26.ヘルムート様の愛人
わたしは仕事を終えると、急いで魔術師の塔にある、女性用の控室に駆け込んだ。
メイドの手を借りずとも一人で着られるドレスを用意したが、髪を結わねばならないし、お化粧も必要だ。ヘルムート様の隣に立つのだから、完璧に仕上げなければ。
さいわい今の時刻、控室には誰もいない。わたしは家から届けてもらった箱からドレスを引っ張り出し、急いで着替えた。
ビスチェタイプのドレスだから胸元が大きく開いて肩が出るが、エンパイアラインですとんとしたデザインのため、派手には見えない。色も大人しめの淡いグリーンで、全体に散らされた小さい花飾りも同じ色で作られている。
露出は多いが控え目。今回の役割にぴったりの衣裳だ。
わたしは控室の鏡をのぞき込み、慎重に化粧をほどこした。
ヘルムート様の隣に立っても恥ずかしくはない、しかし目立ってもいけない。本命ができるまでの一時の遊び相手として、人々に印象づける必要があるのだ。
全体的に薄化粧だが、頬紅で上気したような顔色を作り、唇は艶やかに、濡れたように仕上げる。髪はゆるく結び、しどけなくサイドに流して出来上がり。
わたしは鏡から一歩下がり、全体をたしかめた。
うむ、派手ではないが肉感的で、分をわきまえた愛人、という感じ。
これならヘルムート様の隣にいても、お気に入りの遊び相手と見なしてもらえるだろう。
わたしは控室を出て、ヘルムート様を迎えに執務室へ足を運んだ。
「ヘルムート様、失礼いたします」
「ああ、ライラか。もう準備は……」
できた、と言いかけたのだろうか。ヘルムート様はわたしを見て言葉を切り、ぽかんと口を開けた。
ドレスを着たのは久しぶりだし、このいかにもな愛人仕様の格好に驚いたのかもしれない。
わたしは気にせず、さっとヘルムート様の全身に目を走らせた。
詰襟タイプの黒い上着に同色のズボン、革のロングブーツ。片側に寄せて留めたマントの色はダークレッドで、金色の肩章や飾緒がよく映える。髪は簡単に上のほうで一つに結ってあった。軍服っぽい格好だから、あまり凝った髪型は似合わないし、このままでいいだろう。……でも、リボンは付けたほうがいいかもしれない。
ヘルムート様用の小物類は執務室に置いたままにしてあるので、わたしはリボンを探そうと、執務机の脇に置かれたサイドチェストに手を伸ばした。
「ヘルムート様、髪にリボンを付けてもよろしいですか? あと、手袋も……、ヘルムート様?」
固まったように動かないヘルムート様を不審に思い、わたしは顔を上げた。
「ヘルム……」
わたしは思わず息を呑んだ。
ヘルムート様は、食い入るようにわたしを見つめていた。
頬は上気し、琥珀色の瞳がきらきらと輝いてわたしを映し出している。蜂蜜のように甘く蕩けたその視線から、わたしはとっさに顔を背けた。
「ヘルムート様、座ってください」
わたしは極力、動揺を表に出さないよう、そっけない口調で言った。がたがたと乱暴にサイドチェストの引き出しを開け、マントと同色のリボンを取り出す。
「……ヘルムート様」
ヘルムート様は立ったまま、何も言わない。わたしはヘルムート様の肩を押し、強引に椅子に座らせた。
「え、……あ」
「リボンをお付けしますね。手袋はご自分ではめてください」
「あ、うん……」
ぼんやりとヘルムート様が返事をした。
渡された手袋をろくに見もせずに、左手用の手袋を右手にはめようとするヘルムート様に、わたしはため息をついた。
「何をしていらっしゃるんですか、ヘルムート様」
ヘルムート様から手袋を取り上げ、その右手をつかむと、
「ぴゃあ!」
奇声を上げて、ヘルムート様が椅子に座ったまま飛び上がった。
「…………」
わたしは無言でヘルムート様を見下ろした。
ぴゃあ、って何だ、ぴゃあって。
「ちょっとヘルムート様、ふざけないで下さい。時間がないんですから、大人しくして下さいよ」
「だっ……、ラ、ライラがいきなり手なんか触るから……っ!」
「手袋をはめようとしただけです! ほら、早く手を出してください!」
「い、いいいいい! じっ、自分で出来るそれくらい!」
ヘルムート様はわたしから手袋を奪い返すと、急いで手袋をはめた。
「で、出来たぞ! どうだ!」
「そんなんで威張らないでくださいよ」
言いながら、リボンをつけようとヘルムート様の髪に触れると、
「ぴゃああ!」
再びヘルムート様が叫び、バッと執務机に突っ伏した。
「ちょっとヘルムート様……」
「ちがっ……、だ、だっておまえが! 髪に触ったから!」
「リボンを付けますね、って言ったでしょう!」
ヘルムート様は机から顔を上げ、わたしを見たが、すぐ目を逸らした。
「な、ななんで今日は……、そっ、そんな格好で、私にべたべた触るのだ! び、びっくりするだろう!」
「仕方ないでしょう、今日のわたしは、ヘルムート様の愛人という設定なんですから」
「だからって……、え? あい? あいじ……、え?」
わたしは肩をすくめて言った。
「お伝えしたでしょう、イザベラ様対策のため、護衛ではなく伯爵令嬢として同行すると。今夜のわたしは護衛ではなく、ヘルムート様お気に入りの愛人という設定です」
「あいじん!?」
ヘルムート様は真っ赤な顔でわたしを見上げた。
うーむ、やはりわかっていなかったか。
「ヘルムート様の虫よけのためです。愛人なら、ヘルムート様のお気に召さぬご令嬢を近寄らせないようにできますから。今のところはイザベラ様のみを対象としていますが、これからそうしたご令嬢が増えた場合も、有効な手段でしょう?」
「有効……」
相変わらずぼんやりした反応に、わたしは焦れて言った。
「しっかりして下さい、ヘルムート様! わたしがヘルムート様からいただいた期間は三か月ですが、残り時間はあとわずか、もう一か月を切っているんです!」
「一か月」
「そうです、わたしがお側にいてヘルムート様をお手伝いできるのも、あと一か月。それまでに、何としてもヘルムート様のご婚約を成立させなければなりません!」
わたしは高らかに宣言した。
いっかげつ……、と呆然とくり返すヘルムート様に、わたしは歯がゆい思いでもう一度言った。
「そうです、一か月です! さあ気合いを入れて、ヘルムート様! 今夜こそイザベラ様に邪魔されず、意中の姫君を見つけてください!」




