臓のあたりから、多量の流血が見られ
た。血溜まりが広がる、彼の体温が、失われていく。
「大丈夫、助かる、助かるから」
私は葵の手を握る事しか、出来なかった。
彼にかけた言葉も、私が、彼の死を受け入れたくな
いだけの、汚い言葉の羅列でしかなかったのかもしれ
ない。
「置いて行かないで」
視界が、暗転を繰り返す。しかし、彼の胸部から流
れる血液の赤色が、脳裏に焼き付いて止まない。
瞼の裏が真っ赤に染まって、暗闇が白色に化ける。
心の輪郭の薄れていく。
私が、私でいられた理由が、消えていく。
「いい男を捕まえたもんだな。妬ましいくらいだ」
崩壊する世界の中で、空から男の声が聞こえた。
直後、安らかに眠りにつくように、全身から力が抜
けた。瞼の裏の赤い色だけが、私の世界の色に変わる。
徐々に溶けて、薄れていく意識の中を、漂う。
遠くから聞こえてきた、救急車のサイレン。
到着が、あまりにも早すぎるような気がした。
まるで、初めから、こうなることが分かっていたみ
たいで、もし、それが正しかったのだとすれば。
救急車を呼んでいたのは、葵を撃った男だ。
「嘘は嫌いだからな。貰った分は、やってやるのさ」
刹那、弾けるみたいに、意識が飛んだ。
真琴に告白された日から、彼女は学校に来なくなっ
た。
あれから、既に二日が経過している。
レインでメッセージを送っても、電話を掛けても、
真琴は応答してくれない。これまで、一緒に登校して
いた時のように、朝、真琴の家のインターホンを鳴ら
しても、彼女の慌てる騒々しい物音が聞こえてくるわ
けでもなかった。
理由は定かではなかったが、怪我や病気の類で無い
ことは分かっていた。仮にそうだとして、彼女から私
に連絡が無い、なんてことはないだろう。
レインの位置情報を共有する機能で確認しても、彼
女はずっと家に引き篭っているようだった。
放課後、一人で校門を出る。
単調な青色の空に、並木の纏う緑の葉。明日になれ
ば、自然に忘れてしまうことが容易に想像できるよう
な、何度も何度も繰り返されてきた平凡な景色。
この景色を見るのは、今日で三回目だった。
また、足を真琴の家へ向ける。
昨日も、一昨日も、帰るついでに彼女の家のインタ
ーホンを鳴らしたのだが、中からは物音一つしなかっ
た。
緩やかな風が撫でる私の肌は、酷く火照っていた。
何日も会えないうちに、心の中で真琴への感情が膨
れ上がって、真琴の体を求めてしまう、私の性欲、が、
毒みたいに全身を回り、感覚を鈍らせて、体温は狂う
一方だった。
真琴の唾液を口内に含みたい。
彼女の唾液の粘っこい感触と、目眩を起こす程の甘
味が欲しくて、欲しくて、苦しい。
真琴の、抑えきれずに溢れる喘ぎ声と共に、私の胸
の中で身を捩らせる彼女の柔らかくて脆い、体の感触
が蘇っては、私の中で性欲に脳を犯されて、視界が歪
んだ。
通い慣れた高級住宅街の中を歩いていく。
初めは気圧された高級住宅街の雰囲気も、今では安
心感を覚えるようにすら、なっていた。
しばらく歩き、真琴の家の前に行き着く。
揺れるセーラー服の上から胸に手を当て、深く息を
吸った。
心臓は今度も高鳴っているが、心は決まっていた。
答えはとうに見つけていて、真琴にぶつける感情は、
拙い私の言葉で形を持った。後は、相対するだけだっ
た。
「真琴」
胸に手を当てながら、インターホンを鳴らす。
だが、反応はない。
もう一度鳴らしても、同じだった。
張り詰めた糸のような静寂と、灰色の虚無感が私の
足元から立ち込める。私を慰めるような、甘いヘアオ
イルの匂いだけが華やかなピンク色をしていた。
「今日も、駄目、なんだ」
無意識に、言葉が溢れる。
行き場を無くした感情と欲望が体の中をのたうち回
って、涙が落ちそうになる。
それに呼応するように、スカートのポケットの中か
ら、小さな振動と共に通知音が鳴った。
「入って。親いないから」
スマホの画面に表示された、真琴からのレインのメ
ッセージ。
ドアに手をかけ、引いてみる。
鍵は、かかっていなかった。
「二階の一番手前の部屋」
続けて、彼女からのメッセージが届く。
感じた戸惑いも困惑も、真琴に対する感情の前に消
え失せた。彼女に会って、話が出来れば、他はどうで
も良かった。
「お邪魔します」
独り言みたいに口にして、ドアを閉めた。
真琴の家の中に足を踏み入れたのは、初めてだった。
広い玄関に迎えられながら、鍵を閉める。
中は、真琴の髪のものとは違う、グレープフルーツ
みたいな風な上品な香りに満ちていた。
深く息を吸い、心の中で渦巻く感情の流れを落ち着
けながら、靴を脱ぎ、揃え、整える。
振り返ると、私と真琴の靴だけが、玄関に並んでい
た。
入って正面にあった階段に足をかけ、一段、一段、
確かに登っていく。
真琴の元へ、近づいていく。
彼女の体に、触れられる。
実感が深まると共に、心の奥で腐り果てた性欲が蠢
き、全身に薄らと汗が這う。
「はやく」
スカートの中から伝わる、彼女からのメッセージが
私を急かす。
それほどまでに、真琴は私を、求めてくれている。
溢れてくる嬉しい感情が、瞬時に腐り落ちて過激な
甘い匂いを放ち始め、意識が覆われてしまいそうにな
る。
「性欲なんてぶつけても、私の気持ちは、伝わらない」
真琴の全てを知りたい。
真琴の幸せにしたい。
私の気持ちだけは手放さないように、必死に握り締
めていた。
階段を登り切ると、目の前のドアが開いていた。
「はやくして」
部屋の中から、強情なような、か細いような、真琴
の女性らしい低い声が、私の鼓膜を揺らした。
その声は私の心を撫でて、綺麗な感情も、汚い感情
も全てが許されたみたいに、心の奥の深いところが弛
緩していく。
誘われるままに、ドアのまでふらふらと歩く。
爽やかで中毒的でいて、強烈な私の好きな匂いが、
鼻腔をくすぐった。柔らかくて、艶やかで、一番綺麗
な黒髪が視界の端に映り込む。
視線の先には、黒色のワンピースに身を包み、白い
ベッドに腰をかける真琴の姿があった。
思わず見惚れ、視線が交わると、彼女は何か言おう
と口を開き、顔を真っ赤にしながら、唇を震わせた。
しかし、言葉にならない声が突っ張るように発され、
直後、彼女は目を逸らし、幼女のように白く細い脚を
ばたつかせた。
真琴も、これ以上私に触れられない時間を過ごす事
に、耐えられないんだ。
そう、脳裏に浮かんだ瞬間に、目の前が粘性のある
黄色とピンク色で覆われた。
今、私が何も言葉にしないまま、真琴を犯したとし
たら、彼女はどんな可愛い顔をするのだろう?
知りたいと思った。
彼女のことを知りたい、真琴に対する、原初の感情
が、一線を越えさせる、体の自由を奪う。
「心寧」
掠れるような真琴の声に、我に返る。
耳元で煩く鳴る心臓の拍動。
全身を支える、人肌くらいに温かいベッド、甘い汗
の香り、顔にかかる、湿った熱い吐息。
覆い被さるように、私の体の下に、火照らせた体を
苦しそうに捩って、期待するみたいな視線を向けてく
る、真琴がいた。
下品なくらい、大きく口を開けて、唾液の糸を引く
舌を露わにする。熱く、汗を握った両手が私の右手首
を掴み、口に近づけ、親指に溶け出すような、劇的な
快楽が走る。
鳴り続ける心臓の音が遠ざかっていく。
失われていく理性が途切れ途切れに消える。
「真琴、可愛い」
握り締めていた大切なものが、手から離れ、感情の
渦に飲み込まれていく。
胸元のはだけた黒色のワンピースの、ボタンに手を
かける。
「いい、よね?」
数秒間の間の後、真琴は静かに頷く。
「いいよ」
顔を上げ、正面から向き合う。
見つめあった彼女の目の色に、痛いくらいの衝撃が
私を襲い、消えていた心臓の音が蘇る。
「もう、その目は、可愛くなんてない」
真琴の小さな頭を力づくで押さえつけて、彼女の瞳
を見つめる。
まるで目の中に暗闇が広がっているかのような、暗
い黒色。夜を閉じ込めたような瞳は寂しげで、奥に宿
る微弱な光が、今にも消えてしまいそうで。
「どうして、三日間も、会ってくれなかったの」
私は聞いていた。
心の中に、光って見えた。
性欲を満たす事よりも、ずっと大切なことを。
「怖かった、から。返事を、聞くこと。関係が、変わ
っちゃうこと」
真琴は熱い体を苦しように抱えて、濡れた唇を震わ
せた。
「ごめんね。わたしが、恋人同士になろう、って、言
ったのに」
「いいよ。返事は、考えてきたから」
言うと、真琴の体は強張り、視線が彷徨った。
顔を近づけ、見詰めると、彼女の瞳から、期待する
ような、不安そうな感情が流れ込んでくる。
「でも、その前に、教えてよ」
私は用意してきた問いを、投げかけた。
「真琴は、私を、どうしたい?」
「どう、って?」
「私を真琴の彼女にしたいって、言ってくれたのは、
どうしてかな、って、思って」
真琴は、きょとんと、私を見つめた。
その後、彼女の目の中の黒色が蠢いて、奥の光が点
滅を繰り返す。光が七色に綺麗に映って見えて、視線
が真っ直ぐに私を捉え、言葉は発された。
「心寧が、わたしの隣にずっと居てくれたら、って、
思ってた、から」
彼女の瞳の中の夜が、動き始める。
「わたしは、好きになった人と、結ばれて、一緒に幸
せになりたい。ただ、それだけで、だから、好きな人
を、他の誰にも、盗られないように、わたしのものだ
って、認めて欲しくて、彼女になって欲しい、って、
思った。それに、わたしのことを知って、傷付けるな
ら幸せだ、って、言ってくれたのは、心寧、だから」
刹那、夜が、飛び込んできた。
「心寧の心も、体も、全部、わたしのものにしたい。
どうしたい、って聞かれても、この気持ちは、そうと
しか、言えない。心寧のこと、愛してる、から」
真琴の夜が、私の心に渦を巻く。
彼女の感情は、やっぱり甘くて、心が渦を飲み込む
まで、時間はかからなかった。
「交換条件」
私は、少し黒色の薄くなった真琴の瞳を、真っ直ぐ
に見つめた。エゴに従って放たれた言葉には、私自身
すら知り得なかった、感情の濃度があった。
「私の全部を、真琴にあげる。その代わり、真琴の全
部を、私のものにする、っていうのは、どう?」
言うと、彼女の目の中の光が大きく揺れた。
「私、真琴の全てを知りたい。真琴の幸せな顔、知り
たい。私が、幸せにしたい。だから、もっと深く、結
ばれたら、私も、嬉しい。それに、初めに、言ったよ。
私をずっと、真琴の隣に居させて欲しい、って」
頭を押さえつけていた手を離し、優しく、頭を無で
る。
真琴は釘付けになったみたいに、私を見つめていた。
「告白の返事、聞いてくれる?」
問うと、真琴は小さく、頷いた。
「一つだけ、条件を呑んでくれるなら、私は真琴と、
恋人同士になりたい、って、思ってる」
「条件、って?」
真琴は祈るような声色で、聞いてくる。
私は、私なりの答えを、提示した。
「何があっても私の隣にいて、私と一緒に、幸せに、
なって欲しい。私達は女の子同士、だし、普通、では、
ないから。良いことばかりでは、無いと思う。でも、
真琴には、ずっと味方でいて欲しい。私を運命の人だ、
って言い続けて欲しい」
ただ、本当のことを明かしているだけなのに、心の
中で腐り続けた粘っこい感情が消えていくような感覚
があった。
私の心に呼応するように、真琴の目の中の黒色が、
キラキラと溶けていく。
渦を巻く黒色で見えなくなっていた、彼女の本当の
目の光が、私を捉えていた。
夜空の奥に隠れていた星の光が、眩しいくらいに輝
く。
そこにいたのは、純粋な、少女だった。
私の、運命の人。
「私と幸せになることを、諦めないで。それが、条件」
「諦めるわけ、ないから」
真琴は、はにかむように、顔をくしゃくしゃにして、
笑った。
初めての、表情だった。
「何があっても、一緒に幸せになれるように、わたし、
頑張るから。絶対に、幸せにする。だから」
真琴は真っ直ぐに、星みたいに輝く光を纏った視線
を向け、私へ手を伸ばした。
「わたしの彼女に、なってください」
差し出された手を取って、私は、頷いて見せた。
「はい。幸せに、なろうね」
返事をすると、真琴は目を大きく見開き、嬉しそう
に、小さく笑った。細められた目の先が宝石みたいに
光って、彼女の頬に、涙が伝った。
「泣かないでよ」
「だって、嬉しかった、から」
頬に流れる涙を、セーラー服の裾で拭く。
彼女は私から目を離さずに、続けた。
「今まで、誰かを好きになる度に、気持ちを伝えて、
拒絶されて、傷つけ合ってを、繰り返して。最後には、
誰も傷つけないように、一人でいることを選んで、孤
独に苛まれて。苦しかった、これまでの全部が、心寧
と出会う為にあったんだ、って、思えたことが、嬉し
い」
真琴の目に灯る光から、感情が流れ込んでくる。
私は、悟っていた。
真琴が、超可愛い理由。
それは、真琴が、真っ直ぐだったからだ。
自分自身の幸福を諦めず、他人の幸福を願える、優
しく、強い女の子だからだ。
真っ直ぐでいられることは、普通じゃない。
そう、誰かが言っていた。
「好き、って言って」
言うと、真琴は真っ直ぐに笑って、唇を震わせた。
「心寧、好き」
「私も、真琴のこと、好き」
視線と感情が、混じり合って、流れ込む。
心の中の奥、深く深く、いつの間にか仕舞い込んで
しまっていた宝石みたいな感情が輝き出して、私を支
配した。
真琴に向けられた、澄み切っていて、星みたいに光
を放つ、得体の知れない七色の感情。
どこまでも綺麗なこの感情こそが、恋、と名付ける
に相応しいと、感じた。
狙いを定め、引き金を引く。
響く炸裂音が周囲を駆け抜け、血液が舞う。
首から上の吹き飛んで消えた男の体が、静かに転が
っていた。
私は、人を殺した。
それなのに、もう、何も感じなかった。何も思えな
かった。
一線を超えた先にあったのは倫理観の崩壊と、押し
潰されてしまいそうな程の虚無感。
人を殺すことに恐怖を抱けなくなると、仕事は格段
に楽になった。ただ、殺せばそれで終わった。
人間の頭を吹き飛ばすことが、日常になっていく。
狂気に呑まれ、自分の形が変わっていく感覚は、確
かにあった。だが、そんなことはどうでもよかった。
ただ、私が普通、から、かけ離れて、独りになって
いくことだけが、怖かった。
自分の幸せの為に、普通を犯せたなら、どれほど幸
せだったか。投げ出されるみたいに、人間の形をした
化け物になって、私はこれから、どう生きていけばい
い?
「ただ、いま」
白一色の部屋。規則正しく並ぶベッドの、窓側の端。
三日間、目を覚さない、葵が寝かせられていた。
花咲町の病院の一室。彼以外に入院している人間は
居ないらしく、葵も一人、この場所で眠り続けている。
ベッドの傍の椅子に腰掛け、視線を落とす。
人形みたいに変わり果てた、彼の顔が見えた。
「葵」
彼の体から伸びる数本の管が痛々しい。
手を伸ばし、彼の頬を撫でると、私を励ましてくれ
るみたいに、温かい体温が伝わってくる。
目を瞑り、彼の唇に、私の唇を重ねた。
独りよがりなキスは、甘くなく、ただ、痛かった。
しかし、唇から感じ取れる柔らかい感触だけが、私
が私であることを確かめさせてくれる、唯一の感覚だ
った。
「好き」
私の弱々しい声は宙に舞い、灰みたいに、消えてい
く。
それでも、彼の体に縋らなくては、苦しくて、現実
が怖くて、私は、生きられなかった。
白い部屋の中に、私は独りだった。
あの日、私が気を失った後、病院に運ばれ、葵の隣
のベッドで目を覚ました。
私に目立った外傷は無かった。
だが、深刻だったのは葵の容態だった。
胸部に銃撃を受けた事による多量の出血と骨折によ
り、生死の境を彷徨った。手術は成功に終わったとの
ことだが、彼は未だに、目を覚さまい。
医師は口にした。
奇跡的なことだ、と。
ライフルの銃撃による身体の損傷が、彼の臓器に一
切見られなかったそうだった。
彼は胸を銃弾で貫かれながらも、命が助かる可能性
は極めて高い状態にあった、とも、医師は告げる。
確かなことは、私達はあの男に生かされたのだとい
う、事実だけだった。
病室を出る。
仕事に、向かう。
悪夢から目覚めたのかもハッキリしないまま、皮肉
なくらい透き通った青い空が窓越しに見えた。
現実からは逃れられず、ぼんやりとした脳内に色の
無い昨夜の光景が蘇ってくる。
隣に目線を向けても、幸せそうな彼の寝顔はない。
買い溜めしておいた缶コーヒーを喉に流し込むと、
人を殺した瞬間に降りかかってくる生温かい安堵感が
蘇り、体の端が冷たくなった。
朝食を作ろうと冷蔵庫を開けても、私の手に負えそ
うな食材はほとんど見当たらない。
食パンをトースターへ放り込み、卵とソーセージを
取って、とりあえず強火でフライパンで熱するくらい
が関の山だった。
ただ、コーヒーを入れることに関してだけは、葵に
習った技術と心得、毎朝、二杯分のコーヒーを淹れ続
けたことによる豊富な経験の積み重ねがあった。
いつものように、コーヒーを淹れる。すっかり、手
慣れたものだった。
大きなプレートに料理を乗せ、テーブルに運ぶ。
椅子を引き、腰掛け、テレビの電源を点けてみる。
面白みのないニュース番組の、ニュースキャスター
の無感情な声が部屋に響き渡る。
ほとんど茶色のプレートの、少し焦がしたトースト。
それでも食欲をそそる、湯気に混ざった朝食の匂い。
間違えて二人分淹れた、美味しい、いつものコーヒ
ー。
葵は死んだわけじゃない。少しの間、会えないだけ。
幸せそうで、そうでもなさそうな今朝を生きる、私
は人殺し。
誰かを幸せにする。
私が私として生きる為の理由でもあったその願いを、
人を殺して汚れたこの手で、果たせるのだろうか?
「化け物には、出来ない、かな」
万が一、果たせたとして、そんな幸福なんて、歪ん
だ世界の見せる幻想に違いなかった。
手に残る、血液の生温かい温度。
思い返してみれば、今までに感じたことのなかった、
気持ち悪い感触だった。
しかし、つい数日前のことだとは思えない程に、赤
黒い液体は体に染みついて、離れない。
逃げ場を失った恐怖が指先に伝い、銃弾に乗って放
たれた瞬間の安堵感と、全てを失ってしまったような
喪失感。
初めて人の頭に銃弾を放ったのは、彼がいなくなっ
てすぐ、一人で対峙した事件での事だった。
人の命を奪わずに事件を収束させることよりも、い
っそ全員殺してしまう方が簡単で、危険も少ない。
以前ほどの力を発揮できない私一人では、事件の鎮
圧に力不足である可能性だって、否定できない。
仕方無かった、と言い訳をする材料は幾らでもあっ
た。
だが、確かに、私の心に深く切り刻まれた記憶があ
る。
結局、私は、怖かったから、力に逃げたのだ。
死ぬ事になろうとも、最後まで私として生きること
に意味が合ったように、私が私自身を撃ち殺してしま
ったように、思えてならなかった。
人殺しの化け物に、描ける幸福。
「私みたいな、汚い人間がみんな死ねば、世界は幸せ
で包まれるかな?」
赤黒い色の冷たい両手に許される行為など、それ以
外に思いつきもしなかった。