綿津見ストラテジー(終)
「それでこれはどういうことか、説明を願うでござるよ」
珊は風津を見下ろしながらそう言った。彼女が高い位置にいるのではない。風津が頭を低くしているのだ。
場所は戻って、風津の家である。彼らは正面から向かい合っていた。
風津の姿勢をずばり言えば土下座である。
二人の間に転がっているのは小銭が三つ。なんと東印度会社より仕事を受ける前より減っているではないか。
そのことの責任をいま、珊は問うているのであった。
「や、違うんだ。あいつら、俺が金を手に入れたことをどっかから聞きつけやがって、押しかけてきてなあ」
「何を言うてるでござるか! そもそもの話、なぜ百両近くの借金を背負うておるのか!」
二人が受けた仕事の報酬はきっちりと支払われた。前金も食費以外はまったくの手付かずであり、ほぼ百両な財産を保有していたのであった。
だが、それも束の間、風津の元に押し寄せて来たのは金貸しから呉服屋、団子屋から蕎麦屋、さらには女郎屋まで。
そして全員が全員、口を揃えて風津の借金を取り立てたのである。
利子も含めて膨れ上がった借金を返済した結果、ついにほとんど無一文となってしまったのが、いまの二人の状況である。
「か、勝てば返せると思って」
「ほほう、女郎屋で何を競ってたのか、聞かせてもらいたいでござるな」
「……我慢?」
「戯け! 借金してまで通うとる時点で大敗北でござるよ!」
そう怒鳴り散らす珊に、風津は何も言い返せない。共に暮らす者として言い合うならともかく、人として善とはなんぞやと言われてしまえば、ぐうの音も出なかった。
「まったく、少し見直したというのに……」
「金ならまた稼げばいいんだ。むしろ、借金を返せたことを喜ぼうじゃねえか」
「それは! 拙者の言葉で! ござる!」
畳を叩く珊。ちゃりんと少しだけ銭が浮いた。
ため息をついて、風津は珊をじとっと見つめた。彼女の薄い胸はともかくとして、その姿は自分の中にある記憶を掘り起こさせる。
「なんでござるか」
「いやあ……お袋に似てるなあと」
「な、な、な、言うことに欠いて御母堂と似てるなどと!」
「口うるせえところとかそっくりだ。いや、そういやおめえは俺のお袋とか婆よりもずっと年寄りなんだったな、失敬」
かちん、という音が聞こえた気がした。しまったという感覚が背筋を駆け抜けたときにはすでに手遅れ。怒りの形相を一層深くした珊は、風津の胸ぐらを掴んだ。
「風津殿、おぬしはどれだけ拙者の乙女心を玩べば気が済むでござるか?」
「わ、わるい、わるかった、ゆるしてくれ」
仕方ないでござるな、と言って珊はすぐに手を離した。今後は年齢については触れぬようにしよう、と心に決めた風津である。
そんな話をしていると、戸が開く音がした。見れば金色の髪を持つ女性、シーラがそこにいた。
「相変わらず尻に敷かれてるのか」
「あんたにその日ノ本言葉を教えたやつをぶん殴りたくなった」
この男口調の日ノ本言葉を操る和蘭者が、その意味をきちんと理解しているかどうかも不明である。
ともあれ、顔を見知っているとは言え客がやってきたからか、途端にしゃっきりとした珊を睨みつけた。
「それで、要件はなんだ」
「ああ、東印度会社への勧誘だ。ぜひともその力が欲しい、と」
目を鋭くしたのは風津だけではない。珊もだった。一瞬だけその瞳を光らせて、次いで閉じる。
いまや風津の所有となっている彼女であったが、元はと言えば公儀隠密のくノ一である。相手が東印度会社だからと言って、易々と明け渡すわけにはいかない。それに、その身分を明かすことさえ命取りになりかねないのだ。
風津の生活には口うるさい珊であったが、自分の身については薄情であった。いまも、風津に全権を委ねている。
「心配は必要ない。私は貴方たちのことをよく知っている。珊が幕府の遣いであることも、だ。それに、貴方の血筋のことや、その剣のことだって聞いている」
「は、は⁉︎」
思わず声を上げてしまったのも無理からぬことである。シーラはそのまま続ける。
「風津、貴方が借りている金も百両で足りたか?」
「てめえ、まさか」
「そのまさか、だ。話は聞かせてもらった。細々とした借金でも積み重なればどうなるか。調べるのには苦労しなかったが、やたらと時間をかけてしまった」
わなわなと震える風津。つまり、シーラは、東印度会社は、はじめから風津がどれほどの負債を抱えているかを知っていて仕事を持ちかけたのだ。報酬についても、確実に欲しがるほどの金額を提示するために、調べ尽くしていたのである。
実のところ丸裸の状態であったと明かされて、頭をとんかちで殴られたかのような感情を覚える。
「それで、誘いというのは、我が社で働かないかということだ。ぜひとも戦力として貴方たちが欲しい」
「……俺も、か?」
「無論だ。人に対して無力であっても、鬼に対して絶大な力を持つ貴方の剣は、葡萄牙に対する切り札となりうる。それに、いかなる状況であっても他者を想う義侠心もあれば、そこの素晴らしい力を持つ絡繰の持ち主である。これを逃す手はないだろう」
そう言われてしまえば、東印度会社からすれば、風津は喉から手が出るほど欲しい人材なのだろう。たかだか海坊主……蛸入道を討伐するために、個人に百両もの大金を積めるほどなのだから、資金だって豊富だと伺える。これからの生活に困ることはないことは簡単に考えられた。
しかし、風津は首を横に振る。
「わりいな、俺は俺以外の何かに肩入れはしねえことにしてるんだ」
「この困窮から抜け出せるのに?」
「困っちゃいるが、悪くは思ってねえんだよ」
「それは人としてどうかと思うでござるが……それでこそ風津どの、でござるな」
思わず口を挟んだ珊であったが、顔には満面の笑みを浮かべていた。なにを納得したのか、しきりに頷いている。馬鹿にされているとも思ったが、悪い気はしなかった。
二人の様子を見て、シーラは諦めたように立ち上がり、言った。
「今回は諦めるが、また気が変わったら声をかけてくれ。仕事も持ってくる」
「おい、待てよ」
風津が呼び止める。シーラは商い用の笑みを浮かべていた。
「てめえ、通訳なんかじゃねえだろ。俺のことを勝手にべらべら喋りやがって、そんなやつをどうやって信用しろって言うんだ」
「それならば、そこのくノ一に聞いた方が早い」
珊の方へと振り向く。彼女は深く頷いて、口にした。
シーラの名と、その身の真にある場所を。
「シーラ・ティチング。東印度会社の社員にして和蘭商館の副館長でござる」
「なっ、それマジかよ!?」
驚く風津を見て、シーラはここ一番の笑い声をあげた。
「ご名答。今度、またゆっくり話そう。できれば私の母国語だと大変嬉しい」
「考えておくでござるよ。さよなら、でよかったでござるか?」
「上手いものだ。まったく、我らの言葉も理解している者を置いているとは、幕府も抜け目がない。公儀とやらにはよほど良い首領を置いているのだろう」
にやり、と彼女は笑う。そして風津の耳に口元を寄せると、小さな声でつぶやいた。
「無論、貴方のことも諦めていない。個人的興味もある。船の上で抱きしめられたとき、初めてのことでな、惚れるかと思ったぞ」
思わず風津は震えた。高揚ではなく、むしろ寒いものが走ったような感覚さえした。
この女は危険だ、と本能が告げている。深く関われば痛い目を見そうだとも思った。
すっと離れた彼女は少しだけ頬を赤く染めていた。
「だが、吐くのは勘弁してくれ」
「金輪際てめえのところの船には乗らねえからな!」
風津の言葉を聞いて、シーラは手を振って去っていく。その後ろ姿を見て、二度と会いたくないと思うほどであった。
しかし会わずにはいられないだろう。これからも依頼をしてくると言っていたからには、必ずやってくる。風津の勘がそう告げていた。
ため息をつくと、腕が抓られる。痛みに顔をしかめながら珊の方を見ると、彼女は顔を膨れさせていた。
「南蛮の女が好みなのでござるか?」
「ああ? いや、そんなこたあねえよ。むしろありゃあなあ」
「シーラ殿の胸を見ていたくせに。先ほどもこそこそと、拙者に何か疚しいことでも話してたでござるな?」
「なっ、おめえ、本当は聞こえてたくせに何言ってやがる!」
風津がそう言えば、珊は露骨にふくれっ面を浮かべて、風津をぽこぽこと叩いていたのだった。
二人のじゃれあいはこの後、一刻ほども続いたのであった。