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四十六 軍勢三万

◇天正十二年一月一日


 年が明けた。いずこの寺が打つものか、除夜の鐘の音が響いている。灯明の火がともる小瀬の惣堂の中では、皆が互いに頭を下げていた。


「明けましておめでとうございます」


 その声は明るく聞こえる。だが努めて明るく振る舞っているに違いない。忠善はそう思った。惣堂の奥には杉乃助が二つの餅を重ねて置いてある。武家の具足餅の真似事なのだろう。一揆勢の襲来を恐れながらも、正月を祝いたいと願う百姓たちの心は、忠善の胸さえも打った。もっとも宣教師は、酔い潰れて眠っているが。


「私たちも、少し眠りますか」


 杉乃助が皆に言った。


「戦が始まるにせよ、朝までは何もありますまい。朝になったら、僅かですが餅を焼いて食べましょう。それくらいの間はありましょうから」


 百姓たちは笑顔でうなずき、横になった。


「お武家さまも、ごゆっくりなさってくださいませ」


 杉乃助は忠善にそう言うと、自らも寝転んだ。静まりかえった惣堂の中で、忠善も座ったままで目を閉じた。



 元日の早朝、まだ太陽は昇っていない。星の瞬く暗い空の下、ひんやりとした空気が、震えた。遠くから響く地鳴りの如き音。ざっ、ざっ、ざっ、ざっ、唸るのは足音。三万人が一斉に歩く音。無数の松明が、ごうごうと音を上げて燃える。街道を、あぜ道を、草原を、そして田や畑の中を、三万の大軍が北上する。目指すは岸和田城、中村一氏の首。


 三万の集団はみな粗末な甲冑を身につけ、腰に刀を、あるいは手に槍を、もしくは鉄砲を持って歩いている。鉄砲の総数は二千挺。岸和田城の如き小城、落とすには充分すぎる数であった。



 ◇ ◇ ◇


 二千挺の鉄砲と言われても、ピンと来ないかもしれない。当時の鉄砲は言うまでもなく火縄銃である。火皿に火薬を露出させた状態で、そこに火のついた火縄を落とす事により爆発を起こし、弾を飛ばす。なので隣から火の粉が飛んでくれば、暴発する危険性がある。よってカートリッジ式の銃を使う現代戦のような密集隊形は取れない。鉄砲同士はある程度の距離を置く必要があるのだ。


 その距離を仮に一メートルとしよう。するとどうなるか。鉄砲二千挺が一メートルおきに横一列に並ぶだけで、二キロメートルの幅が必要になる。いかに戦国時代とは言え、そんな戦法には無理がある。


 根来の付け城から岸和田城まで五~六キロ、付け城の一番海側の澤城から一番山側の千石堀城まで三キロほどしかない場所で――ローラー作戦でも行うのなら別だが――戦線を二キロも伸ばす価値はない。


 それに貝塚から岸和田に至るこの地域、二キロもあればその中には人口密集地もあり池もある(和泉国にはため池が非常に多い)。森や丘もあるだろう。真っ直ぐにすら進めないし、統一された作戦行動など取れるはずがない。ここは合戦場には不向きなのだ。


 そもそも無線もない時代に、二キロ幅で端から端まで同時に命令を下す事は不可能であり、たとえば鉄砲二千挺の厳密な意味での一斉射撃などできる訳もない。どうしたってバラバラになる。


 もし仮に、織田信長が用いたという伝説のある、いわゆる『三段撃ち』を実践したとしても、まだ幅が七百メートルも必要だ。火縄銃の有効射程距離はせいぜい百メートルである。敵の岸和田方が七百メートル幅で攻撃してきてくれるのなら別だが、中央突破など仕掛けられたら、大半の鉄砲は撃つ機会すら与えられない。それでは鉄砲を持っていても役に立たない。つまり籠城戦ならともかく、原野合戦で鉄砲隊をひとまとめに運用したとは、なかなか考えづらいのである。


 普通に考えられるのは、数百人規模で部隊を編成し、その中に鉄砲担当を数十人配置する方法である。これなら指揮官が作戦を理解していれば、部隊ごとに数十挺の鉄砲を自在に運用できる。一斉射撃も三段撃ちも可能だ。もちろん三万人の大軍団ともなれば、部隊の数も相応に増える訳だが、二千挺の鉄砲を一括運用する事を思えば現実的と言える。


 岸和田攻めは岸和田城を包囲するのが前提である。包囲が終わるまで、鉄砲を撃つ機会がない場合もあり得る。移動中に攻撃を受けたとしても、部隊と部隊の間を百メートル以上とっておけば、流れ弾はあるにせよ、味方を撃ってしまう事も減るはずだ。根来雑賀勢にとってのストロングポイントである鉄砲を有効活用するのであれば、部隊を分けたと考えるのが合理的なのではないか。


 根来雑賀の一揆勢には農民も多く参加している。だがそれを指揮していたのは、戦慣れした土豪や地侍たちであった。彼ら一揆勢はただ闇雲に、イノシシのように突進してくるような集団ではなかったのである。


 ◇ ◇ ◇



 一揆勢の一部は貝塚寺内町を通り抜けた。紀州口の門は開け放たれ、門番もいない。卜半斎の指示であった。残りの一揆勢は寺内町を迂回するルートを取っている。


 寺内町の住民は、家の戸口を貝のように固く閉ざし、息を殺して一揆勢が通り過ぎるのを待っていた。濫妨狼藉(らんぼうろうぜき)を働く者はいない。みな整然と大通りを抜けて行く。だがそのピリピリとした暴力的な空気は、身を隠す人々に、心をすり潰すほどのプレッシャーを与えた。


 寺内町の北側出入り口、上方口にも門番はいなかった。寺内町を抜けた一揆勢は、少し早足になった。気が()くのだろう。戦いに臨む悲壮感などない。これは最初から勝ちの見えた戦なのだ。問題はいつ終わるかだけである。とっとと始めて、とっとと終わらせたい、そんな気持ちが垣間見えるようだった。



 ◆ ◆ ◆


――兄上さま、兄上さま、お願いがございます。


 椿がお願いなど珍しい。孫一郎は妹の枕元に座った。


「どうした椿。何か欲しいものでもあるのか」


――庭の障子を開けてください。


 孫一郎は困惑した。今日は雪が降り、一際冷え込んでいる。


「それは駄目だ。冷たい風は身体に障る」


――お願いします。開けてください。


 椿は身体は弱いが、頑固だった。


「少しの間だけだぞ」


 諦めて、孫一郎は庭に面した障子戸を明けた。植えられたツバキの木に、一輪の花が咲いている。だが上に積もった雪が重そうだ。


――兄上さま、兄上さま、お願いがございます。


「ほら、やっぱり寒いのだろう。閉めようか」


 しかし椿は孫一郎の袖を取り、首を振った。


――私が死んだら、


 椿は笑顔だった。


――命日にはツバキの花を供えてください。


 そして椿は目を閉じると、ふうっと小さく息を吐いた。椿の手が落ちた。



 その後、何が起きたのかは覚えていない。ただ気がつけば、孫一郎は雪の積もる庭で、何かを叫びながら刀を振り回していた。足下にはツバキの花が落ち、ツバキの木は葉も枝も滅茶苦茶になっていた。このとき孫一郎を羽交い締めにしたのが甚六だと知ったのは、随分と後になってからだ。


 この日を境に、庭のツバキの木は花をつけなくなってしまった。


 椿の命日には、花屋からツバキの花を買って供えた。しかし、それが意味のある事だとは、孫一郎にはどうしても思えなかった。


 ◆ ◆ ◆



「……郎……一郎、孫一郎!」


 ナギサの声に孫一郎は目覚めた。まだ周囲は暗い。だが近付いた顔が見えないほどではない。


「みぞれちゃんが言ってる。もうすぐ一揆が来る」

「わかりました」


 慌てて立ち上がり、刀を腰に差す。頭はスッキリしている。何か夢を見ていたような気がするが、忘れてしまった。甚六は火を消した。他の皆はもう準備ができているようだ。


「それでは参りますか」


 気のない声と共に、海塚が先頭に立った。孫一郎は海塚の隣に駆け寄った。


「海塚さま、よろしいのですか」

「よろしくはありません」


 海塚は憮然と答えた。


「でも放り出す訳にも行かないでしょう。乗りかかった舟ですし」

「かたじけない」


 正直申し訳ない気持ちはある。だがあの服部竜胆と戦う事を思えば、海塚が居てくれる事は心強い。いや、海塚抜きでは事実上無理と言って良い。だから孫一郎は素直に気持ちを受け入れた。自分勝手なのかもしれないが、他に執るべき手段がなかった。


 海塚の後には甚六が続く。甚六にも助けてもらわねばならない。


「あの、甚六」

「余計な事言うんじゃねえぞ」


 ジロリとにらまれ、孫一郎は何も言えなかった。


「無理しなくて良いんじゃない」


 みぞれの手を引くナギサが言った。


「やるべき事は一つなんだし、御礼なら終わった後で言えば良いよ」

「……そうですね。はい、そうします」


 孫一郎はうなずき、己の行く先を見つめた。そうだ、今はとにかく急がねばならない。それしかないのだ。

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