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三十 闇の中の盗人

 夜の山。街道を行かず、(けもの)(みち)も行かず。樹から樹へ、枝から枝へと渡り歩いて飛び跳ねて、人の目に触れず山脈を越える。その様子から、若い頃には猿飛と(あだ)()された事もある。忍びの群れを束ねていた事もある。しかしそれも過去の事。今、松蔵と名乗る男は、金持ちの蔵に眠る米を狙う、ただの盗人であった。


 ()(もと)中に飢饉の広がるこのご時世、何処の村にも米はない。大名もない物は取れず、各地で年貢を免除する事も増えていると聞く。


 だが大名とて、米を食えねば死ぬはずだ。金持ちも同じく。なのに大名や金持ちは飢え死にしない。それは『(たくわ)え米』があるからだ。農民たちが飢え死ぬのを横目に、大名や金持ちは蓄え米を食って毎日生活しているのである。


 別に松蔵は、その事を非難するつもりはなかった。それもまた人の世である。だが同時に、自分たちが生きるために蓄え米を少しばかり頂戴したところで、何が悪いのかという気持ちはあった。


 とは言え、同じ所から何度も盗んでいると、見つかる恐れがある。なので狙う先を常に分散させていた。この間は岸和田の金持ちの蔵に忍び入った。だから今日は紀州まで足を伸ばす。


 本来なら松蔵は一人暮らしでもあるし、一度働けば次の仕事まで、(ひと)(つき)は持つはずだった。それ以上頻(ひん)(ぱん)に盗みを重ねれば、村の連中にもバレるかも知れない。そうなれば殺されるに違いない。いわゆる一銭切、小銭一枚でも盗む者は、村の掟で死罪になる。それが盗みに対するこの時代の『常識』であった。


 盗んで村人に分けたというのならまだしも、独り占めにしていたとなれば、決して許しはすまい。だが松蔵は今、甚六と与兵衛という余所者に関わってしまっている。あの二人のために、余計に米を手に入れねばならない。


 放っておいても良かった。いや、そうすべきだったのだろう。しかし松蔵は、甚六と与兵衛の二人に、若かりし頃の自分の姿を重ねてしまった。どうしても見捨ててはおけなかったのだ。


 今夜の標的は、紀州雑賀の土橋屋敷。大名のいない雑賀では、土豪の屋敷に米が唸っている。これをちょっと多めに頂く算段であった。侵入経路も逃走経路も確認済みだ。バレる事はあるまい、そう思っていた。けれど。


 異変に気付いたのは、土橋屋敷の目と鼻の先。自分以外、誰も居ないはずの夜の闇の中に、誰かが居た。


「誰だ」


 松蔵の声に、闇が笑った。


「それはこちらが聞きたい」


 灯りなどない夜の森。相手の姿は見えない。ただ気配だけがあった。ざわざわと、闇に溶け込み松蔵を包む無数の気配。動けない。ヘビににらまれたカエルである。闇が問う。


「おまえ、雑賀に何の用だ」


 答えられない。まさか盗人でございと言う訳にも行かない。


 すると闇がこう言った。


「盗賊かな? でもただの盗賊にしては、良い動きをしている」


 言い当てられた。松蔵は腹をくくった。


「そういうあんたは何者なんだ」


 闇が面白そうに問いかける。


「良いのかい、それを聞いたら死ぬ事になるよ」

「このままでも、どうせ殺されるんだろう」


「まあそれはそうだね」


 闇はしばし間を置いた。


「……私の名前は竜胆。知らないよね」

「竜胆……まさか、服部の娘じゃあるまいな」


 闇が息を呑んだ。


「何故そう思った」


 当たりか。とてつもないクジを引いてしまった。松蔵は歓喜の声を上げるところだった。


「俺は、俺は確かに盗賊だ。今はな。だが元は草だ。徳川の草だった」

「徳川の草だと」


「そうだ、まだ松平の頃からの草だ。おまえさんが生まれる前だ。若い頃はあちこちに潜った。和泉に潜ったのはもう十二年前だ」

「おまえがいる事を、私は聞かされていない」


「俺だって聞いちゃいない。そもそも俺につなぎを取るヤツが、ここ五年ほど誰もいない。俺は完全に忘れられたのさ」


 悔しげなその松蔵の顔は、竜胆には見えているのだろうか。またしばし間を置いて、竜胆はこうたずねた。


「おまえ、名前は。何処に済んでいる」

「久保村の松蔵だ」


「じゃ松蔵、もう一度徳川さまのために働いてみる気はないか」


 その言葉は松蔵に息を呑ませ、目を(みは)らせた。


「もう一度……もう一度」


 うわごとのように繰り返す松蔵に、しかし竜胆はおあずけを食らわせるかの如く、言葉を翻した。


「嫌だと言うなら諦めるけど」

「い、いや待て、やらせてくれ、俺にもう一度働かせてくれ!」


 それは必死の懇願であった。


「俺はまだやれる。そりゃ若い頃と同じって訳には行かないが、今の俺でもやれる事は沢山あるはずだ。だから仕事をくれ。ちゃんとやってみせる」

「面白い」


 竜胆の声は、大笑いしそうな空気を醸し出していた。


「こういう面白いのが拾える。この乱世は楽しい事ばかりだ」


 そして竜胆はこう続けた。


「和泉に紅毛の伴天連がいるのは知っているか」


 聞いた事がある。松蔵はうなずいた。


「噂話では聞いている」

「その伴天連を殺せ。方法は何でも良い。連れが二人ほどいるが、これは無視しろ。おまえの手には負えない」


「わかった。やってみせる」

「年が明けたら、つなぎを取る。なるべく早めに仕留めてくれよ。期待している」


 闇の中の気配が消えた。松蔵は全身から力が抜けそうになるのを何とか堪えた。まだ気を抜く訳にはいかない。これから米を盗まねばならないのだから。

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