27.スローワルツ
「今夜はヴァルダ男爵家での舞踏会です。ソフィア・ヴァルダ様とは、この前の夜会でお話しされましたよね? ヨナス様の婚約者で……、ちょっとヘルムート様?」
馬車の中で、ぼうっと宙を見つめたまま反応のないヘルムート様に、わたしは顔をしかめた。
「ヘルムート様、どこか具合でも悪いんですか?」
「熱でもあるの、ヘルムート?」
リオンも心配そうにヘルムート様に声をかけた。
「うーん、熱はないみたいだけど……」
ヘルムート様の額に手を当て、リオンは首を傾げた。リオンに触れられても、ヘルムート様はぼうっとしたままだ。
「……なんでリオンだと平気なのかしら?」
わたしの言葉に、リオンはぱちぱちと瞬きした。
「何のこと? 平気って、なにが?」
相変わらずぼんやりしたヘルムート様を見ながら、わたしは先ほど執務室であったことを簡単にリオンに説明した。
「わたしが手や髪に触るたびに、奇声をあげて飛び上がるんだもの。おちおち身支度の手伝いもできなかったわ」
「うーん。姉さんがドレス着てるからじゃない?」
「この程度の露出で? これくらい、夜会でいくらでも見かけるでしょ」
ていうか、この程度で動揺されては困るのだが。
「ヘルムート様は清純派がお好みなのかしら? それならリオン、清楚な感じのお嬢さんをヘルムート様に紹介してもらえる?」
「僕はかまわないけど……」
リオンはヘルムート様をちらりと見て、肩をすくめた。
「この状態じゃ、紹介しても上手くいくかなあ」
「不吉なこと言わないでよリオン!」
ぼんやりしたままのヘルムート様やリオンの言葉に、若干の不安が頭をもたげたが、今さら引き返すわけにはいかない。
「さあ行きますよ、ヘルムート様! しっかりなさって!」
わたしは言いながら、自分自身をも鼓舞した。
もうあまり時間がないのだ。ここで立ち止まるわけにはいかない。
頑張らねば!
ヴァルダ男爵家の舞踏会は、盛況だった。
ランベール伯爵家と姻戚となった今、ヴァルダ男爵家の株は急上昇している。今のうちに関係を深めておこうという貴族が大勢いるのだろう。
「まあ、ライラ様!」
前回同様、ソフィア様とヨナス様が連れ立ってわたし達を出迎えてくれた。ソフィア様はにこにこして、
「久しぶりにあなたのドレス姿を目にしたような気がしますわ! なんて美しいこと!」
「お褒めいただき光栄ですわ」
わたしはにっこり笑い、隣で突っ立っているヘルムート様を肘でつついた。
「ああ……、お久しぶりです、ソフィア嬢」
心ここにあらず、といった様子で挨拶するヘルムート様に、ソフィア様は首を傾げたが何も言わなかった。
ただ、ヨナス様は率直に疑問をぶつけていた。
「なんだ、ヘルムート、どうした? 腹でも下しているのか?」
「いや、体調に問題はない」
ヨナス様相手だと、ヘルムート様も普通なんだけど。
その時、視界の隅をきらきらした金髪がかすめた。
イザベラ様だ、とわたしは唇を引き結んだ。
「ヘルムート様」
声をかけ、ヘルムート様の腕にそっと自分の腕を絡める。すると、ぴゃっ、と小さな声を上げてヘルムート様の体が跳ねた。こんなんで大丈夫か、と心配になったが、ヘルムート様の奇行の原因を考えている余裕はない。
「しっかりして下さい、ヘルムート様! イザベラ様がいらしてます!」
「う」
イザベラ様、と聞いて、ヘルムート様は鉛を飲んだような表情になった。そこへわたしは、口早に続けた。
「舞踏会の終わりまで、ずっとイザベラ様に張りつかれて、ドレスや宝石の話を聞かされたいのですか? そうでないなら打合せ通りに」
わたしが言い終わらぬ内に、満面の笑みでイザベラ様が現れ、「まあ、ヘルムート様――」と話しかけてきた。
だが、それを遮るように、
「ライラ・ベルチェリ嬢」
すっとヘルムート様が膝を折り、わたしの手を取った。
「どうぞ一曲、お相手を」
イザベラ様の笑顔が凍りつき、固まった。
曲が途切れ、しん、と広間に一瞬の静寂が落ちる。
わたしは深呼吸し、ヘルムート様へ微笑みかけた。
「喜んで、ヘルムート様」
イザベラ様が射殺すような目でわたしを見ている中、ヘルムート様にエスコートされ、広間の中央へと進み出る。ソフィア様が楽団に合図すると、再び音楽が流れてきた。
流れてきた曲は、踊りやすいスローワルツだった。ヘルムート様のダンスの腕前は知らないが(なにせ踊っているのを見たことがない)、最近ダンスの教師もつけたし、これなら大丈夫だろう。
「ヘルムート様、落ち着いて、ゆっくり。もしステップを間違えても慌てないで……」
言いかけ、顔を上げたわたしは息を呑んだ。
ヘルムート様が、どこか痛むような熱のこもった眼差しで、わたしを見つめていた。
何も言わずにわたしを抱き寄せると、ヘルムート様は音楽にあわせて踊り始めた。
じっと見つめられ、わたしもヘルムート様から目を離せない。
ヘルムート様の瞳は、黄金色に輝いていた。執務室でも思ったが、シャンデリアのきらめきを受けて輝くその瞳は、初春に採れるシカラの花の蜂蜜のようだった。その甘く蕩けた瞳の中に、激情を宿す炎が揺らめいている。
ヘルムート様の腕にぐいと引き寄せられ、わたしはくるりとターンした。
ちょっと強引なリードだが、なかなか上手だ。これならどの令嬢と踊っても問題ないだろう。
そう冷静に分析する一方で、わたしは混乱する気持ちを持て余していた。
どうして黙っていらっしゃるんですか。
どうして――、どうしてそんなふうに、わたしをご覧になるのですか。
聞きたいことは山ほどあるのに、一言も口に出せない。
言葉にして、この魔法のような時間を終わらせたくなかった。
ずっとこのままでいたい。ヘルムート様を見つめ、見つめられて、誰よりも近くにいたい。
ヘルムート様の吐息が額をかすめ、その体温を感じ、わたしは突然、バカみたいに泣きたくなった。
しっかりしなくちゃ、とわたしは必死に自分に言い聞かせた。
こんなふうに感傷的になっている時間はない。
あと一月、それだけしか時間はない。あと一月だけ。
踊り終わっても、ヘルムート様は手を握ったまま、じっとわたしを見つめていた。
「ライラ。……その、話したい、ことが」
「後にしてください。今はリオンのところへ行きましょう」
おずおずとヘルムート様が言いかけたが、わたしはヘルムート様の腕を引っ張り、イザベラ様とは逆方向にいるリオンのほうへ、素早く移動した。
「さあ、リオン、今の内にご令嬢をヘルムート様に紹介して!」
「いいけど……」
リオンは何か言いたげにわたしを見たが、わたしが圧をかけるように微笑むと、ため息をついた。
「ヘルムート様、こちらはミリア・ガーランド嬢、兄君が第一騎士団に所属されています。何度かヘルムート様とご一緒したこともあるとか。こちらはマリーナ・ディーラン嬢、領地がマクシリティ侯爵領の隣で……」
リオンの流れるような説明を聞きながら、わたしはそっと後ずさり、ヘルムート様から離れた。
まだヘルムート様の感触の残る手を、きつく握りしめる。
壁際に沿って、目立たないようにリオンとヘルムート様から離れながら、わたしはそっと二人の様子を伺った。
ヘルムート様は、どこかぼんやりした表情をしていた。令嬢がたは楽しそうに笑いさざめき、リオンと会話を交わしながら、ちらちらとヘルムート様に視線を向けている。
今度こそ、うまくいくといい。ヘルムート様の婚約者候補が、この舞踏会で決まりますように。
そう願いながらも、わたしはそれ以上、ヘルムート様を見ていられなかった。
踵を返し、衝動的に広間から出ようとしたその時、いきなり背後から肩をつかまれた。
「――これはまた、見違えたな」
振り返ると、イザベラ様と同じ美しい金髪に青い瞳の、王子様のように整った容貌の男性が立っていた。
「ハロルド・レーマン様」
じろじろと不躾な視線を向けられ、わたしは顔をしかめそうになるのを危うくこらえた。
「あの騎士のような格好は、もう止めたのか?」
肩をつかんだまま、ハロルド様が酒くさい息を吹きかけてきた。
「まあ、ハロルド様。だいぶ御酒を過ごされたようですわね、大丈夫ですの?」
「大丈夫ではないと言ったら?」
わざと体重をかけるように抱きしめてくる腕を、わたしはさりげなくかわして言った。
「ハロルド様、ご気分が優れないようですわね。従僕を呼んでまいりますわ」
「いらぬ。そなたが介抱してくれ」
なんでわたしが。という言葉を飲み込み、わたしはハロルド様と距離を取ろうとした。
「まあ、わたくし、魔術師の塔に所属してはおりますけど、治癒魔法はさほどの腕前ではございませんの。次期侯爵様にもしものことがあれば、申し開きがたちませんわ。どうか……」
「ごちゃごちゃうるさい」
ハロルド様は壁に両手をつき、わたしを囲い込むようにして言った。
「そのドレスはなかなかいいな。そそられる。……あの魔術師より、わたしのほうがそなたを喜ばせてやれるぞ、どうだ?」
「まあ、ハロルド様、足元がふらついておいでですわ。すぐ人を呼んでまいりますね」
「いらぬと言っているだろう、わからん女だ」
ハロルド様は苛立ったようにわたしの腕をつかんだ。
「このわたしが相手をしてやると言っているのだぞ。それとも何か、金でも払えと言うのか?」
この酔っ払い、どうしてくれよう。
そう思った時、
「――その薄汚い手を放せ」
低い声が聞こえ、後ろから伸びてきた手が、乱暴にハロルド様の手をひねり上げた。
「何をする、きさま!」
暴れるハロルド様をいなし、床に押さえつけた人物を見て、わたしは唖然とした。
「ちょっ、ヘルムート様!?」
ヘルムート様は立ち上がると、床に転がるハロルド様を蔑むように見下ろして言った。
「下衆め。ライラ・ベルチェリ嬢に貴様の非礼を謝罪しろ。断ると言うなら――」
落ち着き払った様子でヘルムート様は手袋を外すと、それをハロルド様の顔に叩きつけた。
「貴様に決闘を申し込む」
なんてバカなことを!




