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七色の心臓  作者: 九頭坂本
3/8

青色の蠢き


 街灯の無機質な光に照らされて、散り、地面に咲い

た桜の花弁は鮮やかなピンク色を発していた。

 居酒屋で飲んでいる顔ぶれはいつも同じだった。

 二人の警官と六人の若い男女、くたびれた会社員に

ギターを背負った青髪のバンドマン風の男。

 アルバイトの青年は今晩は休みらしく、雰囲気の似

た、別の青年が彼の代役を勤めていた。

「カシスオレンジ、って、どうしたんですか、蛍さん。

どこか具合でも悪いんですか」

「いや、いいでしょ、別に。私だってカシオレを飲み

たい気分の時くらいあるから」

「いえ、蛍さんに限って気分の問題ではありません」

「どうして言い切れるのよ」

「あなたの食生活は、ここ数年全て俺が管理してるじ

ゃないですか。俺は、朝食、昼食、夕食、蛍さんの好

みと栄養バランスを加味して毎日毎日、必死にメニュ

ー考えて手料理作ってるんです。蛍さんがこれからカ

シオレ飲めるのも、あなたの健康な体を作っている俺

の努力のおかげです。その俺が言うんですから、間違

いはありません」

「体はそうかもしれないけど、私の心まで分かった気

にならないでよ」

 葵は黙り込む。

 お待たせしました、と言いながら、アルバイトの青

年は二杯のカシスオレンジを蛍達の前に置いた。

 蛍は表情を変えないままグラスを傾け、その後に小

さく笑った。

「甘いね。確かに、気分じゃなかったかも」

「それじゃあ、いつもみたいには酔えません。あまり、

酔いたい気分では無いのではないですか」

 蛍は頬杖を付き、小さく口を開いた。

「近いうちに、話すよ」

「ええ、それがいいです」

 葵は安堵したような表情で頷いた。

 今まで、誰を殺せだの、何を壊せだの、銃を用意し

ろだの、そういう仕事ばかり依頼されてきたんだ。自

殺したい、なんてお前みたいのは初めてだ。

 その声はくたびれた会社員と、青髪のギタリスト風

の男の間で交わされた。

 互いに意識を向け合う蛍と葵に、その声は聞こえて

いない。

 青髪のギタリスト風の男は、会社員に陽気に聞く。

「じゃあ、死にたい理由と、いくら出せるか、希望の

死に方、などなどだ。色々聞かせてくれ、おっさん」

 くたびれた会社員は、清々しい表情で笑った。

「これでもまだ、三十にもなってないんですよ」

「マジかよ。その老けた顔で俺より年下とか、お前ど

ういう生活してるんだよ」

「普通の、会社に勤める社会人の生活です」

「俺の五倍のスピードで老けるくらいの苦しい生活が、

社会人の普通だっていうのかよ?大変だな」

 青髪の男はアルバイトの青年を呼び、二杯分のビー

ルと三人前の唐揚げを注文した。

「奢ってやるよ。そんな暗い顔してる奴、俺としても

気持ちよく殺せねえんだ」

 ありがとうございます、と口にした後、会社員は自

虐的な笑みを浮かべた。

「普通ってのは、恐ろしいですね。唯一、私に同情し

てくれた人間が殺し屋だなんて」

「お前は不運か、それとも人を見る目のない奴らしい

な。普通を疑うこともない、馬鹿な人間に囲まれて生

きるなんて、俺なら御免だね」

「手厳しいですね。でも、確かに、私には見る目は無

かったのかもしれない」

「でも、お前は違ったじゃねえか。普通を疑い、行動

することが出来た。まあ、自殺、なんて逃げの一手だ

けとな。で、どうだ?三十もいってないなら、まだや

り直せる。新しい人生を始める気はないのか?」

 お待たせしました、という声と共に運ばれてきた唐

揚げの一部にだけレモンを絞りながら、青髪の男は聞

いた。

「娘がいるんです」

 レモンのかかっていない唐揚げを齧りながら、会社

員は言った。

「娘は、私にとって、たった一つだけの大切な宝物で

す。娘を守るためにも、私は普通を守らなければいけ

ない」

「なるほど、保険金目当てか。お前が交通事故かなん

かで死んで出た保険金が、それからの父親としてのお

前の代役を務めてくれる訳だ。お前は最後まで、普通

を装って死んでいく」

「その通りです」

 青髪の男は豪快に唐揚げを頬張り、ビールを煽る。

 何かに気付き、指を鳴らし、会社員の方を見た。

「待てよ。お前の嫁に保険金かけて殺せばいいじゃね

えか。お前が、母親の代役をしてやればいい。それな

ら、お前はその宝物と一緒にいられるんじゃねえか?」

「面白い人ですね。私、殺し屋って他人の事情など気

にしないものだと思っていましたよ」

 愉快そうな笑い声をあげ、ビールのジョッキを傾け

る。

「私には母親の代わりは務まりませんし、それに、も

う、私はこの世界にいたくないんです。誰もが、見え

ない何かに縛られて、窮屈で、苦しく、生きにくい。

あなたは、私の人生の中で出会えた唯一の例外ですけ

どね」

「俺としても、お前みたいな奴は例外中の例外だ。ま

さか、この世界の普通、に殺されたなんてな」

 男達は静かに笑い合った。

 それから数十分後、三人前の唐揚げとビールを飲み

干し、会社員は席を立った。青髪の男へ言う。

「久しぶりに、楽しかったです」

「おう」

「ご馳走様でした。依頼の件、よろしくお願いします」

「娘に手紙とか、なんでもいいけど、残したい物は事

前に俺に預けとくようにな」

「ええ」

 会社員は少し背を伸ばし、店を出て行った。

 

 毎朝、真琴の家の前に立つ度、若干緊張する。

 世界を照らす太陽の光も、舞台に上がった私の存在

を強調するためのスポットライトのように思えてくる。

「いつ見ても、我が家とは格が違うな」

 真琴と知り合う前には立ち入った事もなかった、近

所の高級住宅街の中には、いつもの春の空気に混じっ

て清潔感と上品な雰囲気が漂っていた。

 私の目の前にある美琴の家は、恐らく四階建て。

 家の規模自体が一般的な住宅とは程遠い。建築のこ

となど全く分からないが、白や黒を基調としたカラー

リングの中に、木材を取り入れたりしていて、なんだ

かオシャレだ。

 我が家のくすんだ色の外壁に見慣れているせいか、

彼女の家の発色のいい外壁は光り輝いて見える。この

状態を維持するのはさぞ大変だろう、などと頭に浮か

んでしまうのは、私と彼女達とでは住んでいる世界が

違うからなのかもしれない。

 敷地の広さは、パッと見た感じ、私の家の四倍くら

い。広すぎて、落ち着かない。

 玄関前までソワソワしながら進み、インターフォン

を押す。我が家のものと同じもののようだが、何だか、

少しボタンが重くて、造りがしっかりしているような

気がする。

 数歩、後ずさり、真琴が出てくるのを待ち構える。

 不意に香った私の一番好きな甘い髪の匂いに、前に

進んでいる実感を感じた。

 輝きを放つ巨大な家の中から、急ぎ足で歩く足音や

何かがぶつかる音が忙しなく聞こえてくる。登校時、

真琴の家に寄るようになってから数日が経つが、毎朝

これだ。

 制服のスカートからスマートフォンを取り出し時刻

を確認すると、時計の針は八時十五分を指していた。

それほど朝早い時間でもない。

 インターフォンを押してから三分程が経過した頃、

爽やかな柑橘系の香りと共に、ひっそりと中から真琴

が出てきた。

「心寧、おはよう」 

 真琴の低い声を聞くと、一瞬だけ、心臓が苦しくな

った。彼女の口から発される言葉一つ一つが、私の心

に響く感覚がある。

 真琴は長い横髪を触りながら、上目遣いで私の方を

見ていた。私達の間にある十センチメートルの身長差

と猫背気味な美琴の姿勢により、基本、彼女に見上げ

られることになるのだが、真琴のこの顔は、何度見て

も飽きない。

「おはよう!今日も超可愛いね!」

 言っていると、無意識のうちに私の口角があがり、

笑顔になっていることに気がついた。普段から無理し

て笑顔を作っているわけでは無いが、これほど自然に

笑顔になれるのは、真琴の前にいる時だけだった。

 彼女の歩く速さに合わせ、私達は高校へ歩き出す。

「美人は三日で飽きる、って言うけど、心寧は毎日わ

たしを可愛いって言うよね。見慣れてこない?」

「確かに、真琴は美人だし可愛いけど、それだけじゃ

ないから。いや、私が思うにその可愛さもオマケだよ。

真琴の一番可愛いところはね、ここだって思うんだ」

 彼女の胸の奥の心臓を指差すと、美琴は芝居がかっ

た仕草で胸を隠した。

「何、おっぱい?」

 かっと顔が熱を帯びるのを振り払うように、私は声

を上げた。

「違うよ!」

「冗談だってば」

 真琴は満足気な表情で言った。

 私達は、二人、ぴったり並んで歩いている。すぐ隣

には真琴がいて、話し掛ければ反応してくれるし、私

のことを考えてもくれる。

 未だに、夢でも見ているような不思議な感覚は抜け

なかった。

 私では萎縮してしまう、高級住宅街の小綺麗で上品

な雰囲気は、真琴によく似合っていた。風になびく艶

やかな髪や香り、一つ一つの仕草や話し方、顔つきに

品の良さを感じさせるのは、真琴がお嬢様育ちだから

なのかもしれない。

「で、おっぱいじゃないなら、何?」

 真琴は上目遣いで私を見上げ聞いてきた。

「ハートだよ、ハート。真琴の心のこと」

 彼女の口角がほんの少しだけ、上がる。

「わたしの心が、綺麗だ、って言いたいの?」

「綺麗、じゃなくて、可愛い、だよ。魅力的ってこと。

光と闇は表裏一体、闇がないところには、光もないと

思うんだ。だから、真琴の心の闇も光も、私は全部ま

とめて好き」

「本当に、わたしのことが好きなんだね。暗くて汚い

部分をそういう風に思えるのは、本物だよね」

 真琴は横髪をくるくると指に巻き付け、遊びながら

豪華な家々の街並みを眺める。

「普通の人は、その光の部分だけを欲しがるものなん

だけど」

「そうなの?普通の人って、誰かのことを好きになっ

たり、知りたいって思うこと無いのかな?」

「さあ。私達には、知りようも無いからね。普通の人

なんかじゃ無いし」

 真琴は淡々と言う。

 彼女が普通ではないのは、よく分かるが、彼女から

してみれば、私も普通では無いのだろうか?

 この間も、お父さんに普通じゃない、と言われたの

だし、そうなのかもしれないが、私にはまだ、普通、

という概念が理解できなかった。

 高級住宅街を抜けると、ピンク色の桜並木に迎えら

れた。桜並木は入学したての頃と比べると少しピンク

色の量も減ってきてしまった感じはあるが、それでも

私達の出会いを祝ってくれているように思える程、綺

麗だった。

 桜並木の先にある高校までは、それほど距離もない。

「この道だよね。わたし達が出会ったの」

 真琴の声に、あの日のきらめきが蘇ってきた。ほん

の一週間前のことなのに、遠い昔のことのように思え

る。

 顔を近づけ、真琴の目を見つめる。夜を閉じ込めた

ようで、独特で強烈な引力を秘める彼女の目からは、

あの日と変わらず、数多の感情が心に流れ込んでくる

ようだった。

「何で、そんな見てくるの」

 白い肌を赤らめ、真琴は目を逸らす。

「真琴の目、綺麗だな、って思って」

「心寧の目も綺麗だけどね。人間じゃないみたいに、

透き通ってる」

「真琴に言われると、すごく嬉しい」

「そう」

 真琴はまた、目を逸らした。

 ピンクの花弁が舞い落ちるのは、私を飾る為だと言

うのは傲慢が過ぎると思うが、真琴の為だと言うのな

ら、素直に受け入れてしまいそうになる。

 それは、私の主観によるものかどうかは分からない

が、そう思えるような彼女の隣に歩けていることは、

稀有な幸運か、春の魔法によるものか、どちらにして

も、私にとって幸福そのものだった。

「綺麗だよね。私達の出会ったこの場所。まあ、綺麗

なのは、桜が咲いてる今だけかもしれないけど」

「でも、わたし達が出会った瞬間は、間違いなく綺麗

だったよ」

 歩道のコンクリートの上は、散った桜の花弁で埋め

尽くされていた。

 私達は、花弁を踏み潰し、その上を歩いていく。

 この春を越えれば、夏がやってくる。それから秋と

冬を過ごし、また、桜が咲く。そして、すぐに散って

春が終わる。

 繰り返される出会いと別れの季節の中で、私達が別

れない保証なんてない。

 一度でも私が真琴から手を離せば、再び隣に戻って

きてくれるか定かではないし、現状、私から真琴への

一方的な、友情?愛情?真琴の全部を知りたいと訴え

かけてくる、この正体すら判別できない感情で、私達

の相棒、なんて関係は成り立っている。

 それが、少し寂しく、不安だった。

「ねえ、真琴」

「何?」

 私が聞いたのは、一歩先の未来がピンク色を失った

ように見えて、怖くなったからだ。

「将来の夢とか、ある?」 

 真琴は毅然と答えた。

「イラストレーター」

「イラスト、レーター?」

「絵、描く仕事。例えば、ほら、本の表紙のイラスト

とか、心寧にしてみれば身近なんじゃない?わたしは

将来、そういうの描いて生きるんだ」

 真琴は両手を握り締め、力の籠った目線を私へ向け

ていた。彼女の両目の中に輝いている意思の光には、

自分の未来への期待が込められているのかもしれない。

 不意に、聞かれた。

「心寧は?」

「え?」

「将来の夢、ある?」

 私は、黙ってしまった。

 美琴に出会うまで、私は未来について考える事がほ

とんど無かった。考えてもどうしようもないことは考

えないのが私のスタンスだが、これまで、大人になっ

た後のことも、遥か遠くの未来のことに思えて、考え

てもどうしようもないこと、に含んでいたのだ。

 私もそろそろ、将来の事を考えなければけない時期

に入ってしまったのか。

 しかし、いくら考えても、将来の夢なんてものが思

い浮かんでくることはなかった。

「私、無いな。将来の夢。というか、考えたことも無

かった」

「心寧らしいね。普通、考えた事くらいあるよ」

「そうなんだ」

「でも、心寧になら、どんな夢でも叶えられれると思

う」

 真琴は不思議な程、自身有り気に言った。

「心寧は、諦めの悪い女だから」

「真琴だから、諦められなかっただけだよ。案外、私

は弱いよ」

「一度何かに惚れたら、呪いに掛けられたみたいに諦

められない。心寧のそういうところを、わたしは評価

してるんだよ」

 真琴は小さく笑った。

「わたしには及ばないかもしれないけど、それでも、

心寧にとって魅力的な仕事はあるはず。このご時世で

もね」

 幻谷高校の校門が目の前に迫っていた。

 真琴は小走りで私の前に立ち、口角を上げた。

 悪戯みたいに一瞬だけ強い風が吹いた。校門の側に

咲いていた桜が舞い落ちる。

 私達に桜の雨が降るが、傘を差す気にはならない。

 真琴はピンク色の小さな唇を歪ませた。

「もし、この先も心寧に夢が出来なかったらさ、わた

しのアシスタントにしてあげてもいいよ」

 一瞬、私の心が救われたみたいに暖かくなった刹那、

真琴が見ているのは、未来の光の一面だと気付いた。

同時に、私が無意識に見ていたのは、未来の闇の一面

であることを知らされた。

 まだ癒えていない心の傷が疼いたのか、それとも私

が弱いからか、自分が前を向いていないことにすら、

気が付いていなかった。

 もし、未来が悪い方へ進んでしまったらどうしよう、

なんて考えても仕方のないことだったのだ。

 この先、私に夢が出来なかったら、アシスタントに

してあげてもいい。

 それは、真琴は私が大人になってからも一緒にいる

ことを認めてくれている、ということと同じだ。

 一方的じゃない。

 真琴も、私へ手を伸ばしてくれている。

 闇の中から引っ張り上げられたみたいに、それだけ

で私は前を向けた。

「私、今、一つ目の夢が出来たよ」

「何?」

「真琴がイラストレーターになって、夢を叶えた時に、

一番におめでとうって言うこと!」

 花弁に隠れて嬉しそうな笑い声が聞こえる。

「じゃあ、わたし、心寧に一番に伝えるね」

 それにしても、と真琴は続ける。

「心寧に夢が出来るのは、まだ先の話になるかもね。

まあ、私が可愛いのが悪いのだろうけど」


 タクシーから警察の制服を着た二人組が出てくるの

を、周囲の人々は特に気にする様子もない。毎日、日

本中で数多くの事件が起こっていることを知っていな

がら、殆どの人間が無意識にそれを自分には関係の無

い話だと切り捨ててしまうのは、私達警察だけの責任

ではないように思う。

 そんなんだから、小さい街とはいえ、花咲町の全て

の危険を伴う事件をたった二人で対処している、とい

うとんでもない事実にすら気付かないのだ。

「タクシー代出ないって、何?」

 一枚も札の無くなった財布の中身に哀愁のようなも

のを感じ、隣の葵に文句を言った。

「仕方ありません。そういう契約ですから」

「というか、普通、上が車出してくれるもんでしょ。

なんで私達はタクシー拾って移動しなきゃいけないの」

「その分、給料良いじゃないですか。傲慢ですよ、蛍

さんくらいの待遇で文句言うのは」

 言い合いながら、事件の発生したらしいテナントビ

ルに入る。

 一階はカフェになっているらしく、洒落た内装にコ

ーヒーの香りが出迎えてくれた。しかし、雰囲気に対

し店内には怯えた顔をした警察官が一人突っ立ってい

るだけ。ピンと糸を張ったような空気で満たされた異

様な光景だが、似たような光景をかれこれもう五年以

上見続けているせいか、これから仕事なのだと悟らさ

れ、多少の倦怠感が心の中で生じるくらいものだった。

「やあ、お疲れお巡りさん。ボーッとして、素晴らし

い働きぶりだね」

 憂さ晴らしに嫌味を言うと、葵に頭を叩かれた。

 青白い顔をした警察官は、震える声で言う。

「ビルの最上階、四階に、人質を盾にして、四人の実

行犯が立て籠っています。年齢は全員、二十代前半、

凶器は、拳銃が四丁、確認されています」

「人質について詳しく」

「四十代の男性、とのことです」

 葵は溜息をつき、二階へ続く階段へ目を向ける。

「避難は?」

「人質以外は、全員、完了しています」

「まあ、行けば分かりますよね、いつも通り。行きま

すよ、蛍さん」

 階段へ歩き出す葵を追いかけ、彼の真横を位置取る。

 今日も事件の概要が見えて来ず、興味が半分、暇潰

し半分に口を開いた。

「ねえ、相棒、何があったと思う?」

「さあ、サッパリ分かりません。ですが、まあ、俺等

には関係の無い話でしょう。俺等の仕事は、力づくで

事件を解決することです。それも、人間の生死すら問

わず、ですから」

「私が知りたいって言ってんでしょ」

「行けば分かりますから。静かにしててください」

「役立たず」

 言うと、葵は控えめに笑った。

 二階、三階に上がると、そこには一人ずつ体を震わ

せた警察官が立っていた。二階には文房具店、三階に

はアンティークショップが入っていたが、例の警察官

達が立っていることを除けば、特に異常はない。普段

使いしている黒いボールペンのインクが切れかけてい

ることを思い出したり、アンティークショップに並ぶ

家具の中に好みのデザインの椅子を見つけたくらいだ。

「うーん、店の中に目的があった訳ではないっぽいね」

「探偵ごっこには付き合いません。俺等は探偵どころ

か、どちらかといえば殺し屋に近いと思います。誰か

を守る為ではなく、町を動かすために、俺等は事件を

紐解くでもなく、力づくで潰し回っているのですから」

 葵は四階への階段の上を見つめ、淡々と話した。

「私は誰も殺したことないけど」

「間接的な殺し屋、というだけじゃないですか」

「直接的と間接的、その差は大きいよ。例えば、女の

子が両想いの恋人との初めてのキスを済ませるまでに、

どれだけの間接的な工程を踏む必要があるか分かる?

そしてね、キスをする以前と後とでは、女の子から見

える世界は変わって見えると思うんだ」

「はあ、どういう意味です?」

「要するに、人を殺したかどうかっていうのは、人間

としての在り方に大きく関わってくる、っていう、話。

一線を越える、っていうのは、そういうことだと思う」

 階段の先から、精一杯の勇気を振り絞り、立て籠も

り犯達を威嚇しているような声が聞こえてくる。声の

主は、充分に訓練も受けていない警察官達だ。

 葵は腰に携帯していた拳銃を左手に構え、聞いてき

た。

「じゃあ、蛍さんの目に俺の姿は、一体どう映ってい

るんですか」

 彼に合わせ、私も右手に拳銃を構える。

「私の奴隷の、優しい人殺し」

「奴隷ではなく、せめて、相棒とでも呼んで欲しいで

すね」

 彼は無表情で言い、四階への階段に足を掛けた

 四階に上がってすぐの場所に屯していた警察官達の

間を掻き分ける。

 店は入っていないらしく、何も無い空間の中に、五

人の人間が一つの塊のように集まっていた。塊の中心

に、黒いくたびれたスーツを着た四十代くらいの年齢

の男が蹲り、その周りを、同じくたびれたくスーツを

着た四人の若い男が取り囲んでいる。彼等全員が一丁

ずつ拳銃を持ち、全員が揃って人質の頭に向けている。

人質の下の床に血溜まりが出来ているのは、足を撃た

れたことによる出血が原因のようだった。

 異様だったのは、拳銃を人質へ向ける彼等の様子だ

った。

「楽しそうだね」

「ええ」

 彼等は、笑っていた。

 しかし、恐怖のあまり混乱している、というように

も見えない。人質の頭に拳銃の銃口を軽く当て、怯え

る人質の男の様子に、愉快そうに口を歪めていた。

「ですが、関係ありません。早く済ませましょう」

 葵は拳銃を若い男へ向け、深く息を吸った。

「警告します!今すぐ銃を下ろし、抵抗を辞めて下さ

い!」

 若い男達は不敵に笑い出す。

「銃を下ろして下さい!あと一度の警告で、強行手段

に出ることになります!」

 葵の警告に、彼等が恐れている様子は一切無い。

 火に油を注ぐように、笑い声が大きくなるだけだ。

 不意に、塊の中から、せーの、と楽しげな合図の声

が聞こえた。銃口は、人質の頭に向けたまま。

「え?」

 刹那、四つの銃弾が放たれた。

 強烈な破裂音が弾けた直後、人質の頭を四発の銃弾

が吹き飛ばした。首から下だけになった人質の男は力

なく倒れ、動かない。

 突如、大きな笑い声が四階中に響き渡った。

 ざまあみろ、と口にし、若い男達は肩を振るわせ、

笑っている。

「人質を、殺した?」

「構えて下さい。もう、彼等が縋れるものは何もない。

決死の覚悟で抵抗する可能性もあります」

「まあ、可能性はあるだろうけど」

 言いながら、彼等のちぐはぐな構え方の拳銃を狙い、

銃を構える。

「警察官って、給料良いんですか?」

 突然、笑い声が止み、男が聞いてきた。

 彼等は立ちすくみ、呆然とこちらを見ている。

 平坦な口調で、葵は答える。

「悪くはありません」

「そうですか。羨ましい」

 葵の返答に、彼が満足そうな顔をした直後だった。

 彼等は、一斉に自分の頭に銃口を向けた。

「止めて!」

 反射的に声が出る。拳銃の引き金を引き、銃弾を放

つ。それからすぐ、隣から葵の銃声が聞こえた。

 私の放った銃弾が一人の男の拳銃を弾き飛ばし、葵

の銃弾は一人の男の拳銃を、手首ごと体から千切り飛

ばした。直後、私達の狙った二人以外の二つの頭は、

それぞれが自ら引き金を引いたことにより、真っ赤に

吹き飛んだ。


 四時間目のチャイムが鳴り、起立、礼を済ませ、す

ぐに机に掛けてある弁箱袋を手にする。

 教室の隅っこまで歩き、彼女に声を掛けた。

「真琴!お弁当一緒に食べよ!」

 教科書を机の中に仕舞っていた真琴は私の声に小さ

く驚き、顔を上げる。

「いいよ」

 嬉しそうな、迷惑そうな表情をし、数秒の間の後、

彼女は頷いた。

 真琴とお弁当を一緒に食べるのは、今日が初めてだ

った。話題に困るなどして、気まずい空気になるのは

避けることが望ましいと考え、あの日から少しずつ距

離を詰め、遂に満を持してのお誘いなのである。

 隣の空席の机を拝借し、真琴の机にピッタリくっつ

け、彼女のすぐ横に座る。漂ってきた柑橘系の髪の香

りに、無意識に鼻から息を深く吸っていた。

 そういえば、この机の主の名前も顔も性別も思い出

せないが、まあ、そんなことはどうでもいい。

 隣に、真琴がいること。

 私にとって大切なことは、それだ。

「ねえ、心寧」

 私のより一回り小さな弁当箱を両手に持ち、真琴は

聞いてきた。

「心寧は、お弁当、自分で作ったりしてる?」

「作ろう、と思ったこともないよ!」

「普通、思うくらいあるものだけど」

 真琴は話しながら、白く細く、それでいて意外と骨

の浮き出た角張った指で、長い横髪を耳に掛けた。手

にしている弁当箱を静かに机の上に置き、私の目を見

る。

 そして、そのまま硬直した。

「えっと、どうしたの?」

 聞くと、彼女は目を逸らし、言った。

「実はわたし、自分でお弁当、作ってるの」

「ええ!すごい!」

 反射的に声が出た。高級住宅街に住み、お嬢様育ち

で、家事などとは無縁の生活をしているものだと勝手

に想像していたのだが、実のところは私よりも家庭的

な女の子らしいのである。

 朝、お母さんが無駄に朝早く起きる私に叩き起こさ

れ、眠い目を擦りながらお弁当を詰めているのだが、

それと同じことを、真琴がしている。眠い目を擦りな

がら、なんと真琴がお弁当を詰めているのである。

「意外と家庭的で、超可愛いね!」

「家庭的じゃない女だ、って、思われてたの?」

 真琴は小さく口角を上げたまま、首を傾げた。

「料理好きなの?」

 聞くと、彼女の目の中の暗闇が少し濃くなった。心

に冷たい電撃が走るが、予想に反して、穏やかなよう

な、諦めたような、声が発された。

「好きではない、けど、誰も作ってくれないから、わ

たしが作ってる」

「誰も?お母さんとか、お父さんとかは?」

「いるよ。いるけど、作ってくれない。お金は、渡し

てくれるんだけど。だから、あんまり、親のことは好

きじゃない」

 思わず、言葉を失った。彼女にかける言葉として適

切なものを、私は持ち合わせていなかった。彼女につ

いて新たに知ることが出来た喜びは、胸の奥でキラキ

ラと溶けて消えた。

「わたし、本当に一人だったんだよ。家族もそんなだ

し、普通の子達のことは、苦手だから。初めてだった

んだ、誰かと、学校行くのも、お昼一緒に食べること

も」

 それでね、と口にし、真琴は続ける。

「お弁当、ずっと一人で食べてたし、わたしが作った

お弁当、人に見せるの初めてだから、ちょっと怖かっ

たんだ」

「それは大丈夫!真琴が作ったものなら、私何でも食

べるから!」

「何でもう食べる気でいるのか分からないけど、それ

なら、いいよ」

 真琴は小さく笑って見せた。

 笑わないでね、と一言呟き、彼女は弁当箱を開けた。

 中には、お米に、卵焼き、タコさんウインナー、ミ

ニトマトに、きんぴらごぼう、唐揚げ、定番のお弁当

のおかずが詰められいてる。

「おお、意外と、庶民的」

「だから、わたしは何だと思われてるの?」

 栄養バランスとか、そういうものも私にはよく分か

らないが、馴染みのあるおかず達の並ぶ美琴のお弁当

は、彼女が作ったという付加価値も相まり、私の食欲

を刺激するのには十分だった。

「美味しそうだね!」

 言うと、彼女は照れ臭そうに笑った。

 私もお母さんの作ってくれたお弁当を広げ、両手を

合わせる。美琴も私に倣い、小さな手を合わせた。

「いただきます!」 

 彼女は私を横目で見ながら、いただきます、と小さ

な声で言った。私はすぐに彼女の方に向き直り、口を

開く。

「真琴、おかず交換しようよ」

「え」

「私、真琴の作ったお弁当、食べてみたい」

「いや、でも、美味しくないよ」

 彼女の目がこれでもかと泳ぐ。彼女は自信家で、彼

女に関する事柄において、ここまで動揺することは非

常に珍しい。いや、それどころか、初めて見た。

 俄然、興味が湧いた。

 胸の中で煌き出したときめきが、真琴のことをもっ

と知りたいと訴えかけてくる。

 どうすれば、嫌がる彼女からお弁当のおかずをいた

だくことができるのか。私の持てる知見を集結させ、

電撃の如く脳内に思考を巡らせる。

 が、特にこれといったアイデアを閃くことも無かっ

た。

 不慣れなやつほど気を衒う、なんて言葉を小説で読

んだことがあるが、今の私は正にそれだ。

 気にしても仕方のないことは気にしない。考えても

どうしようもないことは考えない。正面から向かい合

うことしかしてこなかった私の小細工なんて、どうせ

通じないのだ。抜け道を探すことを考えても仕方ない。

 正面から、向かい合うのだ。

「真琴、お願い」

 目を合わせ、ただ、お願いする。

 これが、十六年もの間生きた上での私の最善手だと

思うと、愚直で不器用すぎて、自分が少し、面白かっ

た。

 真琴が目を逸らせないくらい、真っ直ぐに見つめる。

「いや、でも」

 彼女がたじろぎ、後ろに引こうとした分だけ、距離

を詰めた。逃がさない。

「お願い。私、どうしても、真琴のが食べたい」

 美琴は目も逸らせず、ただ、力なく目を見開き、顔

を真っ赤にした。彼女の目の中の光が少し強くなった

と同時に、彼女は口をもごもごと動かし、強引に顔を

背けた。

「そんなに、食べたいなら、いいよ、もう」

「やった!」

 真琴はお弁当から卵焼きを箸で掴み、私のお弁当の

敷き詰められた白米の上に置いた。同じ様に、私から

もお母さんの卵焼きをあげる。

 彼女は美味しくない、と言っていたが、見た目は、

お母さんの作った卵焼きと大差無い。普通に、美味し

そう、というのが率直な感想だった。

「いただきます」

 真琴の卵焼きを箸で掴むと、彼女の表情に緊張が走

った。今度は逆に、真琴が私を見つめ、逃がさない。

 憧れの人に見つめられていることによる食べにくさ

と照れ臭さに、目を瞑り、卵焼きを半分食べる。

 正直、味がよく分からなかった。

 私の味覚が鈍い、ということもあるのかもしれない

が、何より、私の心がこの状況についてきていなかっ

たらしい。卵焼きの甘さも、真琴の手料理を食べてい

るという甘い現実に混ざって分からない。

「うん、美味しいよ?」

 味の一切感じられないまま、気付けば口の中から無

くなっていた卵焼きの感想を何とか口にすると、真琴

は小さく笑い、聞いてきた。

「本当?」

「うん!」

「そう、そうなんだ」

 真琴は声の調子を変えず淡々と話すが、一瞬、目の

色が曇る。

「心寧って、何でも美味しく感じるのかな?それとも、

すごく味覚が鈍いのかな?もしかして、わたしが作っ

たら何でも美味しく感じちゃうのかな?その卵焼き、

今朝急いでて砂糖と塩間違って作ったやつなんだけど」

「え」

「私が口移しで与えればさ、心寧はそれが毒だと知っ

ていても飲んじゃうんじゃない?」

 真琴の口角が悪戯っぽく上がる。

「全然、気づかなかった」

 整理の全くつかないごちゃごちゃな脳内で、何とか

言葉を繋ぎ文章を発した。

 そんな私を見て、真琴は口元を隠し、囁くように言

う。

「わたしは確かに可愛いし、心寧にとって特別かもし

れないけど、それ以前に、一人の人間なんだよ。わた

しだから、何でも美味しい、とかってなるのも仕方な

いかもしれないけど、心寧がわたしを知りたいみたい

に、わたしも心寧のこと、知りたいから」

 私のことを、知りたい。

 その言葉が真琴の口から発された時、混乱していた

頭を硬いもので思いっきり殴りつけられたような衝撃

が走った。

 一方的なのは嫌だったけど、こんなに返されたら、

幸せでおかしくなる。

 幸福の鈍器で殴られた衝撃で緊張は吹っ飛ばされた。

 真っ白になった頭でぼんやりと眺めた真琴の小さな

顔はやっぱり可愛くて、その長く綺麗な髪が揺れる度

に香る柑橘系の爽やかな髪の香りに、今よりもっと、

私は彼女へ堕とされていくのが恥ずかしいくらいに感

じられた。

「私のこと知りたい、って、本当?あ、いや、違うね、

知りたいって、言ってくれたのに、こんな言葉使うの

は」

「どうしたの?」

「もう一回だけ、言って欲しいな。私のこと、知りた

い、って。我儘かな?」

 真琴は控えめに笑い、目の中の光が私を見つめる。

「わたし、心寧のこと知りたい。沢山、教えて欲しい。

だから、例えば、美味しいものは美味しい、美味しく

無いものは、美味しく無い、って、ちゃんと言ってほ

しい」

「うん、うん!」

 もう半分、残っていた真琴の卵焼きを口の中へ運ぶ。

 言われてみれば確かに、甘さが微塵もなく、感じら

れるのは、不自然な塩気だけだった。

「うん、まあ、美味しくはないね!」

「わたしもそう思う」

「でも、この味。私、超好きだよ」

 言うと、真琴は目を見開き、火照らせた顔を背けた。


 警察官の数は、慢性的に減少を続けていた。

 私達が警察官となった頃は、日本の治安を守る健全

な役職とし確固たる立ち位置を確立していたのだが、

今や、当時の威厳は見る影もない。

 長きに渡って続いている経済の不況に伴い、全国で

事件や事故が頻発。殉職した警察官の報道や、苦渋の

末に下した判断に対する好き勝手な批判が警察官全体

のイメージを低下させ、国を挙げた必至の抵抗虚しく、

私達のような種類の警察官が生まれることとなった。

 優秀な警察官が全ての事件を対処し、他の警察官は

彼等のサポートに回る。人命は問わず、早急に事件を

解決させることを第一とする。

 極めて深刻な人手不足、全体的な警察官の質の低下

により、人命を捨てなければ、全ての事件に対処出来

ないという事態に陥ったのである。

「蛍さん、どこか具合でも悪いのですか?」

「何で」

「いえ、いつものように飲み屋にもいかず、酒も飲ま

ず、やけに、おとなしいものですから」

「良い子にしてちゃ、悪いの?」

「いえ、そんなことは」

 葵は言いながら、キッチンから二つ、湯気の立つコ

ーヒーカップを両手に持ち私の向かいに座った。片手

のカップを私の目の前に置き、もう片方は彼の側に置

く。

 漂うコーヒーの香りが、私のポッカリと穴の空いた

心を溶かすように、優しく撫でる。

 時刻は丁度、日付が変わった直後だった。

 勤務が終わったのは二十三時時、葵の家に帰ってき

たのが二十三時半。遅い夜ご飯を食べて現在に至る。

 ぼんやりと光っているテレビのニュース番組は、今

朝起きたらしい人身事故について報道していた。

 何やら、花咲町で出勤途中だった三十代の会社員の

男性がトラックに轢かれ、亡くなったらしい。

 死亡した場所は、ここからそう遠くない。もしかし

たら、亡くなった彼とすれ違ったことくらいなら、あ

るかもしれない。

「昼間の事件は、インパクトがありましたね」

 葵はコーヒーを啜り、言った。

「蛍さんの言った通り、あのビルに用があったわけは

なかったようです。手の込んだ集団自殺。人質の男性

は、彼等の上司らしいのですがね。恨みを買い、道連

れにされたそうです。ビルで事件が起きたのは、たま

たま機会が巡ってきた時、近くにあった立て篭もるの

に丁度いい場所がそこだったから、らしいですね」

「そう」

 私もカップを傾けコーヒーを啜る。酒とは反対に、

脳が冴えていく感覚が不快だった。

 視界が明瞭になればなるほど、自分の姿がぼんやり

浮かんで、怖くなった。

 私は一体、何の為に、生きているのか?

「葵、突然だけどさ、私の話、聞いてくれる?」

「以前話すと言ってくれた、あの話ですか」

「そう、それ」

「それなら、喜んで」

 葵は真剣な表情で私を見た。それが嬉しいような、

怖いような、心の渦が回る。

 心に空いた穴から溢れてきた粘着質な黒い液体に押

し出されるように、言葉は発された。

「私、本当はお酒、嫌いなんだよ」

 葵は頷き、優しそうな目をした。その目を見て、私

が本当に嫌いだったもの正体を自覚させられた。

「違う、お酒が嫌い、じゃなくて、お酒に逃げる、弱

い私が嫌い」

 酩酊を繰り返し、現実から逃げ続けてきた自分への

嫌悪感を言葉にする。暗くて汚いそれを、葵が受け止

めてくれる。それがどれだけ幸福なことで、心を癒し

てくれるものなのか、私はこの時、初めて知った。

「これは、笑わないで、聞いてほしいんだけどさ。私

が警察官になったのは、誰かを、幸せに、したかった

から、なんだ」

「素敵だと思いますよ」

「でも、今はそれが私の首を絞めてる。息が出来ない、

私が、私をちゃんと生きられてない。苦しいんだよ。

違うじゃん、私達のしてること。誰も幸せにしてない」

 吐く度に、体の中身が無くなって、空白になる。

 葵は穏やかな声色で聞いてきた。

「犯罪者を捕まえることは、誰かを幸せにすること、

ではないのですか。俺たちの仕事は、誰かを幸せにす

る基盤をつくっている、とも、言えるかもしれません。

それこそ、間接的に、誰かを幸せにしている」

「悪人だけが、罪を犯すわけじゃない。普通とか、常

識なんて、この世界を動かす為の仕組みの一部でしか

ないんだ、って、私達が一番、よく知ってるでしょ。

人殺し集団の、私達がさ」

 コーヒーの香りが鼻を掠め、遠くに私の影が見えた。

 輪郭のハッキリしない、真っ白な影だ。

「誰かが捕まったり、不幸な目に遭ったことに幸福感

を抱けるようなクズは、人間じゃないよ。でもさ、そ

んな奴ばっかでしょ?私達に、頭下げるの。世界の癌

としか、言いようがない。汚物の欲望を叶えた先に、

誰かの幸せの基盤があるとか、そんな馬鹿な話は無い

よ」

「そうかも、しれませんが」

 葵は視線を落とし、小さく声を吐く。

「やりたいことと、真逆のことをして生きるのってさ、

苦しいよ。でも、そうしなきゃ、私は生きられない。

力を振るうことを辞めたら、私には、何も残らない。

こんなになっちゃったのは、私が弱かったから。警察

官の在り方の変化が、悪かった訳じゃない。現実から

目を背けた、私が悪いんだよ」

 見ると、葵は心配そうな表情でこちらを見つめてい

た。彼の瞳に、私の姿はどう映っているのだろうか。

 葵は目を細め、私の方へ手を伸ばした。頭に触れら

れる感触の後、優しく撫でられた。

「蛍さん」

 彼の私の名前の呼び方で、分かった。彼はまた、私

の思考を止めて、一時だけ何もかも手放させて、たっ

た数秒間の幸福を与えるつもりだ。心がさざめく。

 私は、初めて彼のキスを阻んだ。

 大きく目を見開き、驚いたような彼の顔は、初めて

だった。

「せっかく、お酒、辞めようって言ってる時に、そん

なことされたらさ、次は男に溺れちゃいそうだから。

葵は、相棒、でしょ?恋人、じゃなくてさ」

「そんな意図は、俺はただ、蛍さんがどんな生き方を

したとしても、居場所はあるって、伝えたかっただけ

で」

「分かってるよ。何年、一緒にいると思ってるのさ。

葵がそんなだから、私は、溺れそうになる」

 人差し指で自分の唇を撫でると、少しくすぐったい

感じがして、煩かった心が落ち着き出した。

 遠くにあった私の影は、今や眼前にあった。

 打って変わって輪郭のハッキリとした、私を投影す

る為にあるみたいな何色にも染まれていない真っ白な

影。

 向き合った瞬間に、白い影は私の前から消失した。

 私は、私になれたのだ。

「探そうと思うんだ。私が、私らしく生きられる未来

を。今はまだ、無差別に力を振るうことでしか生きら

れないけど、もう現実からは、目を逸らさない。沢山

の人を傷つけて、クズの手足になって、そんな明日を、

いつか、変えるんだ。その時まではさ、付き合ってよ、

相棒」

 言うと、葵は静かに頷いた。

「居場所はある。それだけは、忘れないでください」

「もし、私が私として生きることを諦められたら、そ

の時は、葵のお嫁さんになってあげる。式はハワイね」

「幸いというべきか、金は、ありますからね」

 彼は小さく笑った。


 今日も六時間分の授業を寝て過ごし、真琴を家まで

送った帰り道だった。ニ週間ほど前に出会った時と同

じ、商店街のベンチに以前とは様子の違う彼女はいた。

 私の隣に座る真っ白な肌の彼女は、真琴とはまた違

う美しさを纏っていた。輪郭のハッキリした顔立ち、

気弱そうな目には不釣り合いな、きつく鋭い目尻、す

ごく高い鼻に、大きな口に少し厚い唇。後ろ髪が肩に

触れるくらいの長さのウルフヘアも相まって、攻撃的

でワイルドな魅力が前面に現れている。

「蛍さんって、美人だったんですね!」

「何回か会ってると思うんだけど、今気付いたの?」

 脚を組み、頬杖をつく仕草も様になっている。警察

官の役として、そのままドラマに出演したとしても違

和感なく俳優や女優の中に混じれてしまえそうだった。

 こんなにも美人な人が、酒気を帯びるだけであんな

になってしまうのだと思うと、お酒というもののあま

りの恐ろしさに震えずにはいられない。

「でも、普段は昼間からお酒呑んでるってところを加

味すると、絵に描いたような残念な美人ですよね」

「私くらい美人なら、そういうところも魅力的に見え

るものでしょ」

「限度があると思いますけど」

「やめてよ、容姿だけには自信あるんだから」

 蛍さんは小さく笑みを浮かべた。

 僅かに揺れた彼女の髪からは、清涼感のある爽やか

な香りがした。警察官の制服からは男物みたいな、華

やかな匂いが控えめに漂ってくる。

「蛍さん、もしかして、彼氏とかいたりします?」

 聞くと、彼女は明らかに動揺した。こちらを勢いよ

く振り返り、口元を指で隠す。数秒間の間の後、彼女

は僅かに口を開いた。

「秘密」

「いい大人が、何言ってるんですか?」

「二十八はまだ女の子でしょうが」

「ちょっと厳しいですよ、いや、ギリギリ?」

「好き勝手言いよって。心寧もいつか、女の子からお

姉さんになるのに」

「おばさん、では」

「そろそろ手出るよ」

 私の頬を握り拳でグリグリとやり、蛍さんは笑った。

 実際のところ、二十八がお姉さんなのかおばさんな

のか、女子高生の私にはどうも判別が出来なかった。

しかし流石に、女の子と呼ぶには少し厳しいような気

もする。

 蛍さんは脚を組み、通行人の行き交う目の前の光景

を眺めていた。右手に顎を乗せ頬杖をつき、以前まで

は缶ハイボールを持っていた左手は力無くそのまま垂

れている。

 お酒の入っていない蛍さんは、いつもよりも少し、

儚げに見える。そういえば、本当は内気な性格なのだ

と、以前言っていたような気もした。

 用事を思い返し、私は口を開いた。

「蛍さんに伝えたい事があって、探していたんです」

「へえ、伝えたい事ね」

 言うと、彼女は興味有り気に私へ視線を向けた。

「中々見つからなかったでしょ?最近は昼間仕事が入

ったりすること多かったし。偶然なんだけどね」

「毎日、商店街に寄ってベンチを確認してました」

「大変だね。あ、それなら、レイン、交換しようよ」

 彼女はそう言い、ポケットからスマホを取り出す。

 レイン。手軽にメッセージのやり取りが出来る、SN

Sのアプリだ。若者中心に広まり、今では会社内でのや

りとりなどにも使われる程、普及している。

 無論、私も普段から利用している。最近は、真琴と

レインを交換した為に利用時間は莫大に増加していた

りする。

 しかし、蛍さんとレインを交換するか、私は迷った。

 特にデメリットがある訳ではない。嫌になったら彼

女のアカウントを私のアプリ内で消去すればいいだけ

の話なのだが、私は、違う道を歩いている私と彼女が

道半ばで偶然出会い、コミュニケーションをとりあう、

という関わり方が好きだったのだ。レインを交換する、

なんて些細なことかもしれないが、それだけで、別々

の道を歩んでいる実感が薄れてしまいそうに思えた。

「ほら、どうぞ」

 蛍さんはスマホの画面を見せてきた。画面にはコー

ドが表示されている。私のスマホでそのコードを読み

取ることで、レインを交換することが出来る。

「あ、どうしようかな」

 彼女の勢いに気圧され、一瞬、動けなかった。

 私の言動は、彼女には、レインの交換を渋ったよう

に見えてしまったのだろう。

 実際は脳内で考えが纏っていなかっただけなのだが、

そんなことは関係がない。

 蛍さんは小さく驚き、目が震え、薄らと涙の膜が張

った。

「え、あ。ごめんね」

 掻き消えるような声で言い、俯く彼女の姿は、陽気

な彼女しか見たことのない私にとって、衝撃的だった。

回っていた思考は急停止し、衝撃に驚いている心に従

わされ、私は咄嗟に行動を取っていた。

「待って!交換!交換しましょう!」

 言いながら、スマホを持つ彼女の左手に優しく触れ

ていた。数秒間の間の後、蛍さんは安堵の表情を浮か

べた。

「良かった、拒絶されたのかと、思っちゃった」

 これなら、美しさを代償にしたとしても、酔ってい

る状態の蛍さんと話したいかもしれない、と回転を再

開した私の脳内には浮かんでいた。

 レインの交換を済ませた時には、蛍さんはすっかり

元の機嫌に戻っていた。

「毎日、おはようとおやすみのメッセージ、送ってあ

げようか」

「真琴としてるからいいですよ」

 言うと、彼女は小さく笑った

 スマホをスカートのポケットに仕舞い直し、話を戻

す。

「それで、伝えたいことがあるんです」

「ああ、そんなこと言ってたね」

 蛍さんの方に向き直ると、彼女もスマホを仕舞い、

視線を真っ直ぐ私へ向けた。真っ白で綺麗な彼女の視

線を受けて、私の顔が強張っていくのが分かる。

 やっぱり、今からでも酒を飲んで、その美貌を崩壊

させて欲しいと願わずにはいられなかった。緊張して、

やりにくい。

 強張った顔に力を込め、無理矢理に笑顔に塗り替え

る。得意の話し方のコツを思い返し、口を開いた。

「この前は、真琴の話、聞いてくれてありがとうござ

いました。おかげで、真琴と仲良くなれました」

「それは良かったね。まあ、私というよりも、心寧が

頑張ったのが一番大きいと思うけど。で、その後はど

う?仲良くやれてる?」

「毎日、真琴にべったり、くっついてます」

「それは、幸せそうだね」

「幸せです!」

 言うと、彼女は笑みを溢した。

「また話したいことが出来たら、連絡してきてもいい

よ。お姉さんが話、聞いてあげる」

「ありがとうございます。頼りにしてますよ。お姉さ

ん」

「うん、私はお姉さん、だからね」

 蛍さんは満足気に口角を上げ、私の頭を撫でた。

 それから少し世間話をして、私は前を通る通行人の

数が落ち着いてきた頃を見計らって、ベンチから腰を

上げ、帰途に着いた。

 蛍さんの方も仕事が入っただか、何だかで、同じ時

間にどこかへ消えていった。彼女の素性は、未だ謎の

ままだ。

 どこの店で買ったものなのか、食べ物の袋が商店街

の道のあちこちに落ちていた。

 人の振り見て我が振り直せ、という諺がある。改め

て自分を見直しつつ、我が家へ向けて店の間を歩く。

 商店街の出口近くまで達した時、美味しそうな油と

肉の匂いが私の食欲をこれでもかとそそった。

 時刻は四時三十分、絶妙に空いたお腹が、食わせろ、

と煩く訴えかけてくる。匂いの先にあるのは、料理下

手な店主の作るコロッケが人気の、肉屋の肉山だ。あ

っさりと店の入り口に吸い込まれていく私の目の端に、

一枚の張り紙が映った。

 近日、商店街で行うイベント広告の日雇いアルバイ

ト募集の張り紙だった。

 張り紙に書かれている更に詳しいアルバイトの内容

に興味を惹かれつつも、私は肉屋の肉山に入店した。


 既に夜の帳は落ち切っていた。会社のビルから溢れ

る光で、輝いているはずの夜空の星も人々からは見え

ない。

 桜の花弁は殆どが地に落ち、春の終わりを感じさせ

た。

 二人の少女はベッドに横になり、それぞれ夢中でス

マホの画面と睨めっこしていた。彼女達はレインとい

うスマホのアプリを通じ、メッセージのやりとりをし

ていたのである。

 一枚の張り紙の画像と共に、メッセージは送られた。

「一緒にアルバイトやろう!」

「やらない。金には困ってないし」

「お金も大切だけど、経験も糧になるよ。やって損は

ないって。私も一緒にやるから」

「やらない」

「やって」

「やらない」

「引き下がらないよ」

「じゃあ、交換条件呑んで」

「なに」

「今度、二人で服買いにいこう」

「デート!行く!」

 一方の少女は脚をばたつかせながら笑みを溢し、ま

た一方の少女は顔を真っ赤に染めていた。

 本当に、やるんだね。

 その声は五人組の若い男女の会話の中で発された。

 商店街の端にある、小さな居酒屋。

 一ヶ月前までは、男女の警察官や青髪のバントマン

風の男、くたびれた会社員の男、毎晩店に訪れる常連

客の姿もあったのだが、今ではそこには、彼等以外の

客はいなかった。

 常連客達と彼等との人生の交わりが終わったのだ。

 しかしそれは、再び彼等と客達の人生が交わること

はない、という意味では無い。再開を果たしたその時、

この店で過ごした時間は桜の色を取り戻すのである。

 酒倉の問いに、肉山は答えた。

「ああ。このまま店潰して路頭に迷って野垂れ死ぬか、

それとも、どんな手段をとろうと、この商店街の中で

足掻いてやるか、だ。俺は、最後まで抗いたい」

 水の入ったコップをテーブルに置き、彼は言った。

「改めて、聞かせてくれ。お前等は、本当に、俺の計

画に乗ってくれるのか?」

 彼等の間に緊張が走る。

 彼の計画を実行に移すなど、商店街で家業を継ぎ、

犯罪など無縁の人生を送ってきた彼等にとって、夢の

ような、いや、悪夢のような話だった。

 だが、すぐに声は上がった。

「勿論。僕等の店を、僕等の商店街を、守らなくては

いけません。何としても」

 丸眼鏡をかけた長身の男は、鋭い目を肉山に向け、

言った。

 本間、と肉山の口から漏れる。

「私も乗るよ。頼りない男共に、この商店街は任せら

れない」

 光の宿った二つの大きな目が、彼等に勇気を与える。

 八木さん、肉山は呟いた。

「商店街以外の場所で、私達は生きられない。この歳

で何の経験も資格も無く、十分な労働条件で働けるよ

うな場所は、もう何処を探してもこの国には無い。や

るしかない。だから、私も乗ります」

 作り物のような白い肌をした彼女は、力の篭った声

で宣言する。

 しかし、八木がそれを制した。

「でも、涼子ちゃんはまだ二十一でしょ?涼子ちゃん

の歳なら、探せばいくらか仕事は」

「それでは駄目でしょう」

 電木涼子は八木美月の言葉を遮った。

「美月さん。あなたは、今年で三十二歳になります。

この時代、その歳で就ける仕事は、あっても、不当な

条件のものしか、ありません。私は、小さい頃から一

緒に育ってきたみんなのこと、家族だと思ってます。

大切な人を見捨てて、自分さえ良ければいいなんて、

そんな人間に、私はなりたくない。私も、乗ります」

 頼りにしてる。

 肉山が言うと、電木は小さく笑った。

「肉山がやるっていうなら、私はついていくよ」

 エプロンをつけた女性は明るく言った。

「私達の中で唯一、黒字が続いてるのは肉山の店だけ

だ。ただ経営を続けて、生きていくだけならこんなこ

とする必要はない。そうだろ、肉山?」

「ああ、親父が作ってるコロッケのおかげで、店は繁

盛してる」

「だが、そんな中で肉山はやるって言ってんだ。それ

が誰の為で、何の為で、どれだけ馬鹿らしいことか、

分かるだろ、みんな」

 酒倉。

 肉山の口から溢れる。

「分かった。ありがとう、みんな。ここにいる五人で、

計画は進める。だが、この計画はあくまで最終手段で

あることを、忘れないで欲しい。今度のイベントでの

売り上げを見て、実行するかどうか、判断させてもら

う。そこで成功を収めれば、こんなことをする必要は

無いんだ」

 肉山は目を見開いた。

「姫鈴真琴。彼女に、罪は無いのだがな」

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