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35.サムエリ公爵家の舞踏会

「ライラ嬢、どうぞ一曲、お相手を」

「……ええ」

 差し出されたアルトゥールの手に、わたしは機械的に手を重ねた。


「今夜の君は輝くようだ。美しいけれど、どこか儚く消えてしまいそうで、いつもとはまるで違う」

 アルトゥールは如才なく褒め言葉を口にしながら、ぐいっとわたしを引き寄せた。

「……ありがとうございます」

 アルトゥールと踊りながら、どうしても視線はヘルムート様とヴィオラ様を追ってしまう。


 どうして、という気持ちと、何か理由があるはずだ、という頭の声がせめぎ合い、胸が騒いだ。


 たとえ言い交わした仲であっても、違う相手とダンスを踊ることくらいある。

 でも、ヘルムート様は今回、最初からヴィオラ様をエスコートされていた。わたしなら単なる遊びという可能性があるが、ヴィオラ様相手にそれはない。軽々しい理由でのエスコートなど、そもそもサムエリ公爵家が許さないだろう。


 そう考える一方で、わたしは、違う、そんなはずはない、と思いたがっていた。

だってヘルムート様は、わたしに求婚してくれた。好きだ、と言ってくれた。待っていてくれ、とも。

 それなのに、この数日でいきなり心変わりをされるなんて、そんなことはあり得ない。貴族ではよくある話だけど、ヘルムート様はそんなお方ではない。


 でも、とわたしは思った。

 もし、わたしに求婚したその気持ち自体が、勘違いだったとしたら?

 ヘルムート様は呆れるほど他人の心の機微に疎いけど、それは自分自身の心にもあてはまるのではないだろうか。ずっと婚活していながら、結局は「結婚したいわけではなかった」なんて言い出すくらいだし。

 婚約者を探す間、ずっと一緒にいたから、わたしに対する信頼や親しみを、もしかしたら恋と思い違いされたのかもしれない。


 愛人仕様のドレス姿のわたしを見た時、ヘルムート様は恐らく、男性なら誰でも抱く欲望を覚えたのだろう。それは単なる一時の欲望で、恋愛感情ではなかったのに、そうした経験に乏しいヘルムート様は、自分自身の心を誤解してしまったのではないだろうか。


 わたしは、ヘルムート様と踊るヴィオラ様を見た。

 ヴィオラ様は、完璧な淑女だ。わたしとは何から何まで違う。

 わたしは伯爵令嬢とは名ばかりの、商人の娘だ。叩き込まれた知識、礼儀作法は、商売のためのものでしかない。学院でも経営にかかわる学科以外は、魔術、それも実務専門の知識を中心に選択した。

 ヴィオラ様のように、高貴な身分にふさわしい人格を形成するため、綿密に計算されたうえで与えられた教育ではない。わたしとヴィオラ様は、立ち位置からして違っているのだ。


 それを恥じたことはないが、ただ、自分がどういう人間なのかは承知している。

 わたしはヴィオラ様のようにはなれない。生まれた時から人にかしずかれ、大事に守り育てられたヴィオラ様のようには、決して。


 清楚で高貴なヴィオラ様と言葉を交わし、ヘルムート様が自分でも知らない内に恋心を抱いたのだとしたら?

 もしそうなら、わたしはどうすればいいんだろう。

 いや、考えるまでもない話だ。ヴィオラ様とわたしなんて、比べるのもおこがましい。

 血筋、容貌、財力に優れ、そして何よりヴィオラ様は、お優しい心をお持ちでいらっしゃる。一点の非の打ちどころもない、ヘルムート様にふさわしいご令嬢だ。


「おっと」

「まあ、ごめんなさい。アルトゥール様」

 上の空で踊っていたせいか、わたしはアルトゥールの足を踏んでしまった。


「どうしたの? 君らしくないね」

「ちょっと疲れてしまったようですわ。休んでもよろしくて?」

「もちろん」

 アルトゥールはダンスをやめ、壁際へとわたしをエスコートした。

 その時、視界の端をヘルムート様とヴィオラ様が横切った。


 ヘルムート様は――、微笑んでいた。

 それは嬉しそうな、花がほころぶような笑顔でヴィオラ様を見つめていた。


「ライラ?」

 いぶかしそうなアルトゥールの声が、どこか遠くに聞こえた。

「どうしたんだい? 顔色が真っ青だ」

「……大丈夫ですわ。ただちょっと……、ちょっと人に酔っただけ」

 わたしは広間に背を向け、急ぎ足でバルコニーに向かった。

 頭の中がぐちゃぐちゃで、感情が整理できない。

 どこか、誰もいない場所へ逃げたかった。


「ライラ、本当に大丈夫かい?」

「ええ。……ちょっと外の空気が吸いたかっただけですわ」

 わたしはバルコニーの手すりを掴み、大きく息を吐いた。


 ヘルムート様。

 あんなに嬉しそうな、幸せそうな笑顔を初めて見た。

 ずっとヘルムート様を見ていたからわかる。あれは作り物ではない、心からの笑顔だ。

 じゃあ、やっぱりヘルムート様は。

 いや違う、そんなはずはない。

 どうしよう。どうしよう……。


「ライラ、いい機会だから言わせてくれ」

「……ええ、どうぞ」

 ぼんやりアルトゥールを見ると、彼はわたしの手をとり、ひざまずいた。


「ライラ・ベルチェリ嬢。僕の妻になってほしい」

「……妻」

 わたしは、アルトゥールの言葉をおうむ返しに呟いた。


 妻……。そうだ、わたしも結婚しなければならない。

 もうすぐリオンが学院を卒業する。そろそろ、わたしの商会での立場をはっきりさせ、リオンをベルチェリ家の後継者として内外に知らしめなければ。


「そうだよ。僕の妻として、僕を支えてほしい。……僕も君のために力を貸すことを約束するよ。君は否定したけど、君ならきっと、ベルチェリ商会をもっと大きく発展させることができる」

 アルトゥールはわたしの手を握り、言いつのった。


「君は生粋の商売人だ。僕と君なら、きっとうまくやっていける。ね、そう思うだろう? うんと言ってくれ、ライラ」

 人懐っこい笑みに懇願の色をのせて、アルトゥールがわたしを見た。

 わたしはアルトゥールを見つめ、考えた。

 アルトゥールの申し出は、ベルチェリ家にとっても喜ばしいものだ。野心的にすぎるのが問題だが、わたしが間近で見張っていれば、どうとでもできる。

 なにより、アルトゥールの手を取れば、この苦しみから解放されるのではないか。

 この、胸をずたずたに切り裂かれるような痛みから。


 ためらったその一瞬、わたしの頭に、ふとヘルムート様の顔が浮かんだ。

 結婚して、幸せな家庭を築くんだ、と言っていたヘルムート様。あの時と今と、ヘルムート様は少しも変わっていない。東方風の衣裳を着て、目をキラキラさせて喜んだり、せっかくの良縁を「私はそういうのは嫌いだ」とにべにもなく断ったり、ヘルムート様は自分の心に正直で、偽ることを知らない。


 対してわたしは、自分の心を他人に知られぬように、いつも他人を警戒し、用心してきた。「鉄壁」と幼なじみにすら評されるほど、本当の気持ちを押し隠して生きてきた。

 だからわたしは、ヘルムート様にこんなにも惹かれるのだろう。心のままに、素直に生きるヘルムート様を、愛さずにいられないのだ。


「……お気持ちは大変ありがたいのですが」

 言いかけて、『紳士の求愛作法』第五章百十二ページ目に載っている! と叫んだヘルムート様の声が耳によみがえり、わたしはこんな時だというのに、つい笑ってしまいそうになった。

「お断りいたしますわ、アルトゥール様」

「……理由を聞いても?」

 不満げなアルトゥールに、わたしは微笑みかけた。


「わたくし、お慕いする方がいらっしゃるのです」

「それは初耳だな。……もう婚約の約束は交わしたの?」

「いいえ。……わたくしの片思いなんですの」

 言いながら、自分でもおかしくてクスクス笑ってしまった。


 こんなふうに思う日が来るなんて、夢にも思わなかった。

 わたしはいずれ、商会に役立つ結婚をするだろうと思っていた。自分の結婚は、愛だの恋だのと遠く隔たった場所にある。そう信じていたし、それでいいと思っていた。

 でも、今この瞬間、それは無理だとわかった。


 たとえヘルムート様が、わたしではなくヴィオラ様を選んだとしても、関係ない。

 報われなくてもかまわないと、そう思ってしまうほど、わたしはヘルムート様を愛してしまった。


「それはそれは」

 アルトゥールは肩をすくめ、立ち上がった。

「あのライラ・ベルチェリにこんな顔をさせるとはね。なんとも羨ましい男だ。……どうぞ、お使いください、ライラ嬢」

 アルトゥールが胸ポケットからハンカチを取り出し、優雅にわたしに差し出した。それで初めて、わたしは自分が泣いていることに気がついた。


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