藍色の衝撃
人口千四百万人。面積約二千キロ平方メートル。
この国の首都、東京、の端っこ。
街には会社のビルが建ち並び、特に有名な観光名所
も何もなく、街から少し移動すれば田舎、意外とコン
ビニの数も少ない。ただ、無駄に人は多い。
極めて地味、地味すぎて、日本地図に載っていない。
それでいて、さして快適でもない。地価は安いが。
東京に住んでいる人間すら、いや、実際にこの町に
住んでいる人間にすら、名前を忘れられてしまってい
るかもしれない、ある意味で幻の町。
花咲町。
「おはよう!朝だよ。外超明るいよ!」
私、文目心寧は、この町の中で生きてきた!
二階のお父さんとお母さんの部屋、リビングのカー
テンを開けると、今日も明るく爽やかな朝の太陽の光
が部屋の中に入り込んできた。
窓の向こう側に見える町の景色は、子供の頃から変
わらず、パッとしない。普通の家が建っていたり、古
めのマンションが建っていたり、灰色の大きなビルが
あったりするが、特に目を引くものはない。
しかし、そんな花咲町も朝日に照らされてみれば、
それなりに綺麗な街並みに見えたりもする。
「心寧、今日も、朝早いね」
階段から降りてきたお母さんが目を擦りながら言う。
時計の針は五時半を指し示していた。
「おはよう、お母さん!」
「おはよう、心寧」
口角を上げ、目を細め、笑顔を作る。
ハキハキと、一言一言ハッキリ、明るく、話す。
誰から教えられたわけでもないが、子供の頃から、
そうしていればみんな笑顔になった。
だから私は、自分の笑顔と声が好きだった。
「本当に、可愛い子だね」
お母さんはそう言って笑顔になり、私の頭を撫でた。
「だってお母さんの子だもん!顔は超可愛いよ!」
「へえ、中身はどうなのよ」
「お父さんみたいに優しいよ?」
「それ、私が優しくないみたいじゃない」
「お母さんは可愛いけど、いじわるだよ」
お母さんは小さく笑った。
「お母さんはね、優しいから、いじわるなのよ?」
すぐには意味が分からず、首を捻ると、お母さんは
嬉しそうに笑った。
「強い子でありなさい。他人の幸せを願える、優しい
子でありなさい。そしてなにより、幸せに生きなさい
ね」
必死に意味を読み取ろうとするが、理解出来ない。
お母さんはもう一度私の頭を撫でた後、朝食を作り
にキッチンへ行ってしまった。
未来、私がお母さんの言葉を理解出来る日は、来る
のだろうか。
強さとは何だろうか。他人の幸せを願うって、どう
いうことなのだろうか。優しさって何だろうか。幸せ
って何だろうか。
私にはまだ、何も分からなかった。
「お父さーん!朝だよー!」
朝と娘とお母さんに弱いお父さんを起こす。
家族三人で朝ご飯を食べる。
歯を磨き、顔を洗い、ヘアオイルをつけて、髪を結
ぶ。
毎朝のルーティーンをこなしていく。
髪のスタイリングを終え、洗面台の前で横髪を鼻の
目の前まで持ってきて、匂いを嗅ぐ。
すごく甘い、私の一番好きな匂いが香った。
今日も鏡の向こうには、肩くらいまでの長さの黒髪
をハーフアップにした、私にそっくりの可愛い女の子
が立っていた。
「うん、可愛い、可愛い」
傷一つ無い白色の肌、赤色の小さな唇、高い鼻、大
きな二重の目、小さくて丸い形の顔についている一つ
一つのパーツが可愛い。
これだけ可愛ければ、もうすぐ白馬の王子様なんか
が迎えに来そうなものだ、と思った直後、昨日の記憶
が頭をよぎった。
教室の隅に座っていた、あの髪の特別綺麗な長髪の
女の子。気になって、特に用事もないのに近くを通っ
てみた時、物凄く良い匂いのしたあの子。
長い髪で顔はよく見えなかったが、一本一本の髪が
しっかりしていて、柔らかくて、しなやかで、これで
もかという程ツヤッツヤのあの髪質は、私が人生を通
して見てきた髪の中で間違いなく一番綺麗だった。
「あの子、どんな顔してるんだろう。髪だけでも既に
超可愛いのに、顔まで可愛かったりするのかな?それ
にあの髪、一体どんなヘアケアを?」
鏡の向こうの私も、うずうずとした表情で、手をわ
きわきとしながら、声を漏らした。
「あの髪、どうしても触りたいなあ、撫でたいなあ。
顔埋めて、思いっきり匂い嗅ぎたいなあ」
「そんな髪の子がいるんだ?」
突然声を掛けられ驚き、見ると、そこにはまだパジ
ャマ姿のお父さんが立っていた。私に早く起こされす
ぎて時間が余っているのだろう。何をするでもなく、
余裕有り気にその場に立っている。
「そうなんだよ!同じクラスに超可愛い子がいるの!」
「そうかあ。高校でも楽しく過ごせそうで良かったよ」
お父さんは安心したような顔をして、小さく笑った。
「どうして、そんなほっとした顔してるの?」
聞くと、お父さんは私に優しそうな目を向けた。
「ほら、心寧、中学の時の卒業式。ぼろぼろに泣いて
たろ?だから、どうせ離れ離れになって、悲しい思い
するくらいなら友達作らない、とか、考えちゃうんじ
ゃないかなあ、って、思ったりしてて」
「え、あ、確かにそうじゃん!」
反射的に声が出た。確かに、その通りだ。革新的だ。
「あー、いや、だからって」
「でも」
体の中から溢れてくる思い出が、慌てるお父さんの
頼りない声を遮る。
「誰かとの別れに泣けたことって、幸せなことだった
んじゃないのかな?離れたくないのは、その人のこと
が好きだったからで、その人との楽しい記憶があった
からで。その人がいなくなっても、思い出は消えない
し、楽しかった記憶だって消えない!そういう過去が、
今の超可愛い私を創ってるんだよ!」
気づけば、お父さんに向かって大声で話していた。
お父さんは少し驚いたように目を見開いた後、困惑し
たように笑った。
「僕の血を引いているとは思えないくらい、色んなこ
と考えて生きてるみたいだ」
「中学校での毎日は楽しかった!だから、高校ではも
っと楽しく生きよう!それだけだよ!」
「心寧は、すごいな」
お父さんは小さく笑った。
「凄いって、何が?」
「心寧みたいにさ、真っ直ぐでいられることって、普
通じゃないんだ」
「普通の人は、曲がってるの?」
真っ直ぐの意味も分からないまま、私は聞いていた。
「ああ、曲がってる。少なくとも、真っ直ぐではない
よ。普通は、生きてる内に、余計なこと考えて、勝手
に曲がるもんなんだ。心寧が真っ直ぐなのは、そうだ
な」
指を鳴らし、私を指差す。
「心寧が、超可愛いからだ」
「何それ!」
いきなり、頭を撫でられた。髪を崩さない程度に力
を調節してくれているのが分かる。
「心寧は、強い子だよ」
「ええ?どういう意味?」
お父さんは、真剣な顔をして、鏡の向こうにいるも
う一人のお父さんの姿を見ていた。
もしかしたら、お父さんはその、真っ直ぐ、ではな
いのかもしれない。
しかし、曲がっている人、すなわち普通の人という
のは何を考えて生きているのだろうか?
というか、それが本当なら私は普通じゃないってこ
とになるのでは?
そもそも、普通って何だろう?みんな顔も背の高さ
も違うのに。
脳内に溢れてくる疑問を鏡の向こうの私に託そうと
アイコンタクトを送るが、鏡の向こうの私も同じ様に
送り返してきた。
仕方ないから、疑問は一度記憶の片隅に放り投げて
おく。
今日は、あの髪の綺麗な女の子と友達になること。
とりあえず、それを目標に全力投球だ。
着慣れないセーラー服に袖を通し、高校入学を機に
新しく買ってもらったリュックサックを背負った。
姿見を確認すると、超可愛い女子高生が映っている。
「よし」
玄関で外靴を履き、後ろを振り返る。
「行ってきます!」
「「行ってらっしゃい!」」
言うとすぐに、お母さんとお父さんが元気に返して
くれた。
ドアを開けると、春の匂いが飛び込んできた。
爽やかな緑の匂いと、勇気が溢れてくるような太陽
の匂いが、私の背中を先へ先へと押していく。
春は、出会いと別れの季節だと言われる。
先月別れたばかりの元同級生達との記憶と思い出が、
私の踏む地面を弾ませている。
次は、もっと楽しい記憶と思い出が出来る。
流せた涙は、いつか、大切な場面で一歩を踏み出せ
るきっかけになる。
止まってる暇なんてない。
すぐに、馴染みの商店街が見えてきた。高校へ行く
には、この商店街を通過するのが一番近い。
文目商店街。
小さい頃から何度も訪れている場所で、私の大好き
な商店街だ。
まだどの店も開店時間で無いから中は静まり返って
いるが、昼間は沢山の人がこの場所を訪れる。
足を踏み入れると、私の足音が先まで響き渡り、ど
こからか猫の唸り声が聞こえてきた。
猫の唸り声に若干の不気味さと不穏さを感じないで
もないが、私は気にしても仕方のないことは気にしな
い質だ。
気にしても仕方のないことは気にしない。
考えてもどうしようもないことは考えない。
そういうことは、とりあえず目の前のことだけ頑張
って、少しの先の景色に辿り着いてから見返せばいい
のだ。見る場所が変われば、見え方だって変わるはず。
気にせず、奥へ歩き出した。
入り口近くにある、何度も塗り直された跡の目立つ
豚の描かれた看板。目はキュートな絵柄のくせに、豚
の体や顔はやけにリアルに描かれている。可愛いのか
可愛くないのかよく分からないその豚の看板を店先に
構えている店の名前は、肉屋の肉山。
様々な種類のお肉を売っているが、私が一番好きな
のは店長が手作りしているコロッケ。一個百円。
縦にも横にも大きな店長、苗字は勿論肉山で、名前
は総一郎さんと言うのだが、手先は不器用なのだと本
人はよく言っている。それゆえに、あまり景気のよく
ないこの頃でも、百円というリーズナブルな値段でコ
ロッケを売っているのだそうだ。
手作り感は満載。見た目は結構歪なのだが、サック
サクの衣にホクホクのタネ、ジャガイモの甘みの後に、
暴力的な牛肉の旨味が口一杯に広がる。
幼稚園児の頃から通う、私の大好きな店だ。
まだシャッターの閉まっている肉屋の肉山を通り過
ぎる。いつもの美味しそうな匂いも、まだしてこない。
今朝も使ったドライヤーを買った電気屋の前を通る。
リュックの中に忍ばせてある大好きな小説を買った、
本屋の前を通る。
朝ご飯に出てきたサラダに使っていた、美味しい野
菜を売っている八百屋の前を通る。
一度も入ったことの無い、居酒屋の前を通る。
我が家の近くにスーパーもショッピングモールも無
いこともあって、私の家の生活の色々な部分に、商店
街の店々が関与し、支えられていることを改めて実感
する。
しばらく歩くと、私の通う高校が見えてきた。
文目高等学校。
校舎は古く、冬は寒いらしいが、自宅からは徒歩五
分で辿り着く位置に建っている。
この学校を受けた理由は、家から近かったから。た
だそれだけだ。
全日制で、学力は全国平均くらいだが、私が受験し
た年は定員割れで誰でも入れた。
ちなみに、この高校の存在は花咲町の人間しか知ら
ないという、都市伝説がある。真偽のほどは分からな
いが、あり得ない話ではないと思えてしまうのが、こ
の町の恐ろしさを示しているように思う。
東京の一部でありながら、日本から隔絶されている
ような錯覚に襲われることの出来るのは、恐らくこの
場所だけなのではないだろうか?
「綺麗!」
高校のある通りには、桜並木が満開で咲き誇ってい
た。
ピンク色の花弁が、咲いて、散っていく。
桜並木の下には、私と同じセーラー服を着た女の子
と真っ黒な学生服を着た男の子達がちらほらと歩いて
いた。
桜の花弁の飾る、この光景は、まるで世界が私達の
入学を喜んでいるようにすら見えた。
春は、出会いと別れの季節。
私はこれから、どんな人と出会い、どんな思い出と、
楽しい記憶を作っていくのだろう?
考えただけで胸の中で巻き起こった高揚感を抑え、
一歩を踏み出した。
「あれ、この匂い」
が、嗅ぎ覚えのある匂いに気づき、すぐに一歩下が
った。風に乗り、背後から香った、柑橘系の果実を思
わせる爽やかさと華やかさと纏い、それでいて私の心
をまさぐるような挑戦的で野生的な香り。
電流が脳内を急速に巡る。
これは、髪の綺麗な、あの女の子の匂いだ!
髪の匂いで背後の女の子の正体が識別できるなんて、
なんだか変態みたいだが、そんな事は言ってられない。
彼女と友達になるには、まず話しかけなくては。
いい人間関係はいい挨拶から。
おはよう!同じクラスだよね?
よし、経験上、掴みはこれで大丈夫。
それから互いの自己紹介。
最後にこれからよろしく!と笑って握手でトドメだ。
満を持して、全身で後ろに振り向いた。
おはよう!
今まで何度も繰り返し言ってきた言葉。形だけの言
葉にならないように、毎朝気を付けてきた言葉。
そのはずなのに、大きく開けた私の口から、おはよ
う、のたった四文字の言葉が出てこなかった。
視界の真ん中に彼女を捉える。
散り降る桜さえ、私の目には見えなくなった。
私より頭一つ小さい、セーラー服の少女がそこに立
っていた。
顔の真ん中で分けられた長髪から覗く相貌には、こ
れまでに見たこのない引力があった。自信、勇気、意
志、強がり、恐怖、憎悪、殺意、慈悲、希望と絶望。
目を合わせただけで、彼女の繊細な感情が流れ込む。
小さな顔についている大きな二つの目の中は、キラ
キラと輝いている訳ではない。まるで目の中に暗闇が
広がっているかのような暗い黒色が、彼女の目の色だ
った。
その中で、煌々と光る彼女の意志の光。
私の胸のときめきは、最高潮に達していた。
「可愛いー!」
挨拶代わりに出てきたのは、抑えが効かなくなった
心の叫び声。
いい人間関係はいい挨拶から。
だが、私が彼女に求めるものは既に、いい人間関係
なんかじゃない。
彼女が欲しい!
彼女を知りたい!
彼女に近づきたい!
関係なんてどうでもよくて、それよりも先に、彼女
を求めていた。空っぽになった脳内は私の奇行を止め
ることもなく、私はジリジリと彼女の方へにじり寄っ
ている。
「わたしが可愛いことに嬉しそうな顔する女の子、初
めて見た」
彼女が口を開いたと同時に聞こえてきたのは意外と
低音の気怠げな声。抑揚のほとんどない話し方は、私
のものとは正反対のものだと思った。
「あなたも、可愛いね」
彼女は続ける。
夜を閉じ込めたような瞳が、私を釘付けにして離さ
ない。更に一歩を踏み出し、私は口を開いた。
「私、文目心寧!そっちの名前は何て」
「真琴」
「えっ?」
私の言い切らないうちに、彼女は自分の名前を言い
捨てた。
そして急に歩き出し、私の横を通り過ぎようとする。
「え、ちょっと待ってよ!」
反射的に彼女の左手を掴む。
小さく、柔らかいけど、少し角張った彼女の手のひ
らを絡み締めた瞬間、彼女は飛び上がって驚いた。
「何、触らないで」
「そんなに驚かないでよ。いいじゃん、女の子同士な
んだし」
絶対に逃さない。私はより一層の力を手に込める。
「いや、よくない。人にベタベタ触るのは、女の子同
士だろうが何だろうが、やめた方がいい」
「どうして?」
彼女の前に立ち塞がり、顔を近づけ、じっと目を見
つめる。
すると、彼女は必死に目を逸らそうとした。
「世の中には色んな人がいる。女に乱暴したい女だっ
て、いるから」
「そんな可愛い顔してるのが悪いよ」
「わたしが可愛いのとは関係ない」
力づくで、左手だけでなく、彼女の右手も私の左手
でガッチリと握り締める。
正面から向き合うしか無くなった彼女は、恥ずかし
そうに顔を背けた。
「真琴ちゃん」
「ちゃんはいらない。気に入らないから」
彼女の言い方は、まるで強がっているようで、いじ
らしかった。
「じゃあ、真琴」
真っ直ぐに言うと、真琴も私と目を合わせてくれた。
目を合わせているだけで、彼女の中で弾ける感情が
私の心に流れ込んでくる。
「真琴」
「何」
「私、真琴と友達になりたいな」
言うと、彼女は目を大きく見開き、薄らと笑った。
が、すぐにその笑みを噛み消し、押し付けるように
私へ言った。
「わたし、初対面の人にこんなにベタベタ触るような
人と友達になりたくないから」
言うが早いか、真琴は強引に私の手を引き剥がそう
とした。
力余って転ばれて、可愛い顔に傷でもついてはいけ
ないから、徐々に力を緩めていく。手が離れると、真
琴は逃げるように学校の方向へ去っていった。
私は運動神経には自信があった。追いつこうと思え
ば追いつける自信はあったのだが、そうはしなかった。
これ以上追い詰めても、今のままでは進展が無さそ
うだと感じたからだ。
「それにしても、可愛いなあ、真琴ちゃん」
彼女について、疑問は残る。
しかし、確かに進展はあった。
折角、同じクラスなのだ。早く友達になれるように、
この調子で沢山話しかけなければいけない。
真琴の後を追って、私も学校へ歩いていった。
「で、それから一言も話してくれなかったんだ」
「そうなんです」
言うと、警察官の制服を着ながら昼間から缶ハイボ
ールを啜る、ちぐはぐな格好の蛍さんは小さく笑った。
みっちり六時間の授業を終え、私は商店街の中のベ
ンチに座っていた。
隣に座り、酒を啜っているのは自称警察官の蛍さん。
昨日、丁度この場所で知り合ったお姉さんだ。
いきなり陽気に話しかけられた時は酔っ払いに絡ま
れたのかと思い、うんざりしたものだが、話してみる
と意外と気さくで話しやすかった。
無理矢理に彼女の手にしていた缶ハイボールを飲ま
された時は危険を感じたが、これまた意外に美味しか
ったこと、本人に悪気は全く感じられなかったことを
加味し、ギリギリ通報はしていない。これもそれも、
警察のやることでは絶対にないと思うし、仮に本当に
彼女が警察官だとして、警察相手に警察官を通報して、
意味があるのかどうか、私には分からない。
蛍さんは自分の職業を警察官だと自称しているが、
実際のところはまともな職についておらず、警察官の
制服もコスプレなのではないか、と私は睨んでいる。
では、どうして私はこんな酔っ払いに真琴のことを
話しているのか?それは、自分でもよくわからない。
まともな意見が返ってくるわけがないし、話しても
何も得るものはないというのは分かっているのだが、
私は彼女に惹かれているのか、せめて、彼女の酒の肴
にでもなればいいとでも思っていた。
だが、現実は分からない。
「でも、仕方ないかもね。どんなやり方でも、結局、
人間、相性っていうのがあるからさ」
「どういう意味ですか?」
「ほら、心寧はその子と友達になるために、とにかく
距離を詰めるっていう、手段をとったわけでしょ。そ
れは心寧の中では、その子に出来る最良の行為だった
けど、心寧のアピールを受けるその子にとっては、最
良の行為ではなかった。そんないきなり来られても、
困る、とかね、思われちゃったのかもしれない」
「なるほど」
蛍さんの纏う強い酒の匂いからは想像も出来ないほ
ど、彼女の呂律も脳も回っているらしかった。
「でも、心寧は心寧にとっての最良の行為をしたんだ
から。それで受け入れてもらえなかったのなら、仕方
がない、ってこと。例えば、昨日。私に話しかけられ
た時、どう思った?」
「うわ、って思いました」
「それと同じだよね」
「違いますよ!」
笑い半分に言うと、蛍さんは急に赤い顔を俯かせた。
「私、実は結構、内気な性格でさ。酒抜けると、女子
高生に話しかけるとか出来ないんだよね」
「はあ」
「だから、心寧と仲良くなるには酒の力を借りるのが
最良なわけ」
「私、蛍さんみたいな大人にはなりたくないです」
私の言葉に、蛍さんは小さく笑った。
「じゃあ」
空を見上げ、私は興味本意で聞いた。
上空に浮かんでいる雲は、近くにあるようにも、す
ごく遠いところにあるようにも見える。
「どうすれば、真琴と友達になれると思いますか?」
少し間があって、ハイボールを啜る音がする。
商店店にはそれなりに人通りがあった。
通行人の話し声、客の呼び込み、車のエンジン音、
掻き鳴らされる雑音の中で、蛍さんの酒やけした声は
聞こえにくかった。
「目的だけは見失わないように、押し続ければいいよ。
どんなやり方でも、目的にさえ向かっていれば、いつ
か、気持ちは伝わると思うんだよね。大切なのは、こ
こだよ」
蛍さんは私の胸に指を指す。
「ハート」
彼女は悪戯を企む幼女のように笑った。
それは、体の許容量を超えたアルコールが脳を通し
て溢れ出ているようで、こんな大人にはなりたくない
と感じる反面、愉快で、可愛らしくも思えてしまって
いた。
「気持ちの問題ですか?何かこう、もっと、プレゼン
ト、とか、あるじゃないですか。仲良くないうちにプ
レゼント貰っても困るとは思いますけど、そういう手
段、とかの問題じゃないんですか」
「いいや、それはないね」
隣の女児の顔をした成人女性に私の言葉はあっけな
く否定された。
「器用になんてやらなくても、心寧なりにその子の事
を考えて、何度も何度も行動すればいいんだよ。そう
すれば、いつか気持ちは伝わって、その子と、絶対に
友達になれる。私が保証してあげる」
「蛍さんに保証されたって何にもなりませんから。あ
と、気持ちが伝わったとして、彼女が心を開いてくれ
るとも、限らないじゃないですか」
あれ?
言っている間に、心の深い所に冷たい電流が流れた。
気持ちが拒絶される、なんて考えたこともなかった。
笑顔で、明るくハキハキ話せば、みんな笑顔になっ
た。
でも、その笑顔も話し方も、真琴には通じなかった。
私のこの気持ちが、もし、全部真琴へ届いて、それ
が拒絶されてしまったら、私は、私は?
想像したくない。
「そうだけど、開いてくれなかったら、そこでおしま
いだよ。気持ちを伝えて拒絶されちゃったらお手上げ、
縁がなかったって諦めるしかないじゃん。気持ち以外
のもので成り立つ友達の関係なんて、悲しいもんね」
気持ちで繋がる。
そのために、私の気持ちを伝えて、真琴に心を開い
てもらう。開いてくれなかったら、そこでおしまい、
お手上げ。諦めるしかない。
いや、本当にそうか?
思い描いたのは、気持ちを彼女に拒絶されて、何も
無い場所に突き飛ばされた直後の私の姿。ついさっき
まで想像することすら拒んでいた未来の先に、光はあ
った。
私は、一度突き放されただけで、その場から動けな
くなって、泣きじゃくることしか出来なくなってしま
うような女だろうか?
いいや、それはない。
二度目も突き放されたらどうしようとか、細かいこ
とを気にする質の人間じゃない。考えてもどうしよう
もないことは考えない。
真琴と友達になりたい。
そのために、全力投球をするだけ。
「諦めなければいいんです!」
唐突に言うと、蛍さんは酔っているにしては真面目
な表情で私の目を見つめた。
「何度拒絶されても、心を開いてくれるまで、何度も
何度も何度も何度も、私は真琴に好きって言うんです。
心を閉ざし続けるのが馬鹿らしくなるまで、友達にな
りたいって話し続けるんです。そうすれば、私と真琴
は、絶対に友達になれるって、思います!」
蛍さんは目を見開いた。その中には、微弱ながら、
確かに真琴と同じ種類の、意志の光が宿っているよう
に見えた。
「諦めない、とか、考えもしなかったな。心寧は、強
いね。私よりも、ずっと。十歳も歳下のくせに」
「私は、しつこいだけです」
彼女は私を一瞥し、小さく笑った。
また小さく口を開き、ハイボールを傾ける。
缶の中身が無くなったらしく、彼女は不満気に缶を
ベンチの端に置いた。
答えたく無いなら答えなくてもいいけど、と前置き
をして、彼女は楽しげに聞いてきた。
「どうしてそんなに、その子ことが欲しいの?」
「髪が、すごく綺麗なんです。超綺麗なんです」
「へえ?」
真琴の目の中に見た、意思の光の眩しさが蘇ってく
る。
「今日、顔を合わせた時、思ったんです。その綺麗な
髪は、真琴の本当に綺麗な部分から生まれた副産物に
過ぎないんじゃないか、って!そう思ったら、真琴の
ことを知りたくて、堪らなくなって」
丁度、そこにあった肉屋を指差した。
「肉屋の肉山。このご時世の中、あそこのコロッケが
どうして百円で売っているのか、知ってますか?」
「安く、美味しいを提供したいと考える店主の意向、
とか」
「正解は、店長が料理下手くそだから、クオリティ的
に値段を高く出来ない、でした。味は美味しいです!」
「へえ、帰りに食べてみる」
「それで、何が言いたいかというと、何事にも、理由
ってあると思うんです。コロッケは形が歪だから安い
ですし、そのコロッケが昼の間に完売してしまうのは、
味が美味しいからです」
「売り切れてるじゃん」
「私、それと同じように、人が可愛いと感じる事にも、
理由ってあると思うんです。真琴は、超可愛いです。
でも、私には、その理由が分からないんです。こんな
ことは、初めてなんです!」
蛍の目の中の光は、揺らいでいる。
「私、真琴が可愛い理由を知りたいです!真琴が考え
ていることを知りたいです!どんなものが好きで、ど
んな時間が好きで、どんな食べ物が好きで、どんな人
が好きなのか、とか。真琴について、何でも知りたい。
真琴の笑顔が見てみたいです。私が、真琴を笑顔にし
たいです。幸せにしたいです。だから、私は真琴が、
どうしても欲しい、と思います」
蛍さんを正面から見つめ返すと、彼女はどうしてか、
悲しげな表情をして目を逸らした。
「蛍さん、どうしました?」
らしくないと思い聞くと、彼女は弱々しくその酒焼
けした声を発した。
「なんか、虚しくなっちゃって」
「はあ」
「いや、私も、誰かを幸せにするために、警察官にな
ったんだったなあ、って、思い出しちゃっただけ」
「蛍さんって本当に警官なんですか?」
「ん、逆にそれ以外何に見えるっていうの」
「無職のコスプレイヤー、とか」
「何言ってんのか、わかんない」
蛍さんは呆れ顔でそう言い放った後、私の頭を優し
く手のひらで撫で、口を開いた。
「まあ、とにかく、心寧なら絶対、その子と友達にな
れると思うよ。まあ、諦めないんだからなれない訳な
いんだけど。でも、頑張ってね、お姉さん応援してる」
「ありがとうございます!でも、蛍さんは他人の応援
する前に、自分の生活を見直した方がいいと思います。
蛍さんを見てると、心配になります」
言うと、彼女は小さく笑った。
春の訪れを告げるピンクの花弁も、夜の暗闇に隠れ
その色を失ってしまっていた。
居酒屋で飲んでいる顔ぶれは昨日と全く同じだった。
二人の警官と五人の若い男女、くたびれた会社員に
ギターを背負った青髪のバンドマン風の男。
アルバイトの青年は二日連続での勤務らしかった。
「昼間さ、今朝話した女子高生に会ったんだよ」
「酒飲ませた子ですか」
「その子さ、私を警官のコスプレしてる無職の女だと
思ってたらしくて」
「大体合ってますよ」
「違うから。そうじゃなくて、私、そんな風に思われ
てたんだって傷ついたの。わかる?私、傷ついたの」
「そんな訳ないでしょう。蛍さんは誰に何言われても
気にしないじゃないですか」
「そうじゃなくて、私、早く慰めろって言ってんの」
「分かってて言ってるんです。今日は甘えたい気分な
んですか」
「うるさいな、仕事じゃ私におんぶに抱っこのくせに」
「蛍さんが活躍出来るように支援するのが俺の仕事で
すから」
「ああ言えば、こう言う」
「でも、仕事してる時の蛍さんは、本当にカッコいい
なって、普段から俺、思ってますから」
「ああもう、うるさいな」
蛍は手で口元を隠した。
店の奥のテーブル席に座る六人の若者達の間には、
粘り気のある暗い空気が漂っていた。
この店のエプロンを着けた女性は長身の男を指差し、
聞いた。
「肉山、経営は順調?」
「ああ、黒字続きだ。何故か親父のコロッケが飛ぶよ
うに売れるからな。酒倉、お前の方はどうだ?」
「ギリギリだよ。まあ、今すぐ潰れるってことはない
かな」
彼女は俯き、テーブルの上に置かれたコップの水を
啜った。
「お前らはどうだ?」
肉山は三人の方へ向き直り、陽気に聞いた。四人は
彼の方を見るが、その目にはどうも、光が灯っていな
い。肉山は気まずそうに声を発した。
「あー、今年中に店潰れる目処が立っちゃったよー、
っていう奴、手、挙げてくれ。うちも出来る限り、支
援はしたい」
彼が言うと、三人は同時に手を挙げた。
「これは、やばいな」
肉山は思わず、声を漏らす。その声と雰囲気をを笑
い飛ばすように、酒倉は言う。
「大丈夫だって!いざとなれば、みんなうちで雇って
やるから!」
「そんな余裕あるのか?」
「それは、これから作るんだよ」
酒倉は苦笑する。
「でもさ、僕等は頑張ってる方だと思うよ」
丸眼鏡をかけた男は不意に言った。
「うちらみたいな昔ながらの商店街はさ、全国で次々
と無くなっていっているらしい。僕等みたいに今でも
営業しているところ自体、珍しいそうだよ」
「世知辛いね」
化粧っ気のない、白い肌の女性は悪戯っぽく笑った。
彼女の隣に座る、化粧の濃い女性も薄らと笑う。
「他所で働くにしても、最近はどこも厳しいからねえ」
「実際、店潰れたら、僕達、路頭に迷いますよね」
丸眼鏡の男は遠い目をして呟く。
それを聞いた白い肌の彼女は他の四人を愛おしそう
に眺め、口を開いた。
「もし、そうなったら、その時は。みんなで迷いまし
ょう。私達なら、きっと、何とかなりますよ。私達は
小さな頃からずっと、手を取り合って、この商店街で、
一緒に生きてきたのですから」
彼女の言葉に、流れていた空気の粘り気が消え失せ
る。
肉山は明るく声を出す。
「ああ、万が一そうなっても、俺等なら大丈夫だ。だ
が、まずは大切なこの商店街をどう守っていくか、考
えなくちゃいけないな」
「僕達の子供の頃からの思い出が、ここには詰まって
いるからね。そう簡単に、潰させはしない」
丸眼鏡の男の言葉には、力が籠っていた。
真琴と出会ってから、一週間が経った。
「おはよう、お母さん。お父さん」
二回のお父さんとお母さんの部屋、リビングの窓を
開けると差し込んできた眩しい太陽の光に、私は今日
も目を細めた。
窓から見える街並みはいつも変わらない。当たり前
だが、変わらない。うんざりする、気が重くなる。
朝日に照らされたビルや家々を眺めるだけで、足枷
でもつけられたかのように次の一歩が遠くなる。
「ここちゃん、おはよう」
「うん、おはよう。お母さん」
先にリビングで朝食を作っていたお母さんに挨拶を
返す。
笑顔を作り、ハキハキ話すことへの意識を忘れてい
たと思い、彼女の方を見返すと、既に私からは視線を
外し、キッチンの上に置かれたお弁当箱と睨めっこし
ていた。
テレビに映っているニュース番組をぼーっと眺める。
時刻は七時を回っていた。
お母さんの作ってくれた朝食を食べる。
歯を磨き、顔を洗う。
ヘアオイルは、別のものに変えた。
すごく甘い、私の一番好きな香りを、嫌いになりた
くなかったから。
どんな香りのものかよく見ることもなく購入した新
しいヘアオイルは、爽やかな柑橘系の香りがした。
髪が揺れる度に柑橘系の香りがする。その度に、胸
が高鳴って、それがすぐに痛みに変わる。苦しい。
苦しいのに、また柑橘系の香りを髪に纏わせてしま
うのは、痛くとも、紛い物だとしても、真琴を近くに
感じたかったからなのかもしれない。
自分でも、もうよく分からない。
真琴は、まだ話してくれていなかった。
何を言っても無視か、居心地の悪そうな顔をするだ
け。
友達になってほしい。
毎日言ってる。毎日、帰ってくるのは無言の拒絶。
諦めなければいいんです!
数日前、あの酔っ払いのコスプレイヤーに言ったの
を覚えている。
思い付きで言っただけの幼稚な言葉が、私を縛り付
けているのかもしれない。仮に言ってなかったとして、
私が真琴のことを簡単に諦めるとも思えないが。
しかし、気にしても仕方のないことは気にしないス
タンスの私にしてみれば、真琴と友達になりたいと思
うこの感情だって、その、気にしてもどうしようもな
いこと、に現状、分類されてしまいそうではある。
だが、髪から香った紛い物の柑橘系の香りで、気づ
いた。
私を縛って離さないのは、自分の言葉に背くことの
嫌悪感でも、特別な彼女を並のものと同列に扱い自分
のスタンスの中に組み込むことの拒絶感でもない。
真琴のことを知りたいと強く願う、私の心だ。
「よし」
髪を結び、鏡と向き合う。
少し、目の下の隈が目立つ気がする。
鏡の向こうの世界の私も、最近は夜更かし気味なの
だろうか?
指先で口角を上げる。目を大きく開ける。
そうだ、笑顔。笑顔でこそ、私だ。文目心だ。
気にしても仕方のないことは、今日も、美琴に拒絶
されてしまうことであって、真琴と友達になる、その
ことではない。今はまだ、そう思える。
洗面所を出ると、お母さんに声をかけられた。
「ここちゃん。今日、午後から雨らしいから。傘、持
ってくようにね」
「分かった!お母さん!」
笑顔を見せると、お母さんは優しく微笑んだ。
すっかり私の匂いの染みついたセーラー服に袖を通
す。重たい教科書の入ったリュックサックを背負う。
姿見を確認すると、そこには見慣れた女子高生が立
っていた。顔に力を込めると、鏡の中の女子高生も可
愛い笑顔を作って見せた。
玄関で靴を履き、後ろを振り向く。
もう一度だけ、笑顔の練習をして、家の中へ呼びか
けた。
「行ってきます!」
「「行ってらっしゃい!」」
言うとすぐに、お母さんとお父さんが元気に返して
くれた。
ドアを開けると、春の匂いが私を包んだ。
頬を撫でるくらいの風が髪を揺らし、柑橘系の香り
が漂う。
春の風は、既に私の背を押すだけのものではなくな
っていた。吹き付けば、髪が乱れる。風の運んでくる
春の緑の匂いにも、もう新鮮味がない。
閉ざされたシャッターの間を潜り抜ける。
高校の前の桜並木の鮮やかなピンク色は、私を逃げ
場のない現実に引き戻した。もはやそれは祝福ではな
く、春を押し付けるだけの呪いに近かった。
校門をくぐり、校内に入る。
お気に入りのスニーカーから指定の上靴に履き替え、
教室へ向かい歩き出す。
周囲から聞こえてくる私に向けられたものではない
挨拶、他愛のない会話、笑い声、そういうものを聞く
だけで、心が、苦しくなった。
真琴のことばかりで、私にはまだちゃんと話せる友
達が、一人だっていない。
教室の戸を開け、周囲を見渡す。
男の子も女の子も、仲のいい人同士で固まって笑い
合っているのが大半だった。一斉に私を一瞥し、会話
に戻る
真琴は、教室の隅に座り一人で何かを描いていた。
それが女の子の可愛いイラストで、真琴は絵を描く
ことがすごく上手なことを私は知っているが、それは
真琴の口から教えてもらったことでも何でもない。
ただ、私が一方的に真琴のことを見ている、という
だけの話だ。
胸に手を当て、自分の心を優しく撫でる。
真琴に何度拒絶されてからか、震えるようになった
手と足を無理矢理に動かし、教室の端へ歩いた。
声が震えないように。それでいて、笑顔は崩さない
ように。
「真琴、おはよう」
声をかけた。本物の柑橘系の髪の匂いが香る。
この香りが、大好き。でも、半分、嫌いだった。
真琴は、私を一瞥し、何も無かったみたいに目線を
机の上のノートに戻す。再び、絵の続きを描き始める。
心に刃物で切り付けられたような、鋭い痛みが走る。
「絵、上手だね」
痛くないフリをして、もう一歩踏み込む。その先で
また心が傷付くのを、分かってはいた。
真琴は、何も応えてくれなかった。
ただ、絵を描き続けるだけ。
「真琴って、そんなに、絵、好きなんだね」
口に出してから、自分は皮肉を言ったのだと気が付
いた。
私には、価値がない。
反応を示さず、絵を描くことを優先することで、そ
う言われているような気がして、悲しくなって、悔し
くなって、気づいた時には、そう言っていた。
彼女に罪悪感を植え付けたい訳ではないのに、友達
になりたかっただけなのに、心につけられた傷が疼い
て止まらない。
「私は、真琴のことが好きで、仲良くなりたくて、友
達になりたいから、ずっと、話しかけてるんだけど」
そう言っても、真琴は私と目を合わせることもなか
った。聞こえるのは、彼女がノートにシャープペンシ
ルを滑らせる音だけ。
私はその場を離れた。
今、自分がどんな顔をしているのか、それすらよく
分からなかった。笑顔ではないことだけは、確かだ。
自分の席に座り、一時間目の授業の準備を済ませる。
真琴以外の人と、話そうかと思いついたが、辞めた。
理由はあえて、深くは考えなかった。
もし、拒絶されてしまったら?
それが脳裏に散らついて、震えてしまって、でも自
分がそんな風になってしまったのだとは、認めたくな
かった。だから、私は逃げたのだ。
準備はする割に、今日の授業は、ほとんど寝ていた。
前日の寝不足のせいかもしれない。
元々、勉強なんてする気分にはなれそうもないのだ
が。
今日も、休み時間になる度に真琴に話しにいった。
笑顔を作る余裕も無くて、無言の美琴に感情をぶつ
けるだけ。私は一体どんな顔をして、真琴に話してい
たのだろう。覚えていない、思い出したくもない。
放課を告げるチャイムと共に、私は教室を出た。
逃げ出したかった訳じゃない。
ただ、教室にいても、私に出来ることは何もない。
そう、思っただけだ。
玄関で、指定の上靴を脱ぎ、スニーカーを履く。
顔を上げることが出来なくて、俯いたまま、外に出
た。
湿った緑の匂いを感じた瞬間に、周囲に落ちる雨音
が耳に飛び込んできた。
「あ、傘、忘れた」
呆然とする私の横を、二人組の女生徒が傘を差し、
仲良さげに並んで歩いていった。あの制服は、私と同
じ、一年生。
立ち止まって動けない私と、雨をもろともせず進ん
でいく彼女達は、対照的だと思った。
下を向くと共に揺れた髪から、柑橘系の匂いが香っ
た。記憶が鮮明に蘇る。日々、重なり、広がっていっ
た傷跡が、その度に感じた痛みと共に疼く。
頭の中で、何かが弾けたのは、その時だった。
目の前の景色が滲んで、水滴が地面に落ちた。
水滴が雨水ではなくて、私から溢れた涙であること
を自覚するまでに、少し時間がかかった。
身体中の力が抜けて、胸が苦しくて、嗚咽が止まっ
てくれない。俯いたまましゃがみ込んで、その場から
動けない。
雨音が一層勢いを増す。
私は、何も分かっていなかった。
諦めなければいい。
私がそう言った時、蛍さんが、私のことを強いと言
った理由。見えている世界が違ったんだ。
私の言っていたのは、子供の屁理屈と同じだった。
ただの、くだらない思いつきでしか無かった。
彼女の言う、強さとは、心を傷つける覚悟のあるこ
とだ。
諦めない。
それはつまり、真琴を友達にすることが出来るまで、
何度でも心を傷付けることを許容する、覚悟のことだ
った。
私は強くなんてなかった。
ただ、頭が悪かっただけだった。
もう傷つきたくない。
これ以上痛みに耐えられない。
それなのに、真琴のことが頭から離れない。
私の心は壊れた。
止まらない涙は、滅多斬りにされた私の心から溢れ
る血液だ。
真琴は悪くない。それは分かっている。
仕方なかった。蛍さんの言う通りだった。
私の中で降り注ぎ、打ち付ける雨は体温を急速に奪
っていく。
「ねえ、大丈夫?」
知らない女の声と同時に肩に触れられ、反射的にそ
の手を払っていた。
心の中の雨に打たれる私に傘を差すことが出来るの
は真琴だけ、とか、そんなことはなくて、本当は誰で
も良かった。
誰でもいい、それは確かだけど、私は、美琴にしか
出来ないことであって欲しかった。だから、甘えられ
なかった。差し伸べられた手を払った。
これだけ傷付いても、もう嫌だと心が叫んでも、諦
められないのは、春の呪いで、私の強さといえるのか
もしれなかった。
その時、雨の空気に混じって、不意に、匂いがした。
柑橘系の果実を思わせる爽やかさと華やかさと纏い、
それでいて私の心をまさぐるような、挑戦的で野生的
な香り。
あなたが泣いているのを見て、すぐに救いたい衝動
に駆られた。あなたの大好きなわたしなら、一時的に
それが出来ることも、知っていた。
泣いているあなたの手を取って、本当はわたしもあ
なたと一緒にいたいと思ってた、って、正直に言って
しまえば、それであなたは救われたのだと勘違いをす
る。
でも、それではわたしが、あなたを拒み続ける罪悪
感から救われるだけ。最後には、あなたを傷付けて、
突き飛ばして、終わってしまう。
わたしは、心寧と友達にはなれない。
あなたの為に、目を逸らす。
また、心にヒビが入る。
傘を開き、歩き出そうと脚に力を入れた。
中途半端に上がった足は、宙に浮いたまま進もうと
もせず、その場で足ぶみをするだけ。
相変わらず、わたしは弱かった。
分かっていた。
心寧が泣いているのは、わたしのせいだ。
わたしが心寧を拒絶し続けたから。
諦めてくれるまで傷を付けようとして、何度切り裂
いても諦めてくれなくて。結果として、彼女の心は血
塗れになった。
そして、心寧が泣いているのは、まだ、わたしのこ
とを諦められていないからだ。あの子はまだ、傷付く
つもりだ。
人を傷付けるのは、嫌いだった。
呆然とするわたしの横を、二人組の女生徒が傘を差
し、仲良さげに並んで歩いていった。あの制服は、わ
たし達と同じ、一年生。
立ち止まって動けないわたしと、雨をもろともせず
進んでいく彼女達は、対照的だと思った。
雨音と他の生徒の雑音の中で、心寧の苦しそうな嗚
咽は、鮮明に聞こえた。
一週間前、初めてあなたと向かい合った時、わたし
も、あなたが欲しい、って、激しく、衝動的に思った。
しかしそれは、あなたとは違う、理由で。
わたしは普通ではない。あなたと友達にはなれない。
だけど、あなたの嗚咽が痛くてたまらない。
わたしに拘らないで、他の人と友達になって、幸せ
でいてくれたら。それが、わたしにとっての幸せでも
あったのに。
これ以上、彼女の嗚咽を聞くのは耐えられなかった。
わたしの弱い部分が、勝手に傘を閉じて、足を心の
方へ向ける。
蹲って震えて、嗚咽を繰り返す心寧の元へ、歩き出
す。
自分に嘘をついて、心寧を救うつもりはなかった。
ただ、わたしは友達になってあげられないという事
実と、あなたの気持ちは全部伝わっていて、嬉しかっ
た、ということを、伝えるつもりだった。
それで、理解してもらえれば良かった。
心の目の前まで来ても、彼女は蹲ったまま顔を上げ
なかった。
「心寧」
その場で屈み、彼女の名前を呼ぶ。
静かに顔を上げた心の目は真っ赤で、涙の跡がくっ
きりと残っていた。
「わたし、心寧に伝えたいことが、あるの」
心寧の目は、あの日と同じだった。真っ直ぐで、澄
み切っている。宝石みたいな、綺麗な目。
わたしを見る時だけ、少し目を大きく開く、心寧の
癖がわたしは好きだった。
「沢山無視して、ごめんね。友達になってほしいって、
言ってもらえたこと、嬉しかった」
「本当?」
涙交じりに、心寧は聞いてきた。
「本当だよ。本当に、嬉しかった。心寧の気持ちは、
ちゃんと全部、伝わってるから」
心寧の頬に新しく溢れた涙に、弱いわたしは耐えら
れなかった。衝動に任せて、言葉は放たれた。
「わたし、絵より、ずっと、心寧の方が、好きだから」
言うと、下がり切っていた心寧の口角は分かりやす
く上がった。
「そうだったんだ」
心寧は鼻水を啜り、目をゴシゴシと擦る。
「でも、わたしは心寧の友達には、なってあげられな
い」
「うん、話を聞いてくれなかったのは、何か、理由が
あったからだよね」
心寧は真っ直ぐに、わたしの目を見つめた。彼女と
目を合わせていると、頭の中まで覗かれているような、
不思議な感覚に陥った。
「それで、どうして私のこと、こんなに傷付けたの?」
彼女に聞かれた時、背筋に冷たいものが走った。
頭の中を見透かされている感覚と共に、澄み切った
彼女の瞳に、脳内を弄られるような違和感があった。
本当のこと以外、言う気になれない。
そんなことを言うつもりも無かったが、想像するだ
けで、恐ろしくなった。
こんなにも純粋に、真っ直ぐに向かい合ってくれて
いる心寧に対して、嘘を言うことも、騙すことも、わ
たしには、絶対に出来ない。作用しているのは、わた
しの中の、罪悪感。
もし、そんなことをしたら、わたしは、人間ではな
くなってしまうような、予感があった。
「わたしが心寧を、避けてたのは」
「うん」
「心寧を、傷付けたくなかった、から」
「私を傷付けないために、私を傷付けたの?」
「違う、そんなに、傷付けるつもりは、無かったの。
これまでの人達は、すぐ諦めてくれたから、結果的に、
傷はすごく浅く済んでて、心寧も、すぐに諦めてくれ
ると、思ってたから」
「私、結構、しつこい女なんだよね」
「違う」
反射的に否定していた。
私の為に、心寧に自虐を吐かせることは、どうして
もしたく無かった。
「心寧はしつこいんじゃなくて、それだけ、わたしの
ことが欲しかったってだけ」
彼女はただでさえ大きな目を見開き、嬉しそうに、
はにかんだ。
「真琴が可愛いのが悪いよ」
心寧の嗚咽が止み、雨の降る音と雑音が戻ってきた。
いくら彼女が笑顔になろうが、わたしには、伝えな
くてはならないことがある。
彼女とは、友達になれないこと。
最後は傷付けあって、突き飛ばしあって、終わって
しまうのだから、もう、関わらないで欲しい、という
こと。
「ね、真琴」
私が話し始めるより先に、彼女は口を開いた。
「さっき言ってた、私を傷付けたくなかった、って、
どういう意味?」
「そのままの意味。わたしと仲良くなっても、最後に
は、傷付けあって終わる。どうしてそうなるのか、と
かは、教えたくない」
「私を避けてた理由、本当にそれだけ?」
「それだけ」
「じゃあ、傷付けたくないから、私とは友達になれな
い、とか、言うつもり?」
「その通りだけど」
答えると、心寧はイタズラっぽく笑った後、わたし
に手を差し出してきた。
「何?」
「ほら、いいから」
手を掴むと、刹那、体が宙に浮いた。
次の瞬間、視界が真っ暗になって、甘い柔軟剤の匂
いと、柔らかい体の感触が全身から伝わってくる。
体を起こすと、心寧の顔が目の前にあった。
彼女の細い腕がわたしを抱き締め、手のひらが、頭
と腰に触れている。
初めての感触に、体が急激に火照っていくのが分か
る。
「私がどれだけ真琴のことが好きか、分かってないで
しょ」
恥ずかしげもなく言い、心寧はじっとわたしの目を
見つめてきた。
「毎日、真琴のこと考えてたんだよ。勇気出して、拒
絶されて、痛い思いをして、また、勇気を出す。それ
を何日も繰り返していくうちに、私の中で、真琴の存
在がどれだけ大きいものになっちゃったのか、想像で
きる?」
心寧は、わたしを責めているのだろうか。
確かに、わたしが初めにこの話さえしていれば、彼
女を傷つけることもなかったかもしれない。
勝手にわたしに興味を持って、勝手に離れてくれる。
誰も傷付けない為に最も楽で良いと思っていた、無
視という手段は、結果として心寧を深く傷付けた。
「ごめんなさい」
「え?」
言うと、心寧は首を傾げ、その後すぐに慌てて口を
開いた。
「いや、全然謝ってほしいわけじゃないよ!私も悪い!
でもね」
彼女の顔に、薄らと笑みが浮かぶ。
「真琴のことを知って、その先で傷つけるなら、私、
幸せだよ」
冗談を言っているようには、決して聞こえなかった。
心寧の目に宿っているのは、無邪気で幼い好奇心や
冒険心などではなく、一種の狂気であると初めて予感
させられたのは、この時だった。
「どういう、意味」
「真琴の全部が、知りたいってこと」
子供みたいな笑顔で、心寧は笑った。
「私、真琴の笑顔が見たい。幸せな顔が見たい。真剣
な顔も、泣いてる顔も見てみたい。怒ってる顔も、哀
れんでる顔も、嬉しそうな顔も、悪い顔も」
彼女は笑みを崩さないまま、わたしの頭を優しく撫
で、言った。
「私をずっと、真琴の隣に居させてほしいな。もう、
友達になんてしてくれなくてもいいからさ」
「本気で、言ってるの?」
「私ね、嘘ついたら、すぐ顔に出ちゃうんだ。ほら、
見てよ、私のこと」
心寧の視線は、あまりにも純粋だった。
目を合わせていると覚える、心臓を貫かれるような
感覚。彼女は、普通ではない。
心寧は狂気に満ちているのか、それとも、何にも侵
されず、純粋であることが彼女の狂気なのか?
「ね、真琴。もう一度聞くから、ちゃんと答えてね?」
心寧の笑顔は、幼かった。怖いほど、歪みがない。
「私をずっと、真琴の隣に居させてくれる?」
わたしは、迷わなかった。いや、迷う余地すら失っ
てしまっていた。
心寧からは、逃げられない。
直感的に、それは分かっていた。
しかし、心の奥では、わたしもわたしで、心寧を欲
しがっていたのだ。わたしを知りたいと言う彼女のも
のとは違い、わたしは、心寧の心と体が欲しかった。
傷付けて欲しいと願う心寧に対して、わたしが彼女
に手を伸ばすことを止めさせる理由は、何もない。
唯一、心寧は狂人であることに、恐怖を感じないで
もなかったが、それは、わたしにも言えることだった。
「いいよ。ずっと、一緒に居よう」
わたしが言うと、心寧の表情はパッと明るくなった。
「約束!だからね」
「うん、約束」
気づけば、周囲からは人がいなくなっていた。
辺りに打ち付ける雨音だけが、わたし達を包んでい
た。
「友達じゃないけど、ずっと一緒にいる、二人。私達
の関係って、なんて呼ばれるのかな?」
「友達以外でずっと一緒にいる、なんて恋人くらいで
しょ。わたし達は、まだ違うけど」
心寧は頬に手を当て、考える仕草を取る。
少しして、彼女は何か閃いたのか、大きく目を見開
いた。
「相棒、っていうのは、どう?」
「相棒?」
「そうだよ!これから私は、真琴の人生の相棒。真琴
は、私の人生の相棒」
「心寧が良いなら、それでいいけど」
「じゃあ、決まり!仲良くしてね、相棒」
相棒。友達よりもずっと深くて、多少傷がついたく
らいでは、簡単に千切れなさそうな感じがして、嫌い
じゃなかった。