宮廷道化師
少年の前に扉がある。黄金の巨大な扉だ。この向こうに王様がいる。
少年の細い肩は震える。道化師のてらてらとした黄色い衣装が恥ずかしくなってきた。
「いいか、ライモ」
サーカスの団長が、かがんで少年の顔をのぞきこむ。ベストのボタンに突き出た腹を圧迫されて苦しそうな表情から、神妙な顔に切り替えた。
「チャンスは一度しか巡ってこない。臆病な心に負けるな、自分を信じるんだ。今までの練習の日々を思い出せ。努力した者にチャンスは忠実だ。行け、ライモ」
少年の丸く赤く塗った鼻をつつき、団長は目尻にしわを寄せて笑った。
少年の名はライモ・フリッグ、水色の瞳に黒髪のやせっぽっちの十二才だ。
団長の名はニコルス。熊のような体型で、もじゃもじゃ頭の赤ら顔だ。死にかけていたライモはサーカスに拾われて、魔法を使う道化師になった。
その才能が王家の目に留まった。
今日は王宮道化師の試験日だ。
「さぁ、行くんだ。ライモ」
ライモはニコルス団長に背中を押され、扉に両手をくっつけた。腰か力を入れて扉を押す。
きらびやかさに目眩がした。
浮ついた足で謁見室の中央まで歩く。柔らかな赤い絨毯を踏みしめて、深々とお辞儀する。王は目の前にいらっしゃるはずだ、おそらく。畏れ多くて王を目で確認することはできなかった。
高い天井から降り注ぐシャンデリアのきらめき。絹のカーテンが誘い入れる清らかな風、足下からは大理石がすべての光を吸収して発光している。
「よく来てくれた。名はライモといったか?」
低く落ち着いた声が問う。ライモは、はっと息を飲む。きっと王様が話しかけられたのだ。
「はいっ! お目通り感謝いたします! わたくしライモ・フリッグと申します!」
うわずった声でライモは答えた。
「君は試験を受けた道化師の中で最年少だ。がんばってくれ」
優しい声だった。王様が自分のような者に暖かい声をかけてくださっている。
「さて、はじめてくれ」
ライモは顔を上げた。
目の前の一段高い王座に座ってらっしゃる王様は、優しく微笑んでいる。胸を張って王座に腰を据えているエドワード王は栗色の眉と髭が豊かで鷲鼻は隆々と高く、王位の威厳がある。
頬に視線を感じてふと見ると、王座の横に細い背もたれのついた豪奢な椅子に、姫が座っていた。栗色の豊かな髪で、緑色の瞳はライモを注視している。父親似のしっかりとした眉をつり上げて、むつかしい顔をした女の子。それがヘレナ姫の第一印象だった。
「かしこまりました!」
ライモは再び、深々とお辞儀をした。
努力は忠実だ、裏切らない。
団長の言葉を思い出す。
ライモは下げた頭を床につき、くるんと転がっておどけた声で笑い立ち上がる。手の中から生み出した黄色いボールを天井に向かって投げる。
鮮やか黄色いボールを、謁見室に集まった大臣や貴族たちが一斉に見上げる。
安っぽい黄色のボールはシャンデリアをしゃらりと鳴らし、落ちてくる。
ライモは体をひねり落ちてきたボールをつま先で受け止めて、また天井に向かって蹴る。
落ちてきたボールはライモの体より大きくなっていて、床で跳ねた。
宙返りしてボールに乗り、手を広げてアピールすると拍手が起きた。
王のすぐ近くに座っている巨体の大臣が、大きく手を叩く。王もゆっくりと手を叩いてくださっている。ヘレナ姫は身を乗り出して目を輝かせている。
ライモは笑顔をふりまき、ボールの上で礼をする。
準備体操は終わりだ。
ボールの上で飛び上がり、シャンデリアの下で体を三回転させた。ライモは見事な天井画を間近で見た。国章である白い鷹が剛勇と羽ばたいているのに見とれた。
ボールに片足で着地し、左の足首を右手でつかみポーズを決める。
それからまた高く飛んで空中で四回転し、また片足で着地する、と思いきやわざとライモは足をすべらせた。
ボールから落ちて、いてて、と尻をさすり地団駄を踏んでボールを殴り、蹴飛ばした。
ボールがばちんと大きな音をたてて割れる。
中からライオンが現れた。
ライモは飛び上がって驚き、逃げる。ライオンが追ってくる。手足をばたばたさせて甲高い叫び声をあげ、ひょうきんにライモが逃げまわると笑いがおきた。
ライオンに驚いた侍女が小さな悲鳴を上げると、隣にいた若い騎士があれは魔法だから大丈夫だよ、となだめる。
そう、これはすべてライモの魔法だ。
ライモは派手にころんで、とうとうライオンに追いつかれてしまった。太い前足で踏みつけられ、ライオンにぱくりと喰われてしまった。
道化師の突然の消滅に謁見室がざわつく。
姫は立ち上がって、目を見張った。
ライオンは満足気に前足をなめて、尻尾を揺らし後ろ足をのばして床に腹をつけた。
小さな黄色いボールが天井から降ってきて、ライオンの背中に落ちると、ライモの姿となった。
歓声が上がる。
ライモはライオンの背中に立って手をふり、身をよじるライオンに鎖つきの首輪をつけた。たてがみをつかんで頭に片足をのせて、服従させる。
鎖を引くとライオンは吼えて立ち上がる。ライモはライオンにまたがって、謁見室を一周した。
ライオンが大口を開けてうなると、そこから花びらが発射された。バラにゆり、ひまわり、ライラック。あらゆる花が咲き誇る。
石造りの柱に蔦が絡んでバラが咲き、大理石の床にはシロツメクサの絨毯、シャンデリアからは藤の花が垂れ下がる。可憐なピンク色のバラを姫の小さな王座に咲かせて、ライモは微笑んだ。
姫はバラが咲いたことに驚き、じっと見つめてからぱっと摘み取って小さな鼻を花弁をうずめる。
「この人がいいわ!」
ヘレナ姫が叫んで、ライモの元へ走ってきた。ライモは慌てて膝をつく。
「お父様、この人こそ本当の道化師よ! 魔法ってなんて素敵なのかしら。ねぇ、もっと見たいわ。あなたどうしてこんなことができるの。ねぇ、わたくしもライオンに乗れる?」
ヘレナ姫の瞳はきらきらと輝いている。かわいい姫にライモは思わず顔をほころばせる。
「はい。ヘレナ姫もライオンさんに乗れますよ。でもちょっとだけ、怖いかもしれません」
「よくってよ! わたくしこう見えても、度胸だけはあるもの」
ヘレナ姫が腰に手をあて、いばった。
「お父様! 宮廷道化師はこの方に任命しましょう!」
ヘレナ姫かじっと父王を見る。聞くでもない当然のことよね、という顔で。
「わかった。姫がそこまで言うなら仕方あるまい。宮廷道化師はライモ・フリッグ。そなたを任命する」
王が笑って言った。
ライモはしばし信じられず、目を丸くする。王の近くにいた巨漢の大臣が近づいてくると、いきなり抱き上げられた。
「皆の者! このライモが本日より宮廷道化師に任命された! よろしくね!」
やったわ、とヘレナ姫がはしゃいでくるくる回る。ライモの目もくるくる回る。ふーと息を吐くと緊張の糸が切れた。
拍手と歓声を受けて、ライモは大臣の腕の中で気絶した。
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