喜望峰を越えて~地下の神様~
「地下に行っちゃいけないよ。その日が来るまでは」
モルタルがガサガサに剥がれた窓辺から、断崖絶壁みたいな谷底を見下ろし、風をはらんでるカーテンを見て、ノナは言う。「船が出るぞー!」
私は鉄鍋のお湯に、インスタントスープの粉を溶かしながら、ノナの台詞に耳を澄ます。「横風が来るぞ。風に帆を張れ!」
「船長。我々は何処へ向かうのですか?」と、リアが敬礼をしながら聞く。
「きぼうほうだ。きぼうほうを越えて、東へ向かうのだ!」と、ノナは言って、窓辺の断崖の向こう側から果てしなく続く森の上を指さす。「旅路は長いぞ、くじけるなよ、船員!」
「はい。帆のロープを絞りに行きます!」と、リアは返事をして、レールから引き千切られかけているカーテンを帆に見立てて、空想のロープを引いて見せる。
船員の機敏な仕事ぶりに満足したノナ船長は、空っぽのドリンクの瓶の望遠鏡を覗き込みながら、其処に見えている「海の化物」に警戒する。
「西の方でクラーケンが騒いでいる。迂回路を進め!」と、ノナ船長は指示を飛ばし、リア船員は「ヤー!」と答える。
折角始まった遊びを邪魔するのは気が引けるが、私は食事が出来た事を教えた。「船長、船員。今日の夕飯はマッシュルームのスープだよ」
それを聞いて、ノナとリアは一瞬目を輝かせ、遊びを忘れて「やったー!」と言いながら私の足元に集まってくる。
私は瓶を割って作った器にスープを入れ、二人に渡す。割れ目がすっかり摩耗している瓶の器は、小さな口に傷をつける事も無く、二人は少し埃っぽいスープをずるずると啜る。
「きぼうほうには、いつ着く予定?」と、私は自分の分を飲みながら聞いた。ノナの頭の中では、まだ海図が描かれているようだ。「風の向きによるけど、30日はしないと思う」と言う。
「もっと早く着こうよ」と、リアは反発する。「海賊船じゃなくて、蒸気船に乗ってることにしよう」
「だめだよ」と、ノナは言い返す。「僕達は海賊じゃなきゃ。じゃなきゃ…」と言って、口ごもる。それから、「なんにも、食べられないじゃないか」と呟いた。
リアも、スープの器を少し口から離した。考え直すようにまた瓶の器に食いつき、盛大に音を立てながら、程よくふやけたマッシュルームスライスを飲み込む。そして言う。「コック長殿。お代わりはあるかな?」
私は、もう少しで飲み終わりそうだった自分のスープを、リアに差し出した。リアはにっこり笑って、器を受け取る。
「だめだよ」と、ノナはまた言い、リアから器を取り上げると、私の手に押し付けた。「メグは、もう2日も食べてなかったんだ。僕達より食べなきゃ」
リアはがっかりした顔から、急に「船員」の顔に戻った。「コック長殿、失礼仕った」と、お詫びを言う。
「別に良いんだよ。ありがとう」と言って、私は器の底に残っていたスープを、ごくんと飲み込んだ。
ノナとリアには、「地下には神様がいるから近づいちゃいけない」と言ってある。
捕まえた動物を焼けた肉の塊にして、水をお湯に変えて、卵があったら燻してくれる便利な神様だ。私は、それが「溶岩」と言う物である事を知っている。
溶岩の吹き出ている場所は、あまり近づくと暑さで死にそうになる。その、人間が死ぬか死なないかの場所で、捕まえてきた動物を焼いて、汲んできた水を沸かして、ノナ達が盗んできた卵を燻す。
この廃墟も、残ってるのは私達だけだ。みんな、死ぬ時期を察すると、「神様」の所に行って自らの体を柔らかい溶岩に沈めた。
老いてても、若くても、体の何処かを怪我したり、病んだり、骨身が腐ってきたりして、その苦痛から逃れるために「神様」の所に行った。
ノナとリアは、最後に残った子供達だ。あの二人も、死ぬときは地下に行って、「神様」とひとつになる事を知っている。だけど、ノナには「終わりの日」、リアには「祈りの日」が来るまでは、絶対に地下に行ってはならないとも教えてある。
二人は、私が「祈り」のために地下に行ってるんだと思ってる。「肉を食べさせてください。お湯を恵んで下さい。この卵を食べられるようにしてください」と、願う事でそれが叶うようになると。
リアはもうすぐ7つだ。そろそろ、この「巫女」の仕事を、教えても良い頃だろう。
ノナと私が15歳になった時。
ノナが悪いキノコを食べてしまって、その毒を体から出すために、たくさん水を飲まなきゃならなくなった。メグは、冷たい雨が降る中で、鍋を持って雨を集めていた。ガタガタ震えながら雨水を手に入れて帰ってきたメグは、私に地下で水をお湯にしてくるように言ってから、倒れた。
私は部屋の隅で埃を被っていた布で、メグの体を拭いて、乾いているカーテンを引き千切ってメグの体を包んだ。それから、雨水の入った鍋を抱えて、洞窟の中でも、とりわけ広くて、流れてくる熱波に耐えられる場所まで階段を降りた。
地面を這う溶岩の中に、五徳が置いてある固まった場所を探し出し、其処に鍋を備える。後は必死に祈った。
「一秒でも早くお湯を下さい。二人の命は、まだあなたの所に逝くには早すぎます」と、声に出さずに、何度も何度も祈る。
ノナの中毒を治すだけだったら、唯の雨水でも代用は出来るかも知れない。けど、メグは今にも冷気の女神に命を吸い取られそうになっている。炎の女神のご加護が必要だ。
火を崇拝する者は滅びるんだってさ、と、ずっと昔に誰かが言っていた言葉が頭をよぎった。火は、消えるものだからね、と。
うるさい記憶を追い払い、私は永遠に消えない炎の女神に、必死に祈った。
ぼこぼこと鍋の底から気泡が上がってきて、私は「祈り」が届いたことに気づいた。お湯の入った鍋を持って、階段を駆け上がった。
お湯を飲んだノナとメグには、炎の女神のご加護があった。ノナは吐き気を訴えてトイレに行った。喉を通して、毒は排出されるだろう。
首筋まで冷たくなっていたメグも、お湯を飲んでお腹が温まったみたいだった。でも、「少し、頭が痛い」と言って、そのまま眠りこんだ。
その日は、メグの手を握って、一緒に同じ布の中で眠った。メグの心臓は、暖かい。まだメグは生きられる。
私は女神様に祈った。「炎の女神様。まだ、メグの命を望まないで下さい。あなたの所に逝くなら、三人一緒に、あなたの所へ導いて下さい」と。
キノコの毒は、ノナの指先と、頭の中に残った。指先が常に震えるようになって、ノナはずっと夢みたいなことを口走るようになった。
「白海鳥が来るぞ。羽をむしって肉を煮よう」と言って、窓から谷に飛び込もうとしたり、「青色蝶々だ。ああ、ああ、綺麗だな」って言って、何も飛んでない部屋の中を駆け回ったり。
「きぼうほうを目指すぞ!」と、突然言い出して、私が返事をしないと怒ったりした。
ノナの頭の暴走は、夜でも昼でも関係なかった。突然飛び起きて、「舵を切れ。どうした、力自慢達!」と言ってからまた眠りこんだり、折角盗んできた粉チーズに、「僕が増やしてやる」って言って、石で削った石鹸を入れようとしたりする。
本人は、「遊んでるつもり」らしい。だけど、その遊びの見境が無くなってしまった。15歳の男の子の暴走を止めるのは、私とメグの力じゃどうにもできなかった。
空き瓶の望遠鏡をのぞいていたノナは、自分の台詞に返事を返さなかった私を、空き瓶で殴った。力いっぱい殴ったらしく、空き瓶は割れて、私は切れた額から血が出てきた。
ノナは、空き瓶の望遠鏡が壊れてしまったことを嘆いて、私に「責任を取って樽に入れ」と言い出した。頭の痛みでうずくまった私を、埃だらけの布でぐるぐる巻きにした。
ゴンッと言う音が響いた。痛む頭を上げると、メグが、重い鍋でノナの頭を殴っている。ゴンッって言う音が何度も響いて、辺りに血飛沫が飛んだ。
ノナはぐったりして床に倒れ、頭から血を流してた。その片手から、恐らく「樽」の中の私を刺そうとして持っていたガラスの破片が落ちる。
メグは息を切らせてこう言った。「焼こう」
私は意味が分からなくて、「何を?」と聞いた。メグは言う。「焼いて食べよう。狂ってしまった奴でも、肉くらいにはなる」
私はそれを聞いて、恐ろしさでいっぱいになった。メグも、気がどうにかしてしまったのだろうか。私は震えるように首を振り、「嫌だ」とだけ言った。
「リア。もう、何日食べてない?」と、メグは絶望的な質問を投げてくる。私は、最後に草の葉と木の実を食べた日を思い出した。あれから、5日間。水以外何も口にしていない。
メグと私は、気を失っているノナを引きずって、地下に行った。
神様が岩に変化している、まだ熱を持っている場所に、勢いをつけてノナの体を放り込もうとした。
体が揺れた時に意識を取り戻したノナは、メグの腕をつかんだ。
それに気づかなかった私は、慣性のままのノナの体を放った。メグの体がガクッと姿勢を崩して、二人は、神様の作った焼けた石の上を転がった。
悲鳴を聞いたかどうかは覚えていない。
二人は大火傷を負って、そのまま意識を失った。じわじわと焼けていく肉のにおいを嗅いで、私のお腹が鳴った。
私は、「それ」を、美味しそうだと思った。
もう必要の無くなったカーテンの中に、二人の骨を纏めて包み、それを抱きしめて、頭がぐらぐらするくらいの熱と煙が充満している場所まで行った。
そこは、赤く光る溶岩が、今も流れている場所だった。
私は、背の方から、炎の女神様の中に身を投じた。やわらかい、灼熱の中に、ゆっくり吞まれて行く。服に火がついて、赤い気体に体が包まれた。不思議と、苦痛は無かった。
火を崇拝する者は、滅びるのだ。一面に焼け爛れて、消えてしまうのだ。
「三人、一緒だね」
私は微笑み、目を閉じた。喜望峰を越える船の中で、赤い日差しが輝いていた。




