捨てられた子
アステール国は縦に長い大陸の中央に位置する。絹産業で栄えて別名は布の国。南北の人が行き交う交易の国であり、城下町のバルドは旅商人でにぎわっている。
民主主義が第一の王政であり、世継ぎ制だが法は投票で国民の意志を尊重して定められた。
春の月、アステール国に一大事が起きた。
お妃様が里の国に帰られた。
結婚生活に嫌気がさして里から帰りたくないとおっしゃり、夫婦生活は破綻した。
王が正式に妃との離婚を発表し国は大騒ぎとなった。
強引にでも王は妃を連れ戻すべききだった、夫婦仲が悪化したのは妻か夫どちらの責任か、妃に逃げられる王など恥であると言う者あれば、わがままな妃などこの国にいらぬと言う者もあり。
酒場では王室の離婚問題が男と女の問題話となり、やんややんやと口論になって殴り合うのが流行った。
皇室のゴシップは美味くて酒が進んだのか、毎夜どこの酒場にもひっきりなしに樽が運ばれた。
アステール国は商人気質のおしゃべり好き。
サーカス団の団員たちも例に漏れず、稽古の合間にこの話題で持ちきりとなった。
ライモは騒がしい団員たちと距離を置き、本を読んでいた。団長の息子ピーターに読み書きを教えてもらってから、ライモは本の虜になった。
お母さんがいなくなった姫様が、かわいそうだ。たとえ悪い母親だったとしても。
ライモは両親に虐待されて育った。小さな体で一生懸命、道ばたで魔法の大道芸を見せて小銭を稼いだ。両親にその金はむしりとられた。父親は酒に溺れ妻と子を殴り、母親は稼ぎが少ないとライモの頬を叩いた。
ある日、母親が帰ってこなくなった。ライモは酔った父親に殴る蹴るされ、このままでは死ぬと感じて家を出た。大道芸で稼ぎ路地裏で寝た。
今にも倒れそうな体で玉乗りの芸をしているところを、ニコルス団長が見つけてくれて、サーカスにおいでと声をかけてくれた。
ごはんを食べて、ベッドで眠れた日は嬉しくて涙があふれた。
「ねぇ、ピーター。どうして誰もお母さんがいなくなった姫様を心配しないの?」
そう尋ねると、ピーターは寂しそうな顔をした。
「そうだね。姫様はきっと悲しいね」
「うん、そうだよ。誰かが慰めてあげないと」
「そうだね」
ピーターは寂しそうにしているライモの肩をそっと抱き寄せた。
※
官僚がサーカス団に来た。
「初めまして、ライモ殿。わたくし、官僚のシモンズと申します。ライモ殿、私はあなたのファンです。いやぁ素晴らしい曲芸だった。そこでですね、あなたを宮廷道化師に推薦したところ、王も大臣も賛成してくれましてね。宮廷道化師の試験をライモ殿に受けていただくお願いをしに参りました」
朗々と喋り続けたシモンズに、団長もライモも呆気にとられた。細身で眼鏡をかけた知的な男は、とにかくよく喋った。
「この子が宮廷道化師に?」
「はい。ぜひに。ライモ殿は才能があります。若すぎるという意見もありましたが、姫様の遊び相手をしてくださるにもちょうど良いですし、かわいらしい顔をしてらっしゃるのも良いです。何より魔法の曲芸を披露できるのはこの国でライモ殿しか私は見たことがありません。王も姫もライモ殿の曲芸をしかとこの目で見たいとおっしゃっています」
「なるほど……ですが」
団長は困っている。
ライモは少し考えた。
「姫様は、僕の曲芸を頼んでくれますか?」
「それはもう。お喜びになることでしょう」
シモンズがにっこり笑う。
「わかりました、僕、試験を受けます」
ライモはお母さんがいなくなった姫様を喜ばせたい、その純粋な一心で頷いた。
「そうか、ライモが受けたいというなら、そうしよう。お願いします」
団長が頭を下げる。ライモも深々とお辞儀をした。
「いえいえ。では来週の土曜日、十二時においでください。楽しみにしています」
シモンズが去った。
「そうか、おまえは才能があるからな。大きくなったな、ライモ」
団長がライモを抱きしめて言った。
※
宮廷道化師の試験曲芸を終えて、失神したライモは見知らぬ部屋で目覚めた。二段ベッドがあるだけの質素な部屋だ。
薄いベニヤ板のドアの隙間から、いい匂いがする。ライモは起きあがってドアを少し開けた。
そこは厨房で若い女と中年の女が、椅子に座ってじゃがいもを剥いている。
「しかしすごかったねぇ、あの坊や」
中年の女が陽気に言った。
「謁見室に入るのは緊張したけど、ほんとにすごかった。ライオンなんて初めて見たわ」
若い女も同調する。
「それに姫さまがあんなにはしゃいで……最近はお好きなシフォンケーキも召し上がらなかったのに。よかったよ、ほんと」
中年の女がため息をつく。
「そうね……だってあんな酷いことを母親から言われて、お別れしたんだもの」
若い女が悲しそうに俯く。
「なんだい、その酷いことって?」
「あら、知らないの? 女なんて産むんじゃなかった跡取りの男の子を産んでいれば私はもっと尊敬されていたのに。そう姫様に面と向かって言ったそうよ」
「なんて酷い! あの方が尊敬されなかったのは、あの我が儘な性格と浪費癖なのに」
ひどいひどい、と念仏のように中年の女がぼやく。
ライモも母親に言われた。
産むんじゃなかった。
あの言葉は目の前が真っ暗になる、思い出すと心が真っ黒になる、命の根っこが抜かれた気がする。気が遠くなったライモはドアに体重を傾けてしまい、ぎぃ、と音が鳴った。
「あら、起きてきたのね。疲れたでしょう、コーンスープをお食べなさい」
若い女がライモに気づき、椅子に座らせて湯気がたったコーンスープを用意してくれた。
「ありがとうございます」
「あなたも私たちと同じ、お城の住人ね。よろしくね」
「ええ、そうね。よろしく」
二人の女に笑顔を向けられて、ライモははにかんでぺこりと頭を下げた。
コーンスープはライモの腹に染み渡って力をくれた。
姫様を笑顔にしよう。
身分は遠く違えど、同じ痛みを持った姫様を。
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