溶かされた氷
夕日が沈み、赤い月が見えてきた頃、私はMの研究所を訪ねた。訪ねたといっても、唐突にMの前に姿を現しただけなのだが。
Mは驚きもせず、私を見た。
「今日、何かしてくるだろうとは思っていたわ。私を殺しに来たの?それとも・・・まさとを連れ去った報告、かしら?」
「あら、気づいていたのね。人間になっても、そういうのはちゃんとわかるのね」
私もMも挑発的に言う。
「でも、連れ去ったことを知っていながら、どうしてそんなに冷静でいるのかしら。もしかしたら、もう彼を殺しているかもしれないのに・・・それとも、まだ殺されていないと断言できるのかしら?」
私は妖しい笑みを浮かべて言う。
Mは小さくため息をついて
「あなたにまさとを殺すことはできないわ」
と、言った。
私はMの言っている意味がわからなかった。
「それはどういう意味?私に人間を殺すことができないとでも言うの?それとも、彼に何か細工をしてあるの?」
「そんなことを言っているんじゃないわ。ただ、あなたにまさとを殺すことができないって言ってるの」
「意味がわからないわ。一体、どういうことなの・・・!?」
私は少し感情的になって訊いた。
「だって、あなたには簡単に殺すことができるはずだもの。でも、あなたはまさとを連れ去っただけ。おかしいじゃない。それに、連れ去ったってことはあなたは本当の目的をまさとに話したはず。別にそんなことを話さないで殺したって全然いいはずだけど。あなたが本当に苦しめたいのは私なのだから、まさとに話す必要はないでしょう?」
Mは言う。
要するに、奏井 まさとをすぐに殺さなかったことがおかしいと言いたいようだ。
だけど、それがどうして殺せない理由になるのか、まったく理解できない。
「Y、あなたは昔と変わったわ。あなた今、“氷の女王”と呼ばれているのでしょう?私がウァンパイアの巣にいた頃から、たしかにあなたは氷のように冷たいウァンパイアだったわ。だけど、今のあなたは違う」
Mは断言した。
「今の私と昔の私が違う?今も昔も私は何も変わっていないわ。変わったのはM、あなたのほうでしょう?」
私は訊く。
だけど、Mは首を横に振り
「今のあなたはいろんな感情を見せている。はじめは私たちを惑わせるための演技かと思っていたけど、今ははっきりとわかる。最近のあなたはいろんな感情を持ち始めたことに。そしてそれが、まさとた関わったからだということに」
と、私の目をしっかり見て言った。
私はMから何故か、視線を逸らすことができなかった。
私─奏井 海花─はYが消え帰ったあと、窓から赤い月を眺めた。
きっと、まさとは大丈夫。
まさとなら無事に帰ってくるはず。
あの子は奏井 隼人の息子だから────・・・
それに・・・
「私はあなたを信じているわ、Y」
もうここにはいないYに向けて、私は呟いた。
きっと、いいえ、絶対に。今日、ウァンパイアたちに人間が襲われることはない。
Y、あなたは私と同じ道を辿ることになる。
だって、あなたはまさとに特別な感情を抱いている。それを認めたくないのか、はたまた自覚がないだけなのかはわからないけれど。
Yは確かにまさとと一緒にいるなかで変わっていった。とても良い方向へ。
「隼人、私たちの子供は、ウァンパイアに恋をしたわ。あなたと同じように。そして、やっぱりあなたと同じように救い出すのでしょうね。私はそれを願っているわ」
***
俺は、気がついたら椅子に縛りつけられていた。
目の前にはウァンパイアの姿をした由美が立っている。
赤い瞳は光を失い、表情すべてがとても冷たかった。まるで、別人のようだった。これが本来の由美の姿なのだろう。
俺はやはり騙されていたようだ。俺は小さくため息をついた。
そして、由美の目を見て訊いた。
「ここは、ウァンパイアの巣か?」
由美は冷たい目で俺を見下ろしながら頷く。
「そうよ。あなたは今、ウァンパイアの餌となるためにここにいるの」
感情のない声で由美は言う。
だけど、感情を殺しているようにも感じられた。
俺が黙って由美を見ていると、由美のほうが訊いてきた。
「怖くないの?」
俺は鼻で笑って
「別に。由美とずっといっしょにいたせいかな?ちっとも恐怖心を感じないよ」
と、答えた。
それは痩せ我慢だけど。
本当は怖い。すごく怖い。
でも、この恐怖はたぶん、殺されることにたいしてじゃない。これはきっと、由美とこんな別れ方になってしまうからだ。
でも、まだチャンスがあるかもしれない。
やっぱり全部が演技だったなんて信じられない。
これは、最後の賭けだ。
「由美、俺は簡単に殺されないよ。だって、俺は言ったんだ。お前を守るって・・・でも、この状況で何から守るんだって話だから、訂正させてくれ」
由美は俺を睨みつけるように見ている。
だから俺は、優しく笑って由美を見る。
「俺がお前を救い出す」
由美がピクッと肩を動かした。
「救うって、何から?」
由美は小さな声で訊いてきた。
「このウァンパイアの世界から」
俺がそう答えると、由美はわけがわからないという風な顔をした。
「由美はきっと、俺たちを殺せない。だって、由美はいろんな表情を見せてくれただろ?はじめは演技だったとしても、今は違うはずだ」
「どうしてそう思う?」
「一緒に過ごして、楽しかったからだ。お前だって少しは楽しいとか思ったはずだ。今だって感情を殺しているだけで、本当は俺たちを殺したくないと思ってる」
「私は楽しいと思ったことはないし、殺したくないなんて思っていない・・・!」
由美は声を荒げて言った。
だけど────・・・
「そんなはずはない。だって────・・・」
俺は一呼吸おいて、続ける。
「お前、泣いてるじゃないか」
「・・・え?」
由美は俺に言われてはじめて、自分が涙を流していることに気がついたようだった。
「どうして、涙なんか・・・」
由美は呆然としながら呟いた。
「心は嘘をつかない。それが由美の本当の気持ちだよ」
俺は笑って言う。
「この紐、はずしてくれないか?一緒にここから出よう」
俺が続けて言うと、由美は涙を拭って、光のある瞳で頷いた。