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「正しい『批判』」という妄想

作者: 富屋 要

「作者として成長したければ、読者の批判を真摯に受け止めるべきだ」

「この作者は読者の批判を否定している。こいつに成長する気はない」


 これらは、たまに見かける評論家気取りの有識人読者が、感想欄で批判して、作者から否定されたり相手にされなかったりした時、作品ではなく作者を貶すために使う罵倒――当人達に言わせれば「正しい批判」――だ。


 ただ残念なことに、彼らの使う『批判』『正論』とは、書く側からすれば、何とも的外れな――ものによっては、中学生までに学習する内容で間違い――ものも多い。


 そもそもの話、「文章を書く」という行為は作者一人の作業だ。リクエストやアンケートを募っているのでもない限り、書き手の頭の中にあるイメージを文章に起こしていく作業であって、そこに読者の意見は必要ない。


 購入してくれる読者あっての商業誌ならともかく、無料で公開している趣味の創作に、読者が批判と称する意見が作者の成長に必要だと、どうして自惚れていられるのか。そしてそういう自惚れをしているのが、体感的に作品を書いたことのない未経験者に多いのか、実に不思議でならない。


●未経験でも正しい指摘はできる?


 これは難しい質問ではないと思う。

 実績どころか経験すらない輩に、正しい批判ができるか? こう問えば、返ってくる答えは「否」だろう。


 キャッチボールをしたことがない、バットを振ったこともない。そんな連中が

「プロの試合を○○○○回見たから、自分は優秀なコーチだ」

「ルールブックを○○○○回読んだから、やっている連中よりも野球を知っているんだ」

「プロの○○○○○○選手もこう言っていた。だから自分の言うことは正しいんだ」

 なんて自惚れて、マウンドに立つ投手やバッターボックスに立つ打者に、正しいコーチングをしてやっていると豪語している。


 このような言い分を並べられて、正しいコーチングをしていると同意するのは、主張している本人と同様、未経験の身の程知らず以外、まずいないだろう。


 しかもコーチングしているつもりの当人のいる場所は、監督やコーチのように同じグラウンドに立っているのと異なり、近くても観客席、遠ければテレビやPCの液晶の反対側だ。本人がいくら「正しい」と喚いても、それは無責任な外野の罵詈雑言でしかない。


 付け加えれば、実績のない未経験者に、個々人の資質や実力を正確に測る能力があるとは考えないものだし、性質に合わせた方向性を示せたり、実力に合わせた目標を提示したりできると判断されたりはしない。


 棘の立たないように言葉を選んで表現すれば、当事者を何一つ見ずに、自分の考えた分不相応の「正しい」を押し付けるだけの無責任な迷惑野郎が何を言おうが、その中身に価値を見つけるのは困難だ。


 それでいて、間違いを指摘したり、言葉だけでは分からないから実際にやって見せてくれと頼んだりすると、「口答えするな」「詭弁を振りかざすな」「屁理屈をこねるな」「揚げ足取るな」「悪意の曲解をするな」「詭弁を並べるな」「屁理屈をこねるな」「難癖つけるな」「イチャモンつけるな」と腹を立てる。あるいは「逆ギレしやがって」と侮蔑する。


 野球を例に出したが、似たようなことは小説でも言える。

 公共の場所に作品を公開している以上、作者はグラウンドに立っているようなもので、その作品を読む読者がいるのは観客席だ。観客席からの野次罵倒を『批判』だと言い張っているのだから、身の程知らずな大言壮語、と評価しても決して大げさではない。


●とってもすごいかんがえるちから


 勿論、小説を楽しむのに正しい・間違いはない、という意見はあるし、それには同意する。しかしそれは「楽しむ」ためであって、「批判する」つもりならば、作者と同じか近い視点に立つ配慮――あるいは立ったことのある経験――くらいは必要だろう。


 そして読者が「批判している」つもりの『正論』で困るのは、実のところ『とってもすごいかんがえるちから』の持ち主だと、とんでもなく高い自己評価が前提にあることだ。本来なら『考察力』とするところを『とってもすごいかんがえるちから』としたのは、彼らの「正しい『批判』」が、余りにも子供じみたものだからだ。


 これは、そんな自己評価の高い読者の「正しい『批判』」の一例だ。


 専制君主政治を打倒した主人公が、民主主義の国にするための法整備に参加しない。

 こういった設定の中で、『とってもすごいかんがえるちから』の持ち主の言い分はこうだ。


「貴族がいなくなっておしまいかよ。その後の議会成立とか議員選出とかどうするんだ。無責任者め」


 本人的には正しい『批判』のつもりなのだろう。しかし高校生が学習する文民統制を知っていれば、そのような『批判』が出て来ることはまずない。国の軍事力は国民により選出された議員らによってコントロールされなくてはならないから、主人公の無関与は正しい、と分かりそうなものだからだ。つまり主人公の行動を、民主主義の観点から批判の対象とするのは筋違いだ。


 あるいは、後に主人公が議員選に参加し、とんとん拍子に大統領なり総理大臣なりになったとしよう。


『とってもすごいかんがえるちから』の持ち主は、先の件で主人公を無責任者と罵っていたその口で、今度は

「主人公とその取り巻きのハーレム要員で固めただけの、主人公の独裁じゃないか。それのどこが民主主義だ」

となる。


 大統領にせよ内閣総理大臣にせよ、自内閣を支える国務大臣を、自政党や自派閥他与党から出すのは小学校で習う(大統領制は高校)ことだ。内閣総理大臣が任命し、天皇が認証する。これは小中高を通して学習するし、センター試験でも出題されている。


 もし投票所の前に兵士を配置していたら、まだ独裁云々を語る機会はあるだろう。しかしそういうものもなしに、自分の政党から大臣を選んでいる点だけを取り上げ、「どこが民主主義だ」と言い出されても、その『批判』が筋を通しているとは到底評価できるものではない。


 しかも残念な話、この手の『批判』をする『とってもすごいかんがえるちから』の持ち主達の書き込みから、小学生の教科書レベルの議院内閣制・大統領制と与党・野党、任命・認証の単語が出てきたことは、寡聞ながら見たことがない。


 前もって述べているように、これはあくまで一例にすぎず、『とってもすごいかんがえるちから』の持ち主には、こういった間違いを指摘されても通じない場合が、経験ではほとんどだ。


 彼らのとっておきの切り札とは、このようなものだ。


「現実の常識が、異世界でも通じるとは限らない」


 だから自分は正しい。正しいと評価されるのが当然だ。忖度すればそういう主張なのだろう。


 付け加えれば、『とってもすごいかんがえるちから』を持つ読者は、自分達が文民統制を知らないことも、議院内閣制や大統領制を知らないことも、検索すれば簡単に分かる内容すら検索せずにいることも、自慢の『とってもすごいかんがえるちから』で出した『正論』が小学生の教科書レベルで間違えていることも、主人公の立ち位置に最初にケチをつけたのが自分たちであることも、全て「なかったこと」にして、作者の人格を貶してでも、『正しい批判』『正しい考え方』『論理的な考え方』『客観的に見て正しい批判』だと言い張るのだ。


●「正しい」の根拠は?


 このような間違いを指摘されても、どこまでも「自分の批判は正しい」に固執する読者は、感想を書く中の少数派だと言われるかもしれない。大多数はそういう間違いはしないし、「正しい『批判』をしている」と。


 では大前提の話として、何をして「正しい」と、読者は主張しているつもりなのだろうか?


「自分は自分が正しいと知っている。だから自分の言うことは正しい。それに反対する奴が間違えている」


 こんな意見を見かけたことなら何度かある。だからその「正しい」は何を根拠にしているのかと尋ねても、満足に答えてもらえたことはないが。


 先の野球の例を挙げるなら、ボールの握り方やバットの振り方を批判して、「正しい」と悦に入っているのが大半の読者だろう。それで暴投しても空振りしても、自分は「正しい」ことを言ったのだから間違えていない、言う通りにできない選手が「間違えている」のだ、と。


 しかしここで求められる本来の「正しい『批判』」とは、点を抑えるためのボールの処理や、打率を上げるなどの、数字として目に見える成果につながる『何か』だ。比較できる数字が出て来るから成長が語れるようになるのであって、「正しい」フォームでボールを投げられる、「正しい」フォームでバットを振れるから成長した、ではない。


 そしてこういった本来の『成長』に繋がる批判は、経験や実績を積み重ねているから出てくるものだ。


「実績や経験がなくても正しいことは言える」という話ではない。


 これを作者と読者の関係として見るなら、作者が求めるのはPVやユニークアクセス、感想数やお気に入り登録数に繋がるヒントだろう。よって対する読者の「正しい」発言とは、これらの数字の上昇につながる意見、となる。


 そして残念な話、読者――特に未経験者――の持ち出す「正しい」は「正しいことを言ってあげたのに、それをできない奴が悪い」で切り捨てて恥じない類のものだ。ネットや紙媒体の情報に頼っ放しの薄っぺらさが滲み出ている。


 科学的に「正しい」を主張するのであれば、自説を証明するための検証試験を行い、その結果と自説が一致した時に、初めてその意見は「正しい」となる。つまり、正しい『はず』と『べき』論で『批判』しただけでは、肝心の結果で『証明』された、とは評価されない。最大限好意的な受け取り方をしても、その『批判』は『机上の空論』や『絵に描いた餅』でしかない。どれだけ「正しい」を連呼しても、これっぽちも『正しい』を証明していないのだ。


 法学的にも同じことが言える。自分(あるいは弁護人)が正しいと主張するなら、その根拠となる証拠の提示が求められる。それができなければ、いかに「自分は正しい」を主張しても、法廷で採用されることはない。


 社会人であっても変わらない。自社製品が売れない理由を二十三十と並べても、同僚なり競合他社なりが売上という証拠を出していれば、それらの理由は正しくない――間違えている――と却下される。それどころか、文句ばかりで成績の振るわない社員なら、明瞭な数字を元に退職勧告すらされかねない。


 確かに読者の多くは、数え切れない程の正しい『はず』の『批判』を持ち合わせているだろう。しかしその『批判』が「正しい」証明は何一つ行っていない。科学的・法学的どころか実社会においても「正しい」を主張するには証明を求められるのに、自分の「正しい」を連呼するばかりで、その「正しい」を証明する行動は何一つ行わない。それでいてその「正しい」が無条件で受け入れられることを要求するだけなのだ。


 そして命題の「何をして『正しい』としているのか?」に対しての解は、既に述べているように、この手の「正しい」にこだわる読者たちの、どの方面から見ても裏付ける根拠が何一つなく、それでいて「自分が正しいと知っているから、正しいと評価されることが正しい」という、どこまでも無責任で自分本位な考えで成り立っているとするしかない。


●読者のための無料執筆マシーンでも執筆奴隷でもない


 無論のこと、どのような意見・批判でも喜んで受け取る作者はいる。彼らのそのような態度には敬意を抱くし、頭の下がる思いだ。


 ただ彼らのそういう姿勢が、「自分は正しい」と認められて当然と、読者の中でも特に未経験者を増長させる一要因ともなっているのではないか。そんな懸念を抱くことが多々ある。


「正しい批判を書いたら、自分で書けと返された。そんな作者の存在意義って何だ!」

「正しいことを感想で書いたのに、作者から荒らし扱いされて、擁護する書き込みにも散々叩かれた。ほんと、カルト教祖と信者だよな」

「真っ当な指摘には、真っ当な作者になるためのヒントが詰まっているのに。それを無碍にする作者は、読者の信頼に対する裏切り者だ」

「正しいことを書いたのに、運営に通報されて書き込みを削除された。正しいのだから、規約違反と判断する運営がおかしい。作者の肩を持って読者を蔑ろにする運営なんて○○○○(自主規制)」


 このような自己正当化する読者の言い分は、決して珍しいものではない。どこまでも自分は正しく、サイトの運営から作者まで、その通りに従わないのが悪いのだと、自分本位の「正しい」には果てがない。


 そんなどこまで行っても上から目線で自分本位の「正しい」を語り、その言い分を受け入れてその通りに書く無料の執筆マシーンや執筆奴隷こそが、彼らの求める「正しい」作者の姿だ。あるいは、改宗して「正しい」を知る新しい教祖様に、「正しい」作品を書いて奉納する信者となることが、か。それがこの手の読者にとっての「正しい」作者の『成長』の姿なのは、想像に難くない。


「そんなこと言っていない」「勝手に決めつけるな」と反論されるだろうが、自分の「正しい」を受け入れない作者と読者をカルト教祖と信者呼ばわりし、「存在意義」や「裏切り者」のような言葉を使っておいて、強要していないとはただの言い逃れだ。


●読者の「正しい」は、作品の「面白い」ではない


 こうも書く側を見下した読者の悪意増しましな「正しい『批判』」に、作者が望むような作者としての成長は期待できるのか? その『批判』の中に、PVなりユニークアクセスなり感想数なりが増える「面白い」作品になるヒントが含まれているのか?


 ここまで書けばおおよそ見当はつくかもしれない。読者が意気揚々と語る「正しい」が、作品評価の「面白い」につながるのは稀だ。


 おそらく世の多くの作者は、実際に書いて、公開して、不特定多数の読者の目に晒して、PVなり感想数なりお気に入り登録数なりの数字で確認するまで、その作品が好評か不評かは分からないと思う。


「常識的に考えれば、どんな作品が評価されるか分かりそうなものだ」


 これは未経験者が『正論』として時々語っているのを見かける言い分だ。どれ程優れた常識の持ち主と自己評価しているのかは不明だが、それならどこかの出版社にでも就職して、十週打ち切り作品を出さない編集者として実力を発揮してほしい。あるいは、小説家養成の専門学校の講師にでもなって、生徒の三割――打率三割は優秀な打者だ――を商業デビューさせるのでも良い。そうすればそれを実績として、堂々と「正しい」と「面白い」を語れるようになる。


 さすがに本業にしろと言うのは暴論の類と返されるかもしれない。しかしこれまで重ねてきた実績が、気に入らない作品と作者にケチをつけることで、「だったら自分で書いてみろ」を作者の逆ギレと嘲笑し、「正しい」を証明するために作品を書いたことは一度もなく、そのくせ自分の「正しい」を受け入れろと要求するしかしていない。

 そんな上から目線で物を語る読者の言い分を、信用に値する「正しい『批判』」などと受け入れるのは難しい。ましてやその「正しい」が、作品の「面白い」をそっちのけで語っているとなれば、真に受けるなどどだい無理な話だ。


●書きたいものを書くのが作者


 いかに読者が根拠もなく自分本位の「正しい」を優先し、作者を執筆奴隷かそれよりも下の存在として扱い、作品の「面白い」と作者の成長に無関心でいるかと、ここまで語ってきた内容から、誤解を抱かれているかもしれない。


 決して、批判するなと言っている訳でも、禁じている訳でもない。言論の自由や発信の自由のような自由権は尊重されるべきだ。


 ただし作者にも同様の自由権は存在するし、読者のための奴隷ではない個人だとの認識は、最低でも必要だろう。読者の自分本位の「正しい」が、無条件で受け入れられて当然の『正論』だと自惚れられても迷惑だし、作者一人納得させることのできない『正論』は切り捨てられて仕方ないと知っておくものだ。


 それは作者の成長に関しても同様だ。PVやユニークアクセスなどを分かり易い例として出したが、こういう数字の伸びを成長とする作者ならば、読者の「正しい」が作品の「面白い」になると判断すれば、容易に作品の中に反映させるものだ。


 反面、頭の中にあるイメージが正確に文章化された時に、自分の成長と見なす作者もいよう。この場合、読者がどれだけ「正しい『批判』」をしようと、相手にされる機会は少ない。


 そもそも著作物とは、著作権法の第二条の一に明記されているように、「思想又は感情を創作的に表現したもの」だ。PVやユニークアクセスを目当てにしようと、脳内イメージの正確な出力が目的だろうと、書きたいという感情を元に考えた内容を書くのが作者だ。同じく、こうすれば「面白い」だろうと「正しい」を決めるのも作者だ。読者の「正しい」が都合良く反映されるものではない。


 そして作者によって作品に対する姿勢が異なるのを理解せず、自分本位の「正しい」を評価してもらいたいだけの読者に、「正しい『批判』」なんてものができるのか。


 できはしない。できると思っているのなら、それは妄想だ。






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[良い点] タグやタイトルから過激なものを想像して読んでみたけど思ってたのと大分違って落ち着いていた。 [一言] 自分は過去の2ちゃん(今は5ちゃん)のレスバ等で誹謗中傷や批判に見慣れてしまっていて、…
[一言]  初めてのコメント失礼致します。 >『これを作者と読者の関係として見るなら、作者が求めるのはPVやユニークアクセス、感想数やお気に入り登録数に繋がるヒントだろう。よって対する読者の「正し…
[気になる点] 批判を批判するために必要な経験て何だと思いますか? [一言] ぼくのかんがえたさいきょーのひはんは 読者「私はこう考えます」 作者「同意します」or「同意しません」 読者「わかりまし…
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