世界は愛に満ちている
「あいつだ、あれが成り上がりのロウィーナ男爵だ」
ヘルムート・マクシリティが王宮の回廊を渡っていると、中庭のほうから声が聞こえた。
王宮の中庭には、まだ早春ではあるが種々の花々が咲き乱れ、ここだけまるで春の盛りのようだ。王国屈指の美しさを誇るこの中庭には、そぞろ歩きを楽しむ貴族の姿が多く目につく。
ヘルムートは声のした方向に視線を向けた。名も知らぬ貴族が数人、こちらと目が合うと慌てたように顔を背けた。
ヘルムートは切れ長の琥珀色の瞳を細めた。ふん、と鼻を鳴らすと、肩を越すほどの艶やかな黒髪を苛立たしげにかき揚げ、視線を戻す。
――先日の叙爵式のせいか。
ヘルムートは執務室に向かいながら考えた。
先日、ヘルムートはサムエリ公爵の働きかけにより、正式に男爵に叙せられた。元々、金で購入した男爵位を所有してはいたが、正式に世襲貴族として叙爵されたのだ。その影響について、宮廷の各派閥が神経を尖らせているのだろう。
めんどくさい、とヘルムートは思った。
ヘルムートにとって男爵に叙せらたことは、単に肩書が一つ増えたというだけのことだった。
マクシリティ侯爵家の息子、宮廷魔術師団長。そこにもう一つ、ロウィーナ男爵という身分が加わる。それだけの話だ。
元々、身分になど何のこだわりもない。平民でも貴族でもどちらでもよいと、本気でそう思っている。
というか、なぜ宮廷の人間は肩書一つでこんなにも騒ぐのか。
肩書が増えれば、魔力が増加するというならわからぬでもないが……、と考えている内に、気づけば周囲は見慣れぬ光景に変わっていた。
「………………」
ヘルムートは舌打ちした。
魔術師の塔と違い、迷路のように入り組んだ王宮はいまだに慣れない。今日のように考えに沈みながら足を進めると、迷ってしまうこともしばしばだ。
目的地へと先導してくれる魔道具を、ヘルムートが懐から出そうとした時、
「これはこれは! ヘルムート様、お久しぶりでございます!」
背後からかけられた声に、ヘルムートは反射的に顔をしかめそうになったが、なんとか堪えた。
「……メジェリ伯」
振り返ると、満面の笑みでこちらを見つめる白髪交じりの男性が立っていた。メジェリ伯爵家の現当主、ロイド・メジェリだ。
メジェリ家は、数代前に伯爵に叙された言わば成り上がりだが、レーマン侯爵家が宮廷を牛耳っていた頃は冷遇されていたらしい。そのせいでレーマン侯爵家に恨みを抱いているようだが、メジェリ伯爵家が没落したのは領地経営の失敗と、慣れぬ商売に手を出して被害を拡大させたからだ。……という情報が、ヘルムートの頭の中を駆け巡る。
これらの情報は、ヘルムートの婚約者であるライラ・ベルチェリからもたらされたものだ。
ベルチェリ商会当主の補佐役として辣腕をふるうライラは、王国内の貴族の内情を熟知している。
ベルチェリ商会の縁者であること、また現在、宮廷を席捲しつつあるサムエリ公爵の派閥に属していることから、いろいろと煩わしいことに巻き込まれるかもしれない、とライラが配慮してくれたのだが、さっそくその懸念が当たってしまった形だ。
メジェリ伯爵は、ここ最近、何かにつけて自分に接触しようと試みているようだ。
魔術師の塔では、伝手も何も効かずにほとんどの貴族が門前払いされてしまうため、こうして王宮に足を運ぶと、待っていましたとばかりに声をかけてくる。
それ自体は別にかまわない。
自分に便宜をはかってくれ、という陳情は、メジェリ伯爵だけでなく全国津々浦々、顔を見たこともない人間から山ほど届くようになった。サムエリ公爵の後ろ盾となり、政治に関わった時点でそうなることは覚悟していた。それはいいのだ。
だが、
「ヘルムート様、よろしければ明晩、我が屋敷で夜会を催しますので、ぜひご出席いただけませんか? わたしの娘も、名高い宮廷魔術師団長様にお会いするのを、それはもう楽しみにしておりまして」
「………………」
ヘルムートは無言でメジェリ伯爵を見返した。
貴族というのは……、いや、十把一からげにするのは良くない。良くないことだがしかし、貴族には何故こうも倫理観が欠如した人間が多いのだろう、とヘルムートは残念に思った。
百歩譲って、陳情のために自分にすり寄ろうとする行動は理解できる。
理解できぬのは、すでに結婚の決まっているヘルムート相手に、家門の利益のため側室として娘を差し出すべく、堂々と話を持ちかけてくるその倫理観のなさだ。
「……メジェリ伯、申し訳ないが明晩は仕事で」
「ああ、どうぞそのような事はおっしゃらずに! どうしてもご来席いただけぬとおっしゃるなら、こちらから娘を遣わしますので、ご都合のよろしい日を教えていただければ」
都合のよろしい日などない! とあやうく怒鳴りかけ、ヘルムートはぎゅっと唇を引き結んだ。
それをどう取ったのか、メジェリ伯爵はなおも続けて言った。
「ヘルムート様ほどのお方が男爵など、もったいない話です。……我がメジェリ家では、ヘルムート様を当主としてお迎えするつもりで、準備いたしておりますのに」
勝手に準備するな!
と怒鳴るのをこらえ、ヘルムートは低く言った。
「……私はロウィーナ男爵として、ライラ・ベルチェリと婚姻を結ぶつもりだ」
だから側室など勧められるのはお門違いだ、と告げたつもりだったのだが、
「おお、そのお話ですか」
メジェリ伯爵は心得顔で頷いた。
「大丈夫でございますよ、ベルチェリ家はそれほど由緒あるお家柄というわけではありませんからね。たしかに財力はおありでしょうが、そもそもライラ嬢は跡取りというわけでもなし、ヘルムート様が一言おっしゃれば、ベルチェリ家との縁談など簡単に潰してしまえますとも」
宮廷では、怒ってはいけない、大声を上げてはいけない、ケンカをしてはいけない。……宮廷でやってはいけない三か条を呪文のように心の内で唱えながら、ヘルムートは深呼吸した。
「メジェリ伯」
ヘルムートはロイド・メジェリに向き直った。メジェリ伯爵は揉み手をせんばかりの態度で、にこやかにヘルムートを見つめている。それへ、ヘルムートは語気を強めて言った。
「メジェリ伯、はっきり言っておく。……私は、心からライラ・ベルチェリ嬢を愛している。彼女以外の女性を娶りたいとは思わん」
メジェリ伯爵がぽかんと口を開けた。
「そもそも、ライラが私の求婚を受けてくれたことからして、奇跡のようなものなのだ。なぜ自らその奇跡を、ドブに捨てねばならんのだ?」
道理に合わぬであろう、と大真面目に言うヘルムートを、メジェリ伯爵は顔を引き攣らせて見返した。
「それにこう言ってはなんだが、メジェリ伯のご息女がいかに素晴らしいご令嬢であっても、ライラより美しく聡明で可愛らしいとは思えん」
ライラは、優しくて可愛くて明るくて、よく気がついて誰とでもすぐ仲良くなれて、とにかくすんごく可愛いんだ、とヘルムートは力説した。
「それにだな、知っているか、メジェリ伯? ライラがにこっと笑うと、その場がパッと明るくなるんだ。光魔法でも使っているのかと思ったが、どうも違うらしいと最近、判明した。ライラは光魔法の使い手でもないのに、そこに立っているだけでキラキラ輝いている。まさに存在そのものが魔法なんだ。声がまた、美しくてな。聞いているとなんだか胸がドキドキして、走り出したくなってしまう。大声で好き好きと叫びたくなる。……なんという不思議だろう。彼女と出会ってから、魔法以外でこのような不思議があるのかと、初めて知った。それにライラはな……」
「も、もう結構です、ご勘弁ください!」
怒涛のように繰り出されるヘルムートのライラ賛美に、メジェリ伯爵は悲鳴のような声を上げた。
「よ、よくわかりました、わたしが愚かでした。どうぞもう、お許しください!」
「……そうか?」
まだまだ語り足りなかったが、宮廷では一方的に話し続けてはいけないとマナーの教師から習っている。名残惜しいがしかたない、とヘルムートは口をつぐんだ。
メジェリ伯爵がほうほうの体で逃げ出すのを、なんとなく不完全燃焼な気持ちを抱えながらヘルムートは見送った。
……もっとライラについて語りたかったのに残念だ。この想い、誰かに聞いてほしい……。
そう考えて周囲を見回したが、目があった貴族はみな、さっと顔を背けると走って逃げていってしまった。
しかたない、とヘルムートはため息をつくと、目的地へと先導してくれる魔道具を取り出し、当初の予定より少し遅れて王宮の執務室に向かったのだった。
「……それでサムエリ公、ライラの瞳なのだが、これがほんとに美しくてな。ライラがにこっとすると、瞳がキラッとして、木漏れ日を受けて輝くみずみずしい緑のようなんだ。あんな瞳を持つ人間は、この世に二人とはいない。じっと見つめられると呼吸困難に陥るし、意識がぼうっとしてくるし」
「……そうなのですか……」
運悪くヘルムートの執務室に顔を出してしまったサムエリ公爵クラウスが、疲れた表情で相槌を打った。
「それでライラが」
「あの、ヘルムート卿」
これ以上は耐えられぬ、とばかりにクラウスがヘルムートの話をさえぎった。
「爵位継承に伴う財産分与の手続きについてなのですが」
「ああ、その件か」
ヘルムートは頷いた。
「先週、必要書類を各部署に提出したのだが、何か不備でもあっただろうか」
クラウスは次期宰相と目される国務尚書を担っている。その最大の後ろ盾である宮廷魔術師団長の資産分与に何か瑕疵があれば、それはサムエリ公爵が中心となる派閥の問題にもなりかねない。
そうした事情から、書類作成には細心の注意を払ったつもりだが、やはり初めてのことで何か間違いがあったのかもしれない。そう思ったのだが、
「いえ、書類に問題はありませんでした。ただ、その……、財産のほとんどをライラ殿へ移譲されることになっているのですが、それで間違いないのか、確認をしておこうと」
「ああ、間違いない」
ヘルムートは頷いた。だが、クラウスはなおも言葉を重ねた。
「あの、しかしそれでは、ヘルムート卿が所有するほぼすべての特許権利まで、ライラ殿へと移譲されてしまうのですが……」
「ああ、そのように手配した」
ヘルムートの返答に、クラウスは沈黙した。
「……何か問題があっただろうか?」
少し不安になってヘルムートが聞くと、
「いえ、問題というか……、ただ、何故そのようなことをなさるのかと、不思議に思っただけです。ライラ殿は別に、金銭的な問題を抱えているわけでもないようですから」
ヘルムートの婚約者、ライラ・ベルチェリは国内随一の規模を誇るベルチェリ商会の当主の補佐を務めている。特に散財家というわけでもないライラが、金銭的な問題を抱えているわけもない。
そのライラに、己の財産のほとんど全てを譲る理由は何なのか、不思議に思われているのだと、ヘルムートは初めて気づいた。
「ん、んん……、そ、それは、あの」
ヘルムートはもじもじと指をからませ、言った。
「あの、プ、プロポーズの時に、その、……なんでもする、財産も魔道具特許権利もすべて譲るから、頼むから結婚してくれと、ライラに土下座して頼んだ。だから……」
その時のことを思い出し、ヘルムートは恥ずかしくなって執務机に突っ伏した。
あの時、ライラ相手によくぞプロポーズしたものだ、とヘルムートは心の内でつぶやいた。
我ながら、なんという勇気だろう。いま思い出しても信じられない。自分で自分を褒めてやりたい。
もう一度やれと言われても、絶対無理だ。恥ずかしくて死ぬ!
ヘルムートは「ぴゃああ!」と思い出し奇声を上げ、身をよじった。クラウスはドン引きしているが、ヘルムートは気づかなかった。思考はすでに、数か月前の甘酸っぱい思い出に飛んでいる。
あの時のライラは、ほんっとーに美しくて色っぽくて、もうもう、何かが爆発してしまいそうだった。
あの夜はライラと一緒にダンスをして、夜の庭園を散歩して……、キェエエエエ‼ なんだその行動内容は‼ いま思い出しても信じられない! まるで浮かれた宮廷貴族のような振る舞いではないか! 行動だけなら、いつも羨ま死していたリア充騎士のリア充ライフ自慢話そのものではないか! この私が! 信じられない! しかもっ、しかもその後っ、プロポーズするとか! ああぁああああ‼
ガンガンと執務机に頭を打ちつけ始めたヘルムートに、クラウスは怯えたように後ずさった。
「あ、あの……、事情はわかりました、もういいです、結構です、申し訳ありませんでした」
なぜか謝罪するクラウスに、ヘルムートははっと我に返った。
「あ、うん……。そういう訳で、財産はすべてライラに譲るつもりだ。書類に問題がなければそのように手続きを進めたい」
「そうなのですね失礼します」
いつも優雅な所作でおっとりしているクラウスが、光の速さで執務室から逃げ出すのを、ヘルムートはぼんやりと見送った。
心はまたもやライラとの思い出に飛び、なんだか夢を見ているような心地だった。
ライラとの結婚が決まってから、毎日が幸せで、あっという間に時間が過ぎてゆく。仕事をしている時は別だが、ライラのことを考え始めると、一瞬で朝が夜になる。
まるで魔法にかけられたようだ、とヘルムートは胸を押さえ、熱い吐息をもらした。
その日の夜、ヘルムートが執務室を出ると、ちょうどこちらに向かって廊下を歩いてくるライラに気がついた。
「ヘルムート様」
にこっと笑いかけられ、ヘルムートは飛び上がった。
「ライラ! ライラ、会えて嬉しい!」
駆け寄ってぐるぐる自分の周りを回るヘルムートに、ライラはくすっと笑った。
「先ほど、用事があって王宮に上がったんです。そうしたら、ヘルムート様がまだ仕事でこちらに残っていらっしゃるとうかがったので、もしかしたらお会いできるかと思ってお邪魔しました」
「そうか!」
嬉しくてたまらず、ヘルムートはぴょんぴょんと飛び跳ねた。
「もう遅いから、送っていく! 今日はどっちに帰る?」
ライラは春になれば魔術師の塔を辞すことが決まっているため、魔術師の塔から少しずつ荷物を引き上げ始め、今ではほとんどベルチェリ家で起居している。だが、
「今夜はもう遅いですし、魔術師の塔に泊まってゆきますわ。……ヘルムート様、一緒に帰りましょう」
ライラはそう告げると、そっとヘルムートと手を繋いだ。
ぴっと小さな声を上げたが、ヘルムートは何度か深呼吸をくり返してから、ライラの手を握り返した。
最近では自分でも信じられないことに、ライラと手をつないでも、叫んだり倒れたりしないようになってきた。
私も成長したものだ……、としみじみしながら、ヘルムートは朝も通った王宮の回廊をライラと一緒に歩いた。
中庭に下りると、どこからともなく花の香がした。
月明かりに照らされ、早春の花々が淡い光を放っているように見える。
その美しさに、ヘルムートは心を揺さぶられた。
なんという美しさだろう。なんと芳しい香りだろう。
月明かりに照らされた中庭など、残業帰りに何度も通ったのに、どうしてこんなに心が動くのか。
簡単な話だ。
隣にライラがいるから。
彼女とともに歩くと、世界は色づき光り輝く。退屈な世界が、かけがえのない宝物へと姿を変えるのだ。
ヘルムートは、朝からの出来事を考えた。
ライラと結婚することで、正式にロウィーナ男爵として叙せられ、財産はほぼすべてライラのものとなる。だが、そんなことは些事に過ぎない。
爵位などどうでもよい。財産などすべて失ってもかまわぬ。
ただ、ライラがいてくれれば、それでいい。
「……ライラ」
つないだ手にぎゅっと力を込め、ヘルムートは言った。
「ライラ、愛している……」
ライラはヘルムートに寄り添い、ヘルムートを見上げた。
その瞳は、月の光を受けて緑柱石のようにきらめいていた。
「わたしもです。お慕いしておりますわ、ヘルムート様」
ささやくようなその声に、ヘルムートはなんだか泣きたくなった。
ああ、この世界のなんと美しいことか。
光にあふれ、輝きにあふれ。
そして何より、この世界は愛に満ちている。
ヘルムートはそっとライラを抱き寄せると、やわらかなその唇に己の唇を重ねたのだった。




