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三十二 ああ懐かしき

 夜が明ける前、小瀬の惣堂に近寄る人影があった。惣堂は死んだように静まりかえっている。


「俺だよ。松蔵だ」


 その声に、惣堂の扉が小さな音を立てて、ゆっくり開いた。内側から用心深そうな顔が二つのぞく。甚六と与兵衛である。松蔵はそれを見て口元を緩めると、肩に担いでいた風呂敷の荷物を惣堂の床に下ろした。ドスンと重い音がした。


「どうしたんだ、松蔵さん。こんな時間に」

「これ……もしかして、米か」


 甚六と与兵衛にうなずくと、松蔵は風呂敷をほどく。


「もしかしなくても米だ。ちっと用事ができてな、もうおまえさんたちに構っていられなくなった。これは(せん)(べつ)だと思ってくれ」


 中から出てきた『ずた袋』を与兵衛に渡すと、松蔵は風呂敷を懐にしまい込む。甚六は心底申し訳なさそうに頭を下げた。


「すまない、あんたには世話になりっぱなしで」

「構わんよ、こっちが好きでやった事だ。だがこれから先は、お互い知らぬ存ぜぬで頼む」


「あんたがそう言うんなら、俺たちはそれで良いが」

「そうしてくれ。こっちにもイロイロ都合があってな」


 そして松蔵は背を向けた。


「じゃあ、達者でな」


 味気ない別れであった。甚六と与兵衛はしばらく松蔵の姿の消えた先を見つめていたが、やがて扉を閉め、身支度を始めた。甚六の傷の痛みはまだあるが、動けるのなら役目を果たさねばならない。それが松蔵の恩に報いる事にもなるのだから。



 ◆ ◆ ◆


【顕如の日記】


 米ばかりを狙う盗人が出没しているらしい。けしからん事だ。ただでさえ飢饉が続く中、信徒たちが懸命にかき集め、収めてくれた大切な米である。盗人などにくれてやる訳には行かない。警備を強化しなくては。


 岸和田城から本願寺に、医者の派遣を要請する書状が届いていたそうだ。卜半斎は何人くらい送ったのだろう。こういう事を一切相談してくれないから困る。まったく。


 ところで昨日岸和田の浜で見つかった、面白い物というのは何だろう。卜半斎に聞いたのに教えてくれない。何て嫌なヤツだ。覚えていろ、いつか見に行ってやる。でもその前に暖かくなってくれないと。寒い間はとにかく何をするのも無理だ。


 ◆ ◆ ◆



 朝はすっきり晴れ上がり、雲もまばらな青空に、しかし空気は冷え込んだ。


「ナルホド、ソノ女ノ子ヲ徳川家康ニ届ケルノガ、オマエタチノ役目ダッタノデスネ」


 白い息を吐きながら、宣教師は街道を北に向かっていた。目的地がある訳ではない。だが相部屋の旅籠では、秘密の会話は無理というもの。誰にも聞かれずに話をしたければ、外を出歩くのが一番簡単なのだ。宣教師のすぐ後ろには、旅姿の男が三人付き従い、少し間を置いて忠善と六衞門が歩いている。


 三人の男は、先般忠善に斬られた忍びである。死んだのは七人であったが、全員を動かすのは大変だと宣教師がゴネたため、三人だけ動かす事になったのだ。


「フムフム……ソノ子供ノ名前ハ?」

「みぞれ」


 巨漢の『(なみ)』が答えた。


「今、何処ニ居マスカ?」

「貝塚寺内町に」


 中肉中背の『(ながれ)』が答えた。


「誰カト一緒デスカ?」

「侍と法師らしき者が一緒におります」


 子供のように小柄な『(しずく)』が答えた。


 宣教師の足が止まった。そしていきなり振り返ると、元来た道を戻りだした。


「今度は何処へ行くのですか、司祭さま」


 やや呆れたような忠善の顔を横目で眺めながら、早足で通り過ぎる。忠善も早足で追いすがる。


「司祭さま」

「貝塚デス!」


 そして楽しそうにこう続けた。


「家康ガ欲シガル子供、秀吉ダッテ欲シガルニ決マッテマス!」


 宣教師は街道を南へと進んだ。後を追うのは忠善。さらにその後を追う、六衞門と浪、流、滴の四人。しかし白い息を吐くのは前を行く二人のみ。



 山また山の延々と続く紀伊半島を駆ける影が三つ、東へ東へと進む。紀州雑賀から伊勢まで、常人ならば街道伝いに二、三日かける道程(みちのり)を、街道を使わず最短距離で、昼も夜も走り、僅か一日で駆け抜けようというのである。服部竜胆配下の忍びの中から、選りすぐられた三人の健脚であった。目指すは織田信(のぶ)(かつ)の居城、伊勢松ヶ島城。そこに兵糧弾薬が用意してあるのだ。



 ◆ ◆ ◆


 オクタゴンは歩く。全高十五メートルの巨体でありながら、八本の脚を器用に動かして、不整地でも切り立った崖でも歩く事ができる。もちろん艦内からでも動かせるが、艦橋外頂部、要するに頭の天辺にもコントローラーが格納されていて、非常時には外から動かす事が可能なのだ。


 試験航行の際、艦外コントローラーを使って岩礁を歩かせる訓練を行ったのだが、その際もっとも高い適合数値を叩き出したのが私だった。


「おお、すごいねえナギサちゃん」


 近くの砂浜で見ていたソマ計測員が、驚きの声を上げた。トガワ技師長もうなずく。


「ありゃあ運動神経が良いんだな」

「運動神経に良い悪いなどないよ」


 怒ったような博士のつぶやきはしかし、不満そうではなかった。


「博士喜んでません?」


 サエジマ計測員の言葉に博士は目をむいた。


「喜ぶ? なぜ我が輩が」

「知りませんよ、そんな事」


 吐き捨てるように言ったサエジマだが、その口元は少し緩んでいた。



 ああ、懐かしいなあ。みんな今どうしているだろう……懐かしい? 懐かしがるほど昔の事だったろうか。もうよく思い出せない。ついこの間のような気がするし、ずっと昔の事だったような気もする。まあ、今は考えても仕方ない。眠い。朝が来るのはまだ先だ。とにかく眠ろう。


 ナギサは再び深い眠りへと落ちて行った。

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