黄色の渇愛
人を殺して、捕まえて、それで幸せになれる人間な
んて、他人の不幸を願う汚い人間だけだと思う。
私に頭を下げる人間のほとんどは目が死んでいるか、
不気味に爛々と光らせるかしている。誰かを捕まえて
感謝されるにも、そんな人間にされるのでは嬉しさよ
りも気持ち悪さの方が勝る。
もし、他人の不幸を願う薄汚い人間がみんな死ねば、
この世界は幸せで満たされるだろうか?
「なあ、相棒。私、何してんだろうなあ」
「人殺し追ってるんですよ!」
何言ってるんですか、と仕事仲間の葵は狼狽する。
夜の暗闇が街を包み、月と、もう深夜だというのに、
そこら中のビルから漏れてくる光を頼りに殺人犯を追
っている最中だった。
「相棒、どう思う?」
「ええ?何がですか?」
「仮に、私達警察官の元に悪意を含んだ仕事が舞い込
むことが無くなったとしたら。そしたら、みんな幸せ
かな?」
彼は困惑したような表情を浮かべながら、全力で走
っているにしては全く乱れていない口調で話した。
「現実的とは言い難いですが、現状よりは多少、世の
中は平和なのではないですか」
「そこまで、非現実的でもないよ。そういう依頼の度
に、依頼人と関係者みんな殺せば、少しずつ、この街
から悪意は無くなっていくと思わない?」
「そもそも、悪意は、減るものなんですかね」
葵は独り言のように言った。
「それに、蛍さんには、人を殺すことが出来ないじゃ
ないですか」
「出来ない、じゃなくて、してないだけだから。人殺
しをする覚悟さえあれば、一線を超えることは出来る
の。今はまだ、その必要があるかどうか、ハッキリし
ない、ってだけ」
「俺が蛍さんの分まで殺せばいいのですから。焦らな
いで、ゆっくり考えてください。悪意を無くそうとす
る、その考えは、どこか、不気味な感じがします」
「うん」
全身黒尽くめの殺人犯が細い路地に入って行ったの
を目視し、葵へ合図をする。
「あの路地に入った。気を付けて」
「え」
何故か、葵は一瞬戸惑った。
「了解です」
殺人犯の入っていった路地の先は行き止まりになっ
ている。私達に追われて気が動転しているのか、それ
ともこの街の地形を知らないのか。それとも、私達を
誘い込もうとしているのか。
「慎重に行くよ。罠かもしれない」
葵が不思議そうに私の顔を見る。
「何?」
聞くが、彼は芝居がかった仕草で肩を上げておどけ
て見せてくるだけだった。
路地に差し掛かる直前、私はその場で停止し、拳銃
を構えた。葵も私に倣い、拳銃を構える。
「行くよ」
路地裏を覗くと、足下に蠢く影があるのが目の端に
映った。影の中で、何かが光を反射し冷たく光った。
反射的に、後ろに体の重心をずらした。街灯の光に
照らされて、私達の命を切り裂こうとするナイフの先
端が、こちらを向いているのを目にした。
次の瞬間、心臓が貫かれたような、得体の知れない、
冷たい衝撃が走った。体中の血液が逆流し、全身の肌
が粟立ち、脚がすくむ。思うように、体が動かない。
恐怖は、簡単に私を支配した。
煩く鳴り止まない心臓の拍動が、ナイフがこちらへ
向かってくる様を、ただ、呆然と見つめることしか許
さない。
「相棒の出番ですか」
声の聞こえた刹那、隣から銃声が響いた。ナイフは
手から勢いのままに地面に滑り落ち、軽い金属音を立
てる。
黒尽くめの男の首は、千切れ飛んだ。
恐怖から解放された途端、私の体じゃないみたいに、
全身から力が抜ける。意識がぼやけて、感覚が遠退く。
「しっかりしてくださいよ」
意識の外から葵に体を支えられ、少しだけ、心音が
小さくなる。
安心感欲しさに、このまま葵に抱きついてしまいた
いと心が強く訴えてくるが、無理矢理にそれを制した。
独りで、立ち直らなくてはいけない。
彼に甘えてはまた、私は溺れてしまう。
「ごめん」
葵の手を離し、震える脚で全身を支える。
しかし、以前として体中の感覚が無く、心は、冷た
くなったみたいに動かなかった。
「蛍さんを守るのが、俺の仕事です。俺のいる限り、
あなたの綺麗な顔と体に、傷は付けさせない。だから、
安心してください」
ありがとう、という言葉を発そうとしたが、上手く
いかず、代わりに発されたのは、私の嗚咽だった。
自分が泣いているのだ、ということに気が付いたの
はこの時だった。恐怖に耐え切れずに涙が流れたのか、
力を振るう事すら出来なくなった自分の無力さに絶望
したのか、冷たいままの心には判別できない。
「お酒が無いと、ただの可愛い女の子になっちゃうみ
たいですね」
彼は小さく笑った。
お酒、と彼が口にした時、私は自覚した。
かつて私が、受け入れ難い現実から逃げる為に溺れ
た酒類は、精神的な苦痛だけでなく、私の恐怖という
本能的な感性をも封じ込めていたのだ。
「大丈夫、俺がいます」
彼は、そう言って私の頭を撫でた。
葵の声は、私には甘すぎた。
葵の体温は、私には優しすぎた。
そして私は、弱すぎた。彼を、求めてしまった。
得体の知れない恐怖という感情が、私の本質を露呈
させたのかもしれなかった。
無理矢理に彼の唇を奪った。初めて、私からキスを
求めたかもしれなかった。
彼は私の我儘にどこまでも付き合ってくれた。私が
求めた分、彼も私を求め、私が彼に体を寄せる度に、
彼は私を抱き締め直した。
脳内が真っ白になる。
私は確かに、葵に溺れたのだった。
「一旦、上に連絡させてください」
絶え絶えの息で、唇を、私の唇から離した葵は言っ
た。
私に背を向け、彼はスマホを取り出し、耳に当てる。
弱く、情けない自分が脳内に蘇ってくるのが怖くて、
私は体温を求め、葵を抱き締めた。
彼に差し出された右手の人差し指を、夢中で舐めた。
葵の発する事務的な声の中で、私は、幸福に呑まれ
ていた。
私は、なんて、醜いのだろうか。
花咲駅のベンチに座り、私は今日も真琴を待ってい
た。
駅内に設置されている時計の針は、もうすぐ九時を
指そうとしている。
デートをした昨日と同じベンチに座っているが、特
に意味がある訳でもない。考えてみれば、昨日と全く
異なる場所のベンチに座るよりは真琴から見つけやす
い、くらいの利点はあるかもしれない。
私達はこれから、商店街で行われるイベントのチラ
シ配りの日雇いアルバイトをする予定だった。
私がやりたい、と言い出し彼女を誘い、交換条件と
して真琴から提案されたのが彼女とのデートだった訳
だが、彼女とのデート、なんて魅力的な誘いは私から
頭を下げてお願いしたいくらいのものだった。
私の一人勝ち。交換条件として、彼女の要望がろく
に機能していないことに真琴は気付いているだろうか。
アルバイトの面接には、先週の学校帰りに二人で行
った。
面接場所は、理由は分からないが肉の肉山の店を電
話口で指定された。伝えられた日時通りに店を訪れる
と、店のバックヤードに案内され、面接は淡々と進ん
だ。
面接を担当してくれたのは肉屋の肉山の店主、肉山
さんの息子さんだった。背が高く、細身で、ふくよか
な体型をしている店主とは対照的な身なりだった。
年齢は三十代手前くらい、優しげな声の中に、どこ
か威厳のようなものを感じさせられる力が籠っていた。
「さっきの人、ちょっと格好良かったね」
面接を終え、真琴に言うと、彼女は不思議そうな顔
をして、首を捻った。
「わたしには、よく分からない」
後日、私達の元に採用を知らせる電話が届いた。
そして、今に至る。
花咲駅は、今日も人が少なかった。
一切の羞恥を感じることもなく豪快に欠伸をし、腕
や脚を伸ばしたり首を回したり、体をほぐす。昨日は
疲れていた割によく眠れず、体にも脳にも疲労の跡が
残っていた。
原因は、真琴と初めて、手を繋いだことだと思われ
た。手に残る真琴の、小さくて、少し角張った手の熱
と感触が何度も何度も蘇っては、心臓の鼓動が早くな
って、心の底から湧き上がってくる淡白でうっすら甘
い感情が、真琴の体温を欲してしまって耐えられなか
った。
今すぐにでも、また、真琴と手を繋いで、彼女の体
温と、感触を感じたい。
これまで、何人もの女の子と手を繋いだ経験がある
が、こんな気持ちになったのは、初めてだった。
昨夜、ベッドの中で渦巻いた甘ったるい欲望が、心
の中で残留している。
可愛い真琴と会う事が、楽しみなことに変わりはな
かった。しかし、その純粋な感情の中に、彼女の体を
求めてしまう、ドロドロとした甘い欲望が、含まれて
しまったような気がして、気持ちが悪かった。
真琴と出会って、私の中の何かが、溶け出して混ざ
り合って、変化している。
直感的にそれを感じずにはいられないが、ただ、得
体の知れない幸福感が、私を慰めるようで、抵抗する
気も起きなかった。
不意に、柑橘系の香りが鼻を掠めた刹那、インクの
ような、粘性のあるオレンジとピンクの蜜が炸裂して
視界を覆い隠した。
真琴の髪の匂いだ。
すぐ近くに、真琴がいる。それを理解した瞬間、体
の芯が急激に熱くなって、息が、苦しくなった。
真琴が欲しいという欲望が、無意識のうちに私を匂
いのした方へ振り向かせる。
「ん、おはよう」
匂いの先に立っていた真琴は勢いよく振り返った私
に少し気圧されながら、挨拶の言葉を口にした。低く
女性らしい彼女の声が、私の脳を揺らした。
「おはよう、ほら、隣、座って」
挨拶を返すが早いか、ベンチの私の隣に座るように
言っていた。素直に従い、隣に腰を下ろした真琴の左
手に私の右手を重ねると、すぐに、私達は互いを求め
合うみたいに、指を絡ませた。
真琴の体温が、私に混ざっていく。私のものに、変
わっていく。
呼吸が、楽になった。
「真琴って、体温、高いよね。温かくて、触ってて、
すごく、気持ちいい」
真琴の方を見ると、彼女は何かを堪えるみたいに、
口を手で隠して、熱を孕んだ視線で俯いていた。
程なくして、目的の列車が目の前で止まった。私達
は手を繋いだまま、入り口のドアに歩いていった。
私を上目遣いで見つめ、真琴は聞いてきた。
「昨日は、よく眠れた?」
「あんまり、眠れなかったよ」
「わたしも、全然眠れなかった。同じだね」
彼女は悪戯っぽく笑って、私の右手を少し強く握っ
た。
東京駅で列車を降り、二人で人混みを分け、駅の外
へ出る。
真琴は偶然通りかかった駅前の宝くじ売り場をキラ
キラした瞳で見つめ、昂った声で聞いてきた。
「昨日買った宝くじ、当たったら何円?」
「色々あるけど、一等は、百億円」
「百億!すごい!」
「当たる確率は、一千万分の一だけどね」
「でも、奇跡は起こすものだよ?」
なんか、どっちか当たってる気がする、と彼女は愉
快そうに呟いていた。
羽織ってきたパーカーの中が薄らと汗ばんで、少し
不快だった。
今日の温度は二五度を超えていた。過ごしやすかっ
た昨日の最高気温よりも五度以上高い。
重たい緑の香りを纏った生ぬるい風が、私達の間を
通り抜ける。
春は終わり、これから夏が始まろうとしていた。
出会いと別れの季節の中で巡り合った私達は、これ
から私達だけの花を咲かすのである。
隣を見ると、真琴は暑がる様子もなく、涼しい顔を
して前を向いて歩いていた。
「あ、いた」
真琴の声に、彼女の向いている方へ目を向けると、
細身で背の高い、見覚えのある男が立っていた。周囲
には他に二人、彼の仲間らしい男女の姿があった。
「肉山さん!おはようございます!」
近付きながら声を掛けると、肉山は笑顔を作り、挨
拶を返した。
「ああ、おはよう、二人とも。今日はよろしく」
「よろしくお願いします!」
「よろしくお願いします」
揃って言うと、肉山は仲間らしき二人へ目を向けた。
「本間、バイトで来てくれた子達だ」
本間、と呼ばれたのは、丸眼鏡の似合う長身の男だ
った。眼鏡の形のせいか温厚そうな雰囲気を纏っては
いるものの、目尻は鋭く、目には強い意志の光が宿っ
ているように見える。
「本間です。僕は、文目商店街で、本間書店という名
前の本屋の経営に携わっています」
「本間書店!私、小さい頃から本間書店で何冊も本買
ってます!」
「本当ですか、ありがとうございます」
本間はわずかに頬を緩ませた。目尻の鋭さ故に、怖
そうな印象が抱かれやすそうな彼だが、笑った顔は愛
嬌があって可愛らしかった。
「二人とも、名前は何ていうの?」
もう一人の女性は落ち着いた声色で聞いてきた。
真っ白な肌をした若い女性だが、彼女もまた、目に
強烈な意志の光を灯している。
「あ、私は涼子っていうの。よろしくね」
「文目心寧です!」
私に続き、真琴が自分の名前を告げる。
「姫鈴真琴です」
真琴が名前を口にした瞬間に、一瞬だけ、涼子さん
の顔に緊張が走ったように見えた。他の二人を見ると、
本間は無表情に真琴を見つめ、肉山は顔を強張らせて
いた、ような気がする。
真琴の名前が、彼等の間の何かを、揺らがせた?
私の勘違い、かもしれない。
しかし、異様なほど心がざわめいた。
やりはじめてから三十分程で、私はチラシ配りのコ
ツを体得しつつあった。
通行人から一メートル五十センチ程の距離の地点に
前もって移動し、通行人が私の目の前を通りかかる直
前で一気に接近。チラシを差し出すと、通行人の多く
は小さく驚くと同時に反射的にチラシを手に取ってし
まうのだった。
私は高校では部活に入っていないが、中学生の頃は
陸上部で短距離走をやっていた。多少衰えはあるもの
の、一年前までに身につけたスピードとスタミナが存
分に活かされ、用意されていたチラシの山を着実に減
らし続けていく。
商店街の三人も健闘を見せていた。
笑顔で人を惹きつける作戦でチラシを配る肉山さん。
よく通る声で通行人の気を引く涼子さん。
より洗練された私と同じ技でチラシを受け取らせる
本間さん。
しかし、そんな私達より更に多くの枚数のチラシを
配布することに成功していたのが、なんと真琴だった。
真琴は、私達の中で一番声が小さかった。私と本間
さんと同じ技を使えばいい、という内容の提案をした
のだが、自分の都合を人に押し付けるようで気に食わ
ないらしく、却下された。
ただ、真琴には積極性があった。小さく、通りにく
い声ながら、声かけを続けるうちに、どういう訳か、
急激に彼女の手から飛ぶようにチラシが無くなってい
ったのである。
何度も何度も同じ技を繰り返す中、真琴の方を観察
していると、本間さんの技を無視した通行人が彼女を
見にした直後、足を止めた。そしてそのまま真琴の手
から自らチラシを受け取り、去っていったのである。
真琴の手からチラシが消える理由、それは彼女を一
目でも見れば、すぐに理解出来るものだった。
それは、単純に真琴が可愛いからである。
声が小さいことも、低い身長と相まっていじらしさ
を強調し、目の前の歩く通行人達の多くを骨抜きにし
てしまっていた。
本間さんはまだしも、私と涼子さんを無視し、わざ
わざ真琴の手からチラシを受け取るなど、人間とは、
全く現金で残酷なものである。
「一枚もらえるか?」
男性の低い声に目を向けると、そこには青い髪でギ
ターケースを背負った男が立っていた。
「どうぞ!」
反射的にそう言って笑顔を見せ、チラシを差し出す。
男はチラシを一瞥した後、小さく口角を上げ、陽気
に言った。
「ああ、ありがとう」
青髪の男は視線を私から外し、東京駅へ吸い込まれ
ていった。
記憶違いかもしれないが、つい昨日、電車の中に彼
の様な人を見かけたような気がする。感じの悪い人で
はないが、積極的に関わり合いになりたいと思えるよ
うな外見をしているわけでもない。
改めて周囲を見渡し、ターゲットを探す。
ちょうどいい距離感で東京駅へ吸い込まれいく私と
同じくらいの歳の女の子へ狙いを定め、技を繰り出し
た。
「じゃあ、ここらで一旦、休憩にしよう!」
時刻が十二時半を回った頃、肉山さんは私達へ呼び
かけた。見ると、初めは山と積まれていたチラシの束
も大分迫力を失い、配るにも終わりが見え始めていた。
気温も朝から上昇を続け、私は汗だくになり、真琴
ですら、額に汗が垂れてきていた。
肉山は汗を拭いながら、私達へ笑いかけた。
「何か、冷たいものでも食べにいこうぜ、みんな。今
日は、俺が奢ってやるから」
肉山の誘いに満場一致で賛成の声が挙がり、私達は
涼しさを求め、東京駅近くのかき氷が有名なカフェに
向かったのだった。
カフェの店内に入ると、しっかりと冷房の効いた空
気が火照った体を癒した。肌を薄らと覆っていた汗が
さっと引いていく。
真琴も満足気な表情で店内を見渡していた。
席につき、全員が思い思いのかき氷を注文する。
注文を受け終えた店員が厨房へ戻っていくのを見届
け、肉山は口を開いた。
「今回のイベント、絶対に成功させないとな。ここで
ある程度成果出さないと、いよいよだからな」
「僕等に出来ることは、全てやってきたはずなのです
がね。まあ、だから何だ、って話ですけど。世知辛い
世の中です」
「きっと、全て上手くいきますよ。私達のこれまでの
努力と想いがあれば。それに、今回は可愛い女の子達
のおかげで、チラシ、全て配り終えられそうですし」
涼子さんは私達を一瞥し、小さく微笑んでみせた。
「経営、厳しいのですか?」
唐突に、隣の席の真琴の声が聞こえた。
彼女は中の黒色の蠢く瞳で、肉山さんの目をじっと
見つめている。
肉山さんは苦笑い混じりに言った。
「まあ、現実問題、厳しいことに間違いはないな。だ
が、全ては捉え様だ。今回のイベントは、一番の見せ
場、俺等の、クライマックスだ。必ず、上手くいくさ」
真琴は目を細め、肉山さん達へ、大きく口角を上げ
て笑って見せた。
「では、午後からも頑張らなければいけませんね!」
彼女の言葉に、三人の目の中の光が大きく、輝きを
増す。肉山さんは大きく頷き、本間さんの強く握られ
た拳が、視界の端に映った。
しかし、私には分かってしまった。
真琴の視線が孕んでいる感情は、少なくとも、彼等
を肯定するようなものではない。
彼女から流れ込んでくる感情の殆どが彼等を否定し
ている様に感じられてしまって、何より、彼女は、そ
んな風に笑う女の子じゃない。
私の知らない真琴の顔が、眼前にあった。
真琴の感情の中身を想像するなど、私にはおこがま
しい。しかし、彼女の心の中で回る感情の渦が輝いて
見えて、それがあまりに綺麗で、可愛くて、可愛くて。
「見惚れないでよ」
声と共に額に鋭い衝撃が走り、気がつくと、真琴に
呆れ顔で見られていた。
「ああ、ごめん。でも、真琴が可愛いのが悪いよ」
反射的に言うと、真琴は目を逸らし、小さな声で呟
くように口にした。
「そういうこと言うのは、二人だけの時にして」
見ると、三人は好奇の視線をこちらへ目を向けてい
た。
直後、店員が夏祭りの屋台で食べる様なものではな
い、ふわふわのかき氷を両手に持って登場し、場の空
気は一気に沸騰。気まずい空気は吹き飛んでいった。
チラシ配りが終わったのは、空がオレンジ色に染ま
った頃だった。給料を貰い、商店街の三人に別れを告
げ、昨日のデートの時と同じ列車に乗った。
そして私達は馴染みの、人の少ない花咲駅に帰って
きたのである。
右手と左手を深く絡め合い、駅を出た。
「今日も、送らせて」
言うと、真琴は僅かに口角を上げ、答えた。
「私も、送って欲しい、って思ってた」
彼女の反応に、喜ぶと同時に、胸を撫で下ろす。
彼女の新たな顔を目にしてしまってから、真琴の私
に向ける表情と言葉に、逐一安堵している自分がいた。
もしも、あの温度のない視線を彼女に向けられてし
まったら、と想像するだけで、怖くて仕方がない。
しかし、かつて、真琴は言ったのだ。
私のことを知りたい、と。
真琴の一面を怖がるばかりに私が私を偽ってしまう
行為は、彼女の想いを裏切ることと同じだ。
もし、この先、本当の私が真琴に受け入れられなか
ったら、なんてことは考えても仕方がない。
その時が来るまで、私は私でなければいけない。
「いい人達だったね」
真琴は遠い目をしながら、独り言の様に言った。
「肉山さん達のこと?」
「そう、あの三人。熱意があって、行動力もあった」
「確かに、魅力的な人達だったかもね」
真琴は無感情に呟く。
「でも、結局イベントは上手くいかないと思う。全て
は捉え様じゃない。全ては、本質だよ」
赤色の重たい風が彼女の後ろ髪を揺らす。
真琴が彼等にあの顔を見せたのは、彼等に本質が見
えていないことを悟ったからかもしれない、と、気が
付いたのは彼女の目を見つめている時だった。
「その、本質、って何?」
聞くと、彼女は淡々と言った。
「商店街そのものの価値を変えないと、生き残れすら
しない、ってこと。私も、行かないから。商店街。だ
って、行く理由が、ない」
彼女の視線が私と交わる。
真琴の心の中で渦巻く感情が、私の中に流れ込んで
くるような感覚に襲われる。
真琴は私の大好きな商店街を否定した。それなのに、
彼女に対して一切の否定的な感情が浮かんでない理由
は、私にもよく分からなかった。
「あの人達みたいな人が大切なものを失って、不幸に
なるなんて、可哀想。いや、可哀想、はあの人達を見
下した言い方だよね。可哀想、じゃなくて、儚くて、
綺麗だね」
真琴は苦しそうに、小さく笑った。
感情の方向性と表情の矛盾したような、この顔も、
私の知らない、真琴の一面だった。
真琴のことを知ることが出来た喜びと、商店街の彼
等を想う感情が入り混じって、心がめちゃくちゃにな
って、私は、彼女の言葉に頷くことしか出来なかった。
それからは、手は繋ぎあったまま、いつものように
帰途についた。学校のある日も真琴とずっと、一緒に
居るため、話のネタはとうに尽きているのだが、彼女
となら、中身のない話をするのも楽しかった。
真琴のことを新しく知れないとしても、彼女と一緒
の時間を共有しているだけで、私は幸せだったのだ。
真琴の家に近付いていく程に、私達の歩みは遅くな
った。
昨日と違うのは、歩みを遅くさせようとしているの
が、真琴だけではなく、私達二人ともだということだ
った。惰性で前に進み、時々立ち止まったりして、互
いを見つめあった。
長い間、深く絡ませ合っている私の右手と真琴の左
手の体温は、一つになっていた。まるで私の中に真琴
の一部を取り込んでいるような感覚が、快感だった。
柑橘系の髪の匂いに、今日は一層強い、真琴の体の
匂いが混ざり合って、漂っていた。気まぐれの様にそ
の香りが鼻を掠めては、真琴に対する感情の中のドロ
ドロとした部分が熱を持って痛くて苦しい。
「もう、着いちゃうね」
真琴の家がすぐそこまで迫ってきた頃、彼女は呟い
た。その声色が寂し気に聞こえてしまって、彼女の発
する言葉一つ一つに、心が揺らされる。
「あと一軒分でも、遠ければ、良かったのに」
言うと、真琴は小さく笑い、言った。
「でも、だからこそ、こうやって手を繋いで一緒に歩
いていられる時間は、超可愛い、よね」
「すごく大切で、可愛い時間。私も、そう思う」
夕陽に照らされた互いの顔を見つめ、小さく笑い合
った。
遂に、真琴の家の前に到着した。
私達は、これ以上前へ進めない。
「今日も、心寧と一緒だったから、楽しかった。バイ
トは大変だったけど」
真琴は言って、右手を振って見せた。
「また明日も、隣にいて。またね」
真琴は左手の力を緩め、私達の指の絡まりを解こう
とする。私達の指の間に生じた隙間を吹き抜ける風が、
一つになった私達の体温を攫っていく。
私はそれが、嫌で嫌で仕方なかった。真琴の体温が
体から失われていくのが受け入れられなくて、私は、
離れていく彼女の手を、両手で力一杯に抱きしめ直し
ていた。
再び交わり始める私達の甘い温度に吐かされるよう
に、私は言っていた。
「離したく、ない」
刹那、真琴は目を見開いて、初めて、悪い顔をした。
彼女の心の中で、一つの感情が激しく暴れ流れて、
感情を制御するための何かが決壊したようだった。彼
女はその感情に支配されて、とろける様な目で、私を
見ていた。この瞬間、真琴の意識の全てが私の心か、
体に向けれらているのだという確信があった。
私は、真琴のそんな色っぽい目を知らなかった。そ
の目が私に向けられている事実が、夢みたいで、でも、
それとは反対に私の心は高揚し、激しく拍動を続ける
心臓の音が耳の近くから聞こえた。
真琴は左手は私の右手を絡め合わせたまま、両腕を
開いて見せ、悪い顔で笑った。
「抱き締めてよ、わたしのこと。大丈夫、変じゃない。
だって、ハグくらい、するよ。私達、女の子同士なん
だから」
真琴が私の体を求めている。彼女の目から、私に向
けられた欲望が流れ込んでくるみたいで、嬉しくて、
私は彼女からの誘惑に抗う気すら起きなかった。
左腕を真琴の背中に回す。右手を、体温の交わりの
途切れないように、彼女の細い腕を伝わせ、肩を抱く。
腕に力を入れて、真琴の小さな体を抱き寄せる。
彼女は私にされるがままに、私の胸に、顔をうずめ
た。
柑橘系の髪の香りと、真琴の汗と体臭の混じった、
クラクラするくらい濃い甘い匂いが、私を襲った。白
飛びする視界の中、手のひらが、真琴の熱い体の形を
暴いていく。
儚い体だった。女性らしい、丸みを帯びた細い骨格
により成っている彼女の体は、硝子細工みたいに綺麗
で、透き通っていて、ほんの小さな、何かの拍子に壊
れてしまいそうな、脆さを帯びていた。
全身から、真琴の柔らかい体の感触と共に、熱い体
温が私の温度に浸食して、互いを食べあっている。
私は、初めての種類の、高揚と興奮を覚えていた。
この感情は、安心感と不安感の狭間。胸の中で抱か
れる真琴から伝わってくる体温と、抱き締め返してく
れようと、私の背に回された彼女の両腕が、私の全て
を肯定してくれているみたいで、暖かく、愛おしいの
と同時に、いつか、彼女を失ってしまった後の世界の
喪失感が点滅して、脳裏を焼いた。
心が宙に浮いていた。
暗転を繰り返す意識、失われていく体温が、彼女を
抱く私の体から、全身の感覚を薄めていく。
「嗅いでいいよ」
真琴は私の胸から顔を離し、上目遣いで囁いた。
「嗅いでいいよ、わたしの、匂い。大好き、でしょ?」
彼女は、口角を吊り上げ、内にゆらゆらと揺れる炎
を灯した、朦朧とした目をして、超可愛い、悪い顔を
していた。
「わたし、気付いてるから。初めて話した時から、ず
っと、心寧はわたしのこと、匂いで判別してる。わた
しの、髪の匂いが好きなのかな?それとも、わたしの
体の匂いが、大好きなのかな?心寧は、匂いが風に乗
ったり、漂ったりする度に、深く息を吸って、匂いを
嗅いで、幸せそうな顔を、してるの。自分では、気づ
いてないと思うけど。だって、わたしの匂いを嗅ぐ度
に、すごくだらしない顔、してるから」
真琴は物欲しそうにこちらへ視線を向けて、誘うよ
うに、首を傾け、長い横髪を持ち上げた。露わになっ
た彼女の白くて綺麗な鎖骨と首元は、透明な色の、儚
い彼女にしては、あまりに生々しく、美味しそうだっ
た。
気づけば、口内に溜まっていた唾液を喉の奥へ押し
込む。今すぐに、真琴の首筋に飛びついてしまいたい、
と宙ぶらりんの心が煩く鳴っていた。
「でも、変だよ、そんなの。変態、みたいで、おかし
いよ」
「大丈夫。心寧は、変じゃないから」
そう言って真琴は、私の頭に小さな手を乗せた。
お父さんやお母さん、蛍さんのものとも違う、硬い、
角張った手のひらの形。
「わたしが、可愛すぎることが、悪いの」
真琴は優しく、私の頭を撫でながら、手に力を入れ
て、私に彼女の首元の匂いを嗅ぐように、促した。
不安定に宙に浮く心は、自らの欲望に対抗しようと
することさえ、彼女の言葉に毒され、忘却してしまっ
ていた。
私は促されるままに、真琴の首元へ顔を近づけた。
深く、息を吸い、匂いを嗅ぐ。
薄らと汗ばんでいた真琴の体からは、濃厚な、甘酸
っぱい匂いがした。匂いを体に取り込んだ瞬間に、毒
みたいに全身を回って、私を犯した。真琴の体の匂い
が恋しくなって、堪らなくなった。
視界が暗転と白飛びを繰り返す。
硝子細工だったはずの真琴の体を力づくで押さえ付
け、私は夢中で、匂いを嗅いでいた。
「心寧、可愛いね。盛った、犬みたいで」
真琴はそんな私の頭を、優しく撫で続けた。
私が真琴の匂いを嗅ぐ度に、彼女はくすぐったそう
に身を捩らせて、小さな、喘ぎ声を漏らしていた。
溶けるように、時間は過ぎた。
真琴の首筋から顔を離すと、酷く汗に塗れた、真琴
の姿があった。
直後、ぼんやりとした目をした彼女は、同じように、
私の首筋の匂いを嗅いできた。
「確かに、癖に、なりそう」
真琴は独り言のように呟いて、再び、私の首元の匂
いを嗅いだ。くすぐったい感触に、身を捩った。
私も、彼女と同じか、それ以上に、汗に塗れ、自分
自身、酷い体臭がするだろうと容易に理解できた。し
かし、私にとって、真琴の汗の匂いの混じった体臭が
甘酸っぱく感じられてしまったように、真琴の感じて
いる私の匂いが、彼女にとっての毒となって、真琴の
脳を犯してしまえればよかった。
少しの間、真琴は私の匂いを嗅いでいた。そして、
ぐったりとして、私に体を預けた。私達の温度は、一
つだった。互いの、心臓の鼓動も、荒くなった呼吸も、
昂った心の鮮やかな色彩も、手に取るように、感じら
れた。
「今日は、これでおしまい、だから」
私の胸の中で、真琴の唇の震える感触がある。しば
らくそのまま、彼女を抱き締めた後、彼女は私の腕と
体との絡まりを解いて、私に向き直った。
夢から覚めるみたいに、全身の感覚が戻ってくる。
私の体から、真琴の鼓動が、小さくなっていく。
眼前の真琴の体が、やけに小さく見えて、同時に、
私の体が自分だけのものになることが、真琴の体から、
私の熱が消えてしまうことが、気に入らなくて、受け
入れられなくて。
真琴の全てを知りたい。私は、そう願っていたはず
だった。
でも、今はもう、それだけでは足りなかった。傲慢
であることは、誰より私自身が知っていた。彼女の全
てを知りたいと純粋に思えた、私自身が、だ。
私の心のドロドロとした部分が苦しくて、駄目だっ
た。
「何処にも、行かないで、ね」
何を言っているのか、自分でも分からなかった。心
から溢れた感情が、未熟な理性によって拙い言葉に変
化しただけのことだった。
「わたしは、ずっと、心寧の隣にいるよ」
それでも、真琴はそう言って、笑ってくれた。
もっと、真琴の全てを知りたいと急かす衝動を、抑
え込む。
歪んでしまったのだ。
もう、知るだけでは、満たされない。
私は、真琴の全てが欲しかった。
酒を飲まなくなってから、寝覚めが良くなった。
二日酔いで頭が痛むこともなく、意識は鮮明、脳が
冴えて、怖くなる。
酒に溺れて久しく、忘れてしまっていたが、元々私
はすこぶる寝覚めのいい人間だった。毎朝、夢の中で
微睡む事も許されず、あまりに鮮やかに、現実を突き
つけられ続けたことは、私が酒に溺れた要因の一つだ
った。
「全然、眠気がないや」
最近、買い溜めしたブラックの缶コーヒーのタブを
引き、中身の黒い液体を体内へ流し込む。コーヒーは、
脳が冴えていく感覚が苦手だったが、それを差し引い
ても、以前から愛飲を続ける程、味と香りが好きだっ
た。私がそれに気がついたのは、酒に頼らなくなった、
つい最近のことでは、あったのだが。
時刻は、朝の六時を回ったところだった。
視聴する訳でもなく、何となく点けていたテレビの
番組が幼児向けのアニメから面白みの無いニュース番
組に変わる。
空き缶をゴミ箱へ投げつけ、テレビの電源を消し、
私はさっきまで寝ていたベッドに戻った。
「可愛い顔で、眠りやがって」
葵は安らかな表情をして、小さく寝息を立てていた。
掃除、洗濯、料理など、私という居候がいながら、
家事全般を一人で抱え込んでいる彼の苦労は計り知れ
ない。
以前までは、その苦労の対価として、可愛い私が家
にいてあげる、なんて、ふざけたことを言って彼に甘
え続けていたが、現在は、彼に対する感謝の気持ちと
申し訳なさでいっぱいだった。
とはいえ、これまで家事から逃げ続ける人生を送っ
ていた私が彼の手伝いをしようにも、かえって迷惑を
かけてしまうことは目に見えていた。
ゴミの収集日も知らず、服の皺を伸ばそうにもアイ
ロンに触れたこともなく、包丁を持てば必ず手に切り
傷をつける。
早々に一人暮らしが破綻し、葵の家に転がり込んだ
ことが、私達の今の生活の始まりだった。
「何も、返せてない」
ベッドに腰掛け、葵の顔を見下ろした。
手を伸ばし、彼の温かい頬に触れて、少し硬い質感
の髪を撫でる。軽く頬をつねってみても、彼は一切表
情を変えず、目を覚ます気配すらなかった。
無防備に誘う唇が目に入ったが、彼との口付けを求
め、訴えかけてくる感情を、力づくで抑え込む。
私が彼に溺れたあの夜を最後に、彼の体を求めるこ
とを抑え続けていた。
誰かを幸せにする。
一度、自分の正体が露出し、彼に溺れておきながら、
私のやりたいことを、人生の指針を、全部諦めて、失
くしてしまうことが、怖くて気に入らなかったのだ。
それすら無くしてしまって、先の人生、ただ、男と酒
に溺れるだけの幸福な死を迎えるなど、悪夢に違いな
かった。
しかし、葵からしてみれば、全く勝手な話だろう。
もしも、私の何かが彼を縛り付けて、私の我儘に振
り回されて、彼の生きたかった人生を生きられていな
かったのだとしたら、私が、耐えられない。
「好き」
葵の首筋を撫でる。彼の目は、深く閉ざされたまま
だった。
結局、今朝も私は何をすることも出来なかった。テ
ーブルに座ってテレビを見たり、スマホを弄ったりし
て、ただ、葵の作る朝ご飯を待った。
色とりどりの料理が並べられたプレートを私と、彼
の椅子の前のテーブルに置き、彼はキッチンに戻った。
彼を目で追っていると、欠伸をしながら、二人分のコ
ーヒーを淹れ始めた。
毎朝、コーヒーを淹れることくらいなら、練習さえ
積めば、私にも出来るかもしれない。
そう、ぼうっとした顔をしている彼の姿を見て、思
い立った。彼にとっては、ほんの小さなことかもしれ
ないが、それでも、少しでも彼の助けになりたかった。
「ねえ、コーヒーの淹れ方、教えてよ」
言うと、葵は不思議そうな顔を向け、困惑した様子
で口を開いた。
「何だか、面白いことを言いますね」
「真剣に聞いてるんだけど、私」
彼はわざとらしく肩をすくめ、冗談を口にするよう
に聞いてきた。
「教えたら、毎朝淹れてくれるのですか?」
「淹れる」
「貴女には、似合わないですよ」
「今は、似合わないだけ」
葵は湯気のたつコーヒーカップを両手に持ち、それ
ぞれのテーブルの上に置く。ようやく腰を落ち着け、
静かに、私の目を見た。腕を組み、小さく笑った。
「良いですよ、教えてあげます。その代わり、本当に
毎朝、淹れてもらいますからね。二人分」
「二人分、とか言われなくても、淹れるってば」
言いながら、コーヒーカップに口をつける。
いつもの、暖かい味がした。
一人じゃないって、抱きしめられるみたいに、安心
する。
思い返してみれば、私がコーヒーを好きになれたこ
とは、彼が毎朝淹れてくれた、このコーヒーによる影
響なのかもしれなかった。
「「いただきます」」
私達は手を合わせ、朝食を食べ始める。これまで、
何度だって繰り返されて、当たり前のようになってい
った日常の一部。
沢山の時間と労力を費やして、全てを投げ出した私
を救い続けてくれた、葵の生活だ。
しかし、それだけのものを私に費やす価値が、彼の
人生の中に果たしてあっただろうか?葵の優しさに漬
け込んで、私は緩やかに、彼を殺してしまっていたの
ではないか?
そんな考えが脳内を巡っていった。私は、彼に救わ
れた私のように、葵は葵らしく、生きて欲しかった。
「葵は、やりたいこと、とか、ある?」
「この間蛍さんが言っていた、商店街の百円のコロッ
ケを食べてみたいです」
葵は淡々と言った。
「そういうのじゃなくて、もっと、大きいの。人生の
夢、みたいなさ」
「蛍さんの、誰かを幸せにしたい、みたいな感じので
すか」
頷いて見せると、彼は少し考えた後、満たされたよ
うな表情で、笑った。
「別に、俺は蛍さんと一緒に居ることが出来れば、そ
れで幸せですよ。誰もが、蛍さんみたいな壮大な夢を
抱いているわけではありませんから」
彼の言葉に、全身に巡る血液が熱くなると同時に、
心に刺すような痛みが走った。
「それは、おかしいよ。私は、葵の人生を幸せに出来
るような、人間じゃない。葵は、私に毒されちゃった
んだって」
「毒されていようが何だろうが、良いじゃないですか。
俺の人生です。蛍さんを愛することも、一緒に生きた
いと願うことも、俺の勝手です」
彼は諭すように、続けた。
「それに、蛍さん、酔ったら全部忘れちゃうじゃない
ですか。何年も酔いっぱなしで、蛍さんは自分のこと
が、分からなくなってしまったんですよ。本当の蛍さ
んは、優しくて、強い信念を持った、可愛い女の子で
すから。蛍さんは、魅力的な女性です。俺には、勿体
無いくらいの」
葵が食事を止め、私へ手を伸ばす。
その一挙一動を、目で追うことしか、出来なかった。
「貴女を、愛しています。蛍さんと一緒に居られて、
俺は幸せです」
彼の手が、頭に触れる。
「蛍さんも、蛍さんらしく、生きてください。俺は、
貴女らしい貴女を、幸せにしたい」
そのまま、優しく、撫でられた。
何度も何度も、そうされてきたはずなのに、やけに
彼の手が、暖かくて、仕方なかった。
日を重ねる度に、私の真琴に対する欲求は増してい
くばかりだった。
毎朝、手を繋いで登校して、高校では、ずっと二人
で過ごして、また、手を繋いで、くっつきあって、下
校する。別れ際に、互いの体を抱き合って、匂いを嗅
ぎ合った。
初めは、匂いを嗅いでいるだけで満たされて、一人
の夜に真琴に向けられた感情が激しく揺れ動き、苦し
むこともなかった。
だが、それも一週間と持たなかった。
体の匂いと感触だけでは足りなくなって、私は、真
琴の体をベタベタと触って、撫でたり、揉んだり、弄
ったりして、彼女の女性らしい肉付きの体の感触と、
私の胸に顔を埋めて、小さく喘ぐ彼女の反応に、心を
昂らせた。
一線だけは超えてしまうことのないように、柔らか
そうな桃色の唇には、触れなかった。抱き合うと、真
琴の顔がすぐ近くにあって、私達のどちらかの、互い
を想う感情が心の琴線に触れ、ほんの少し、求めるだ
けで、唇を重ねて、キスをすることは容易だった。私
からのキスを誘うように、いつも、真琴は唇を濡らし
て、上目遣いで私を見ていた。
真琴を感じずに、生きていられる自信が、私にはも
う、無かった。苦しくなって、彼女を感じて、幸福で
満たされて。それを繰り返していくうちに、私の心の
中で、真琴の存在は際限なく大きくなっていった。
楽しく過ごすことを指針に回っていた私の毎日は、
真琴を感じることを中心に据えた生活にすり替わった。
真琴のことが好きで堪らなくて、他の全てが、どうで
もよくなっていった。
自分が、狂ってしまったのだという確信はあった。
私の真琴に対する感情が恋愛感情なのかは定かでは
ないが、この国では、同性婚は認められていない。そ
れに、女の子同士で、私達みたいに求め合うなんて、
物語の中でしか知らなかった。
だが、真琴との毎日は、溺れてしまいそうな程の、
幸福に満たされていた。こんなにも幸せな生活を手放
すなど、考えられなかった。
「わたし、心寧に、伝えたいことが、あるんだ」
目を泳がせ、自信無さげに彼女がそう言ったのは、
何とも無いような一日の、下校中のことだった。手を
絡ませて、葉の色がピンク色から緑色に変わった桜の
下を歩いていた。
「伝えたいこと?」
聞くと、真琴は頷いて、ただ、視線は合わせずに続
けた。
「わたし達にとって、すごく、大切なこと。出会った
ばっかりだった頃、話した、わたしが、一人でいたが
ってた、理由の話」
「あの、雨の日にしてくれた話だよね。仲良くなれて
も、最後には傷付けあって終わる、でしょ?」
「そう、それのこと」
言いながら、真琴は不安そうに俯く。
もしかしたら、その理由とやらのことで、私を傷付
けてしまうことが、怖いのかもしれない。彼女の強張
った横顔に、そう思わされた。
「真琴!大丈夫だから!真琴のことなら、私、何でも
受け止める!どんなに深い傷だって、愛せるから!」
真琴は素っ気なく、顔を背けた。
「ありがとう。でも、本当のこと、言ってね」
首を大きく縦に振って見せると、真琴は意を決した
ように、私の方に向き直った。内で渦を巻く黒色の瞳
が、私を捉える。
真剣な顔、だった。私の知らない、真琴の一面。
この瞬間、これまでに無い、真琴にとって重大な事
実を知ろうとしているのだと、私は自覚した。だが、
どれほど鋭利な事実だとしても、簡単に受け止められ
る自信があった。どれだけの血が流れようと、真琴に
傷口を舐めてもらえさえすれば、私はそれで幸せだっ
た。
真琴は、歩みを止める。
数秒間の間の後、彼女は深く息を吸った。
「わたし、女の子が好きなの」
真琴の、凛とした声色が辺りに響き渡った。
「女の子が、好き?私も、可愛いから、好きだけど」
「心寧の、好き、とは違う。わたし、恋、しちゃうん
だよ。女の子、相手に」
真琴は私の左手をとって、指を深く、絡ませた。両
手を絡ませあって、私達は、向かい合う。
彼女は私の方に体を寄せ、口を開いた。
「わたし、同性愛者、なんだよ。小さい頃から、女の
子の心と体が欲しくて、でも、誰も、受け入れてくれ
なくて、ずっと、切なかった」
熱い吐息が顔にかかって、視界がチカチカと光る。
同性愛者。
その言葉の意味も、恋を知らない私には、理解出来
なかった。しかし、私の無知も相まって、特別、彼女
に対して偏見を持つことも、抵抗を感じるわけでもな
かった。
ただ、真琴について知ることのできた喜びだけが、
私を支配していた。
顔を火照らせ、私を見つめる真琴を励ますように、
声を発した。
「大丈夫!真琴が同性愛者、でも、私、全然抵抗ない
から!これからも、いつもみたいに、過ごせるから!」
「だから、違うってば」
真琴が言い捨てるように言った刹那、柑橘系の香り
が揺れて、唇に、吸い付くような、柔らかい何かが触
れた。
初めての感触、だが、薄らと濡れた彼女のそれの、
痺れる感触には、覚えがあった。
いとも簡単に、私達は、一線を越えた。
大好きな真琴からの不意打ちみたいなキスは、私が
生まれて初めて誰かと交わした、特別なキスだった。
彼女は、唇を、私の唇から離し、上げたかかとを元
に戻す。
顔を真っ赤をした真琴は、震える声で、言った。
「わたしは、心寧のことが、好き、って言いたいの」
私のことが、好き?
真琴の言う、好き、は、私の持ち合わせる、好き、
とは異なる、はずだった。
「あんなに傷付いても、わたしを求め続けてくれる人
は、初めてだった、から」
恋愛感情?
真琴から向けられた得体の知れない感情に対する受
け止め方が、私には、よく分からなくて。
「心寧。私の、恋人に、なって欲しい」
熱い吐息混じりの真琴の言葉に、私は応えることも、
拒絶することも、出来なかった。
恋愛感情の正体も、恋人になることの意味も、女の
子同士で恋に溺れて、普通、を犯してしまうことの罰
も、何も知らない。
真琴の全てが欲しい。
私の、真琴に対する感情の名前も不明。
「一日、考える時間が、欲しい」
私の声は、震えていた。
だが、無責任に首を縦に振る事だけは、出来なかっ
た。真琴には、本当のことを、言わなくてはいけない。
それに、真琴とは手を繋いで、同じ歩幅で、歩きた
かった。互いの顔を見つめ合って、笑い合えなければ、
一緒に居る意味なんて、私には見出せない。
しかし、心の底から湧き上がってくるような、恐怖
感があった。何処かで、たった一つ間違えてしまえば、
簡単に歯車が狂って、真琴との間の全てが崩れ去って
しまうような予感が、確かにあった。
「私、真琴のこと、大好きだよ。でも、恋とか、恋愛
感情っていう、ものが、今は、よく分からない。真琴
は、私の特別、だから。一緒に、隣で、歩きたいから。
私の真琴に対する気持ちと、ちゃんと向き合って、返
事、したい。一日だけ、返事、待ってほしい」
言うと、真琴は俯いて、吐くように言った。
「別に、待つから。何日でも」
彼女は、顔を上げて、私の目を見つめた。黒色の瞳
の上に、薄い涙の膜が張っていて、宝石みたいに、輝
いていた。
「目、閉じて」
唐突に真琴は強い口調で言った。
驚き半分に従った直後、熱い吐息が顔にかかった。
真琴の体の甘い匂いが揺れて、また、彼女の唇が私の
唇に触れた。
今度のキスは、ただ、触れるだけのキスではなかっ
た。何度も何度も、唇を重ね合って、吸い合った。
私達は、キスの仕方なんて知らなかった。手探りで、
唇を押し付けてみたり、吸ったり、軽く、何度も重ね
合わせたり、様々なキスを試しては、その度に、痺れ
るような快楽が襲って、脳が点滅した。
薄目で真琴の顔を覗くと、彼女はとろけたような目
をしながらも、一生懸命に私の唇を吸っていた。
最後に、真琴は私の唇の間に、唾液でねとねとの舌
を捩じ込んできた。
誤って噛んでしまわないように口を大きく開けると、
彼女の熱いドロドロの舌が、私の口内を這うように舐
めていった。
口内を一周して、歯と、歯茎を舐められる。
口の中が、粘度の高い、甘ったるい真琴の唾液で一
杯になって、暴力的な快楽を感じさせられた。
私の中で波打つ快楽に阻害されて何度も白飛びする
意識の中で、真琴の舌が、私の舌に絡み付いてきたこ
とが判別できた。
撫で付けるように舐められては、感じて、力の入ら
なくなった私の舌は、されるがままに、弄られ続けた。
真琴が私の唇を離すと、唾液が糸を引いた。
絡ませ合っていた両手が離されて、それから、唾液
が桜の上に落ちた。
腰が抜けて、視点が下がる。彼女を見上げる。
真琴は絶え絶えの息で、小さく笑った。
「わたしの、告白の返事、するまで、体、触らせてあ
げないから」
唾液塗れの唇を触って、彼女は続けた。
「心寧、大好きだよ」
快楽のあまり腰が抜けて、動けなくなった私を立た
せてすぐ、真琴は一人で先に帰ってしまった。確かに、
こんな話をした後に二人きりなんて、気まずいかもし
れない、とは思うが、それでも、私は真琴の隣を歩い
ていたかった。
まだ、体の火照りは収まらなかった。口内は、粘り
気の強く、甘い真琴の唾液で満たされている。両手に
も、真琴の角張った手の感触と熱い体温が残っていた。
今までで一番刺激的で、真琴を感じられるものが、
私の中に残されているからかもしれない。
私の心も体も、興奮が止まなかった。
「でも、返事、考えなきゃ」
しかし、昂った脳で何を考えようにも、上手く考え
が纏まらないことは目に見えていた。そもそも、以前
平静な状態の時に、私の真琴に対して抱いている感情
の名前について、考えたことがあったはずだった。
その時の私で駄目なら、今の私が一人で考えても、
正しい結論が導き出せる訳も無い。
となれば、方法は一つだった。
スマホを取り出し、レインを起動する。
彼女の位置情報を確認し、メッセージを送った。
「そのままベンチに座っててください。相談がありま
す」
返信を待たずにスマホをスカートのポケットの奥に
仕舞い込む。文目商店街へ向け、歩き出した。
商店街の人通りは少なかった。
同じような時間帯でも、中学生の頃と比べて人の数
が、明らかに減っている。
そういえば、私達がチラシ配りを手伝った、イベン
トとやらは、どうなったのだろう?
あれから一ヶ月ほどが経過しているが、音沙汰がな
い。商店街の店に貼り付けてあるポスターの群れを見
ても、それらしい内容のものはない。
私も、毎日商店街に来る訳では無いし、もしかした
ら私の知らない間にイベントがあって、大盛況に終わ
ったのかもしれなかったが、現状を見るに、そうも思
えなかった。
年々、歩きやすくなっていく商店街を歩き、いつも
のベンチが視界に映った。
そこに座る、警察官の制服を着た女性の正体は、蛍
さんだ。
先日、レインにアップデートが施された。
メッセージのやり取りだけでなく、位置情報の共有
が可能になった。
私はこの機能を使い、蛍さんが商店街で仕事をサボ
っているのを発見し、メッセージを送ったのだった。
「蛍さん!」
声を上げると、彼女は顔をこちらへ向け、小さく手
を振って見せた。
ふらつく体を制し、蛍さんの隣に腰掛ける。
「サボりですか?」
茶化して聞くと、彼女は空を見上げ、答えた。
「そうだよ。仕事、怖くなっちゃってさ。私の分まで、
仲間がね、頑張ってるの」
蛍さんは、自嘲するように笑った。
何も考えずに放った一言で露出した彼女の翳りに驚
くと同時に、全身に緊張が走る。
蛍さんは私の顔を一瞥し、表情を改めた。
「ああ、ごめんね。そんな顔しないでよ。お酒飲んで
る時の私と、してることは変わってないよ。それに、
今は心寧と会えたから、嬉しい気持ち」
「だったら、良かったです、けど」
言うと、蛍さんは私の頭を優しく撫でて、笑顔を見
せた。
「それで、どうしたの?相談、なんて。何でも言って
良いからね、お姉さんに」
蛍さんは、頭を優しく撫で続けながら、小さい子供
を諭すように口にした。彼女の手は、真琴の手より柔
らかくて、指が長くて、全体的に大きい。撫でられて
いると、すごく安心できる、暖かい手だった。
「真琴に、恋人になって欲しい、って、言われたんです」
私は、全て彼女に話した。
心寧が、私のことを、好きになってくれて、恋人に
したい、って言ってくれたこと。
私には、好き、がよく分からないこと。
女の子同士で恋人になるこの意味も、普通を犯すこ
とで、私達に降り掛かる罰のことも、分からないこと。
真琴とは互いへの気持ちを理解し合って、これから
も隣で、歩いていたいこと。
話を聞いた蛍さんは、子供みたいに無邪気な表情を
した。
「心寧は、真琴ちゃんのこと、大好きなんだね」
「でも、その好き、と、真琴の言う好き、は違う、と
思います」
「まあ、確かにそうだけど。でも、すごく似てるよ」
蛍さんは慈愛に満ちた瞳を、私に向けていた。
「どういう、意味ですか?」
「恋愛感情、なんて感情はない、っていうこと。誰か
を尊敬したり、いいなーって、思ったりして、心が揺
さ振られていく内に、一人に向ける感情が大きくなっ
ていく。その大きな感情をね、人は時に、恋って呼ぶ
の」
悪戯っぽく、彼女は続けた。
「だからね、恋に明確な定義なんて無いの。色んな想
いの混じったその感情の塊を恋と呼びたいと思う人が、
そういう言葉を使うだけ」
彼女は陽気に語る。
だとすれば、恋なんて可愛くとも何とも思えなかっ
た。恋、という素敵な言葉を自分の為に消費するなん
て、ちっともロマンチックじゃない。
「じゃあ私、一生、恋、出来ないかもしれません。そ
んなの、全然、可愛くない。憧れては、いたんですけ
ど」
「心寧が恋と無縁とか、そんなことは絶対無いから。
それに、愚かしく思えるかもしれないけど、恋は女の
子を可愛くする魔法なんだから」
「どうして、私と恋に縁があるって、言い切れるんで
すか」
「そういうところだよ?」
女児みたいな無邪気な表情をして、彼女は笑った。
「だって、気づいてないんだもん。初めから、ずっと
恋に堕ち続けているのに」
「それは、どういう?」
「恋を恋だと認められないことも、一種の恋だってこ
と!」
蛍さんは楽しそうに言いながら、私に彼女の言葉の
意味について、深く考えさせる隙を与えなかった。
「それで、心寧は、真琴ちゃんをどうしたいの?」
「どう、したい?」
「そう、真琴が、どうしたいか。それが一番大切だよ」
彼女の言う通り、思案する。
真琴を、どうしたいか。脳内に、柑橘系の髪の匂い
と、柔らかい彼女の肉体の感触が生々しく蘇ってくる。
彼女の、必死に抑えようとしながら、溢れてくる喘ぎ
声が。時に、悪戯っぽく私を誘っては、されるがまま
に火照っていく彼女の体の体温が、脳内を溶かす。
「私、本当は、真琴を私だけのものにしたい」
無意識下に、その言葉は発された。
澄み切った結晶みたいに儚くて、綺麗な真琴のこと
を、私の汚れた手でベタベタに触って、穢して、結晶
だったことすら、私にしか分からないようにしてしま
いたい。
私はいつか、真琴に対して抱いたこの黒色の感情が
露わにならなように、心の奥に閉じ込めて隠しながら、
何度も何度も、彼女の体に触れ続けてきた。
「飼ってしまいたい、くらい」
心の奥で熟れて、劇物と化したこの感情の名前を、
恋なんて呼びたくはない。ドロドロとして吐く程甘く、
ひたすらに真琴を汚すことを訴えかけてくるこの感情
の名前は、名前は、そうだ、性欲。
性欲と、名付けることにしよう。
これよりも適切に、私の汚い欲望を形容できる言葉
が存在するかもしれないが、今は、性欲、と、呼称す
ることにする。恋、はもっと、綺麗な感情に、名付け
たかった。
「自分のエゴには、従わないと駄目だよ」
蛍さんは言った。
「そうしないと、心寧が心寧であることの意味が、無
くなっちゃうから。あ、エゴに従うことと、エゴを他
人に押し付けることは、違うからね。私のものになっ
て欲しい、って、ちゃんと、伝えることが大切だから」
頷くと、彼女は頭を撫でながら、声を潜めた。
「あとね、普通、なんてものは、誰かを幸せにする為
にある訳じゃないんだ。この国を、回す為にあるの。
ほら、上の人達からしてみれば、みんな違うと扱いに
くいでしょう?だから、そんなものに縛られてたら、
幸せにはなれない」
「普通を守らせる、警察官の言う言葉ですか」
「警察官だから、言えるんだよね」
蛍さんは目を細めて、自虐的なような、笑みを零し
た。
「普通を犯すことは、本当の幸せを掴むための最低条
件だよ。良いじゃん、運命の相手が、女の子でも。大
切なのは、自分のエゴに従えたかどうか。そう思わな
い?」
「そのエゴに従って普通を犯して、身を滅ぼすことに
なっては、元も子もないです」
「大丈夫だって。分かってくれる人は、沢山いるよ。
それに、心寧も、一人じゃないでしょ?周りの全ての
人が敵になっても、その人だけは、隣にいてくれる。
それだけで、何にだって立ち向かえる勇気をもらえる
んだから」
「でも」
「でも?」
蛍さんは変わらぬ優しい口調で、私の言葉を促す。
「一人じゃないから、もし、私のせいで、真琴を不幸
にしてしまったら、と思うと、怖くて」
「そんな事にならないように、二人で一緒に歩いてい
かなきゃね。もし、不幸にしちゃったら、なんて、気
にしても仕方ないよ」
彼女がそう口にした瞬間、心臓が跳ねた。
気にしても仕方のないことは気にしない。考えても
どうしようもないことは考えない。私のポリシー。
今、私には何が見えている?
ドロドロの性欲で目の前が見えなくなって、彷徨い、
彼女の体に触れて快楽に溺れて。
私は、何を求めていたんだっけ?
蘇る。数ヶ月前、このベンチで、蛍さんに語った私
の、真琴への想い。真っ直ぐで、澄み切った感情。
「私は、真琴の全てを知りたい。真琴の、笑顔が見た
い。私が、真琴を幸せにしたい。そう思って、私は真
琴に近づいた。それを、今、思い出しました」
気にしても仕方のないことは気にしない。考えても
どうしようないことは考えない。
真琴を、不幸にしてしまうかもしれない。
なんて、私は気にしない。考えない。
彼女の隣を歩けなくてもいい。
真っ直ぐに、私の純粋な感情に従って、真琴に向き
合うだけ。愚直に、全力投球を続けるだけ。
異なる道でも、本当の私で向き合うことこそが、真
琴と一緒に歩いていく、ということだ。
「私、真琴の恋人になります。私のエゴに、従う為に。
真琴の幸せそうな笑顔を、知る為に」
「そっか」
彼女は安堵したように、息を吐く。
泥のような感情を拭うと、気付かぬうちにぼやけて
いた視界が晴れて、甘いヘアオイルの匂いが香った。
「だって、真琴を絶対に幸せにする方法。思い付いち
ゃいましたから」
「へえ?」
蛍さんは興味有り気にこちらへ目線を寄越した。
「諦めなければいいんです」
言うと、蛍さんは小さく笑った。