綿津見ストラテジー(下)
とてもお聞かせできない音を立てて、風津は腹の内にあるものを口から出していた。海の中にそれらは飲み込まれていく。
端的に言えば、酔っていたのである。酒にではない、船にだ。
三日が経って風津を乗せた船は出航し、さらに一日が経っていた。
顔を真っ青にしている風津を気にかける者は一人しかいなかった。
「おええ、うっぷ」
「大丈夫か。水を飲め。遠くを眺めろ。いくらか楽になるだろう」
肩口まで伸ばした金髪を海風に揺らして、シーラは隣に並んだ。彼女が渡してきた水筒を口に含んで、遠くを眺めた。
陸から一面の海を眺めることはあれど、どこを見渡しても大海原という光景は想像したこともなかった。いざ、船上に出て見た光景は、想像を絶するという言葉がふさわしいだろう。
いま向いている方角は西である。大陸には清があり、その先にある砂漠を越えれば玄奘三蔵が訪れたという天竺である。和蘭や葡萄牙はさらにその西にあるというのだから、驚くしかない。思いを馳せるも、絵にも見たことのない風景を描くことはできなかった。
船は一隻のみである。本来ならばもっと多くの艦隊で行くべきだ、と拙い日ノ本語で言ったのは船長のラインだった。
しかし、ただでさえ少数で訪れている日ノ本に、交易以外に割く人員などあるはずもない。これでも交渉して増員してもらったのだと言う。
いくらか楽になって、顔をあげた。情けない姿を晒してしまったことを恥じながら風津はシーラを見上げると、彼女は不敵に笑った。
「安心するといい、誰もがそんなものだ。ここにいる多くの水夫たちも、初めて乗船したときは吐き気を催したものだ。もちろん、私も」
「美人のそんな姿は想像したくもねえがな」
風津が言うと、彼女はくすりと笑う。
「日ノ本の者は女を口説かないと聞いていた」
「なに言ってんだ。誰も言わねえから俺が言う。そうすりゃ、俺だけが得をするんだよ」
にまり、と今度は風津が笑った。シーラは釣られて大きく笑う。
「船で嘔吐しているような男に惚れる海の女はいない」
「さいですか、そりゃあすみませんね」
目の前を水夫たちが駆け回る。彼らは粗暴で声も荒げることが多い。ときどき喧嘩をしているのも見る。言葉の意味はわからないが、罵っていたり、下品なことを言っているということだけは伝わるものであった。
一方で、彼らの連帯は固いものだ。いくつもの戦場を共にした者たちが阿吽の呼吸で応え合うように、彼らもまた海という戦場を共にしてきた者なのだろう。
しかし、それは男所帯だからこそだと思えた。珊のみならず、シーラもまたこの場では浮いている存在なのである。
「あんたまで来ることはなかったんじゃねえか。ここじゃあ役に立たんだろ」
「通訳がいなければ、貴方たちは彼らの言葉を理解できないだろう」
「海坊主を討つだけだぜ? 俺がいりゃあ十分だろうに」
「そうはいかない。私たちの役割は海坊主を討つことが第一ではない。天草、そして葡萄牙との戦いを進めることだ。そのための作戦だ。それに、私たちが雇い入れたとは言え、水夫たちにとって貴方たちは余所者だ。その緊張を少しでも解こうとこうしているんだ。わかってくれ」
「へいへい、わかりましたよ」
風津は苦笑いをして言った。はっきり言ってしまえば、風津はシーラのような女は苦手だった。
腕っ節が強い女は嫌いじゃない。一歩下がるべし、だなんてことも言いはしない。それは贅沢というものだと風津は思っている。対等なくらいがやりやすいのだ。反面、自分が、という主張の激しい者はあまり得意とは言えない。
しかし、それも仕方のないことだと思えた。東印度会社は交戦権を持っているのだという。武士でもないのに、と思わずにもいられない。生まれによる許しを得ず、ただ役割によって人を殺めなければならないということがどんなことなのか、想像もできない。
そんな世界で生きてきたシーラであるから、自然とその存在を主張しようというもの。風津はそう納得していた。
「もうじき、海坊主が目撃された海域だ」
「こんな何にもない海で、どこにいるかなんてよくわかるな」
「星がある。風もある。遠目に島も見えた。そうすればある程度はわかるものだ」
さすがは世界を渡りゆく和蘭印度会社だった。
「お取込み中失礼するでござるよ」
そう言って降りてきたのは珊であった。帆柱の上にて警戒にあたっていたが、鋼糸を巧みに操って宙づりになっている。
シーラは目を見開いた。
「びっくりした。曲芸師だったのか」
「そのようなモノでござる。して、報告をば。彼方より船影が一隻、こちらに向かっているでござる。旗には聖餐杯に祈る天使、島原の船でござるな」
「……相手の様子は?」
「こちらと接敵するのが目的なのでござろう、すでに用意を整えていたでござる。が、いまからならこちらも用意して迎え打てよう」
珊はそう言うと、甲板に降り立った。
感心したようにシーラは珊を足元から頭のてっぺんまで見る。そしてラインを呼んで、珊が伝えたことをそのまま口にした。頷いたラインは大声で水夫たちに呼びかける。彼らは一斉に動き出した。帆を広げて、それぞれの配置につく。
その様は熟練のもので、風津も感心するほどだ。
「優秀なんだな。東印度会社に来ないか。厚い待遇で迎えよう」
「それは命あってのお話、この場を切り抜けることが先でござるよ。それに、我が身は今や風津殿のもの。まずはそちらに承諾をもらうのが筋でござる」
シーラがちらりと風津を見た。視線に気づいた風津は、急加速した船の揺れで倒れかけ、手摺にしがみついている。吐き気を堪えながらおっとっと、などと口にしている様子は、不死殺しの異名を持つとは思えないほど無様である。
「あ、俺は戦わないからな。そっちで勝手にしておいてくれ」
「なっ、腰の刀は飾りか?」
「昔から邪を祓う祭具は飾りなんだよ。それに、俺は人を斬る剣は持たねえんだ」
そういうと、はあ、とシーラはため息をついた。いよいよ風津を雇ったことを後悔しているだろうが、それはもう遅い。
一方で珊は満面の笑みで頷く。
「では、拙者が露払いを務めるでござる。風津殿は英気を養うといいでござるよ」
「そうさせてもらうぜ」
風津が頷くと同時に号砲が鳴った。海面に着弾し、水しぶきをあげる。敵方の船の大砲だった。それに驚いたのは風津のみである。水夫たちは揺れに備えはしても、忠実に船長の指示に従っていた。
「これは牽制でござるよ」
「ああ、くそっ、まだ地上の合戦なら逃げ場があったんだがな」
珊の言葉に風津は言った。
葡萄牙船の目的は海坊主であっただろう。しかしこちらの動きを知って、追ってきたに違いない。
風が吹いている。その方角に相手の船があった。
再びの砲撃。着弾地点が近くなってきている。この船に直撃するのも時間の問題だった。
わずかに旋回する。船尾を守るためだ、と珊は言った。南蛮が用いる船は、両舷は強固に作られていても、船先と船尾は脆弱なのだそうだ。風津はいま乗っている船の構造を思い浮かべると、確かに船尾には船長室などがあって、お世辞にも大砲に耐えられる作りであるとは言えなかった。
「お珊、おめえ、海戦の経験はあんのか」
「毛利の水軍に紛れ織田と戦ったことならあるが、南蛮船は初めてでござるな」
「ほんと、でたらめみてえなやつだ」
こいつがいれば、日ノ本の歴史を編纂できるのではないか。そんな思いさえ抱いた風津であった。
* * *
さて、船影はいよいよ間近にまで迫っていた。剣の切っ先を届けるには足らず、弓矢を放つにしては心もとない距離ではあったが、船に積まれた大砲であれば双方ともに射程に捉えていた。
風上は相手にある。風に乗って彼らは急激に近づいてきていた。一瞬にして、風津の乗っている船は静まった。それを嵐の前の静けさと呼ぶのは、船上において不吉だろうか。
相手の船の大砲が音を鳴らした。同時にラインの号令が響く。同時に斉射される大砲は、双方の船に直撃した。
角度の問題だった。こちらの進路を遮るように相手の船は横腹をつけていた。ゆえに、こちらを捉えている大砲の砲門数はあちらの方が多かったのだ。
声が再び響いた。怯むな、と言っているのだとわかった。
「双方ともに損害は少ない。このままだと白兵戦になるでござるな」
「あっちが乗り込んでくるってことか!? そいつは勘弁願いたいぜ!」
「ほんに、情けないでござるな!?」
「るせえよ、命あっての物種よ!」
「前に言っていたことと違うでござる!」
言い合う二人であったが、日ノ本言葉がわからない水夫にとっては気合を入れているようにも見えたのだろう。彼らは抜刀していた。唯一、日ノ本言葉を側で理解していたシーラは呆れ顔をさらに深刻にさせていた。
大砲を撃ち合いながら、葡萄牙船が横腹をぶつけて接舷した。衝撃を逃すように避けてみせたのは操舵手の腕だろう。
あちら側から橋がかかった。次いで、綱などを用いて相手の船員が乗り込んできた。
その人物たちは南蛮人ではなく日ノ本の者たちであった。みな刀を振るって、水夫たちと戦いに入る。
一人が珊に向かって斬りかかってきた。珊は小刀を抜いて、それを待ち受ける。
「チェストオオオオォ!」
「おぬし、薩摩者でござるか!」
掛け声から、珊はそう言った。振り抜かれた刀を軽い身のこなしで避けて、隙だらけの腹を斬った。
”二の太刀要らず”なる教えがある。薩摩に伝わる示現流の言葉である。一の太刀に全霊を込める。二の太刀については考えない。それは必殺の一撃であったが、避けられればそれまでという、良く言えば潔い、悪く言えば後を一切考えないということだ。
相手は天草の者たちで相違ないようだった。そうなれば、白兵戦もこちらの不利に違いなかった。相手は勇猛果敢な薩摩者、こちらは荒々しくも個々の能力に劣る水夫たちである。
その中で奮戦する者がいた。一人は珊であった。伊賀の上忍たる歴戦のくノ一は、忍ばずとも絡繰の肉体を活かし、相手を確実に仕留めていく。
もう一人はステファンだった。屈強な肉体を持つ偉丈夫は相手を鎧袖一触になぎ倒す。いかに薩摩者であっても、彼の大きな肉体には恐怖を感じるようであった。
「いやあ、見事なもんだ、うぷ、おええ」
「あ、貴方は……」
風津がもう出すものもないのに吐いていると、シーラはやはり呆れていた。揺れは大きくなる一方で、風津の吐き気は止まらないのである。
がごん、と一段と大きく揺れた。それと同時に、景色が少しずつ傾いていく。いいや、傾いているのは船の方だった。相手の船の方へと傾けられた甲板を人が滑っていく。
「おいおい、なんだありゃあ! 相手の船から腕が生えてやがる!」
風津がそう言った。相手の船の横腹が細かく分断されて、腕を形成していた。それは和蘭船を掴んで持ち上げていたのだった。
間違いない、島原側の船は絡繰仕掛けを仕込んでいたのだ。思えば道理である。彼らの目的が海坊主を捕らえることであるならば、相応の策があって当然なのだ。思ったよりも苦戦したから、その秘策を用いたに違いない。
絡繰捕妖艦とでも呼ぶべきだろうか。吐き気を堪えながら目を凝らせば、鬼核と思われる気配が船尾に感じられた。
「ええい、面妖な! だが絡繰ならばしめたもの、俺が叩っ斬ってくれる、うっ、おえええ」
「吐くか話すか、どっちかにしろ! というか吐くな!」
シーラのそんな叫びが聞こえた。傾きはどんどん急になる。帆柱からかかる網に掴まる風津は、滑って落ちそうになるシーラを咄嗟に抱きかかえていた。あちこち触れてしまっているが、感触を楽しむ暇もない。
すると、絡繰捕妖艦の腕に何か黒い影が見えた。それは二つの腕を捕らえると、関節を締め付けて粉砕したではないか。
いいや、それだけではない。島原側の絡繰捕妖艦さえも捕らえてへし折り、海の中へと引きずり込んでいく。
解放された和蘭船は、大きな水しぶきをあげて着水した。なんとか角度を取り戻したものの、何人かの水夫が投げ出される。彼らを救ったのは珊であった。鋼糸を操って、彼らを甲板に戻したのである。
「な、なにが起こった!?」
シーラがそう言うと、風津が立ち上がる。先ほどまで顔を真っ青にしていたが、このときばかりは平時以上に顔を厳しくしていた。
「来たぞ、でけえ気配だ……」
そう言うのと同時、それは姿を表した。
大きく真っ黒な坊主頭に、横についた黄金の瞳。頭には嫌に光る漆黒の角を生やしている。
なるほど、海坊主……などでは断じてない。その頭部よりうごめくのは百もあろうかという腕だ。大小様々で、吸盤までついている。
「こいつ、海坊主じゃねえ、蛸入道だ!」
怪異の正体は巨大な蛸であった。年を経た生き物は妖気を得るものである。狐、狸、猫、亀、そして人もだ。その中に蛸が入らない道理はなかった。
そして頭から生えている角こそ、鬼である証だ。絡繰捕妖艦にあった鬼核を取り込んだことは明白であった。
厄介な相手だ、と考えるのもつかの間、蛸入道はその腕を水夫たちに向けていた。
「まだ食い足りないか、こいつめ!」
腰に差していた獅子丸を抜き放つ。半ばより折れた刀が、腕を捌いていった。その多くはシーラを狙ったものである。
水夫たちもまた狙われた。数人が海の中へと飲み込まれそうになるも、珊がその両手で鋼糸を操って助け出す。
しかし、それが隙になったのであろう。相手は腕を幾本も持っている。両手の封じられた珊を蛸入道の腕が捕まえた。念入りに四肢と胴体に絡みつかせている。
彼女もまた絡繰であるから、蛸入道にとっては格好の餌であった。彼女の中にある鬼核に馳走の気配を察したのか、蛸入道は目を細めた。
引きずり込まれそうになる彼女は、大きな声で叫ぶ。
「なんのこれしき! 絡繰起動、忍法・天狗の踵!」
そう叫ぶと同時、珊と蛸入道の力が拮抗した。見れば、その足から杭が伸びている。それが甲板に突き刺さり、彼女を支えているのだ。
ステファン、とシーラが名を呼んだ。彼はその筋肉を増していた。そして珊を捕らえている腕を掴めば、蛸入道を引っ張り上げた。
ステファンもまた、異能の持ち主であった。怪力は化外に類する者の能力であったが、それを問う暇もない。
驚きに顔を歪める蛸入道に向かって、風津が駆ける。半ばより折れた刀を上段に構えて大きく飛んだ。
「なに人様のもんを気安く触ってやがる、くたばりやがれっ!」
そう言い放ち、一閃。蛸入道の内にある鬼の力を断ち切ってみせたのだった。
そのまま海に落ちそうになる風津を、珊の鋼糸が回収する。ぐるぐる巻きにされて甲板に叩きつけられた風津は、自身の扱いの雑さを痛感した。
「い、いってえ。なんかいろいろ痛え……」
「お見事! あの蛸入道を倒したでござるよ!」
駆け寄ってきた珊が、風津に抱きついてきた。それだけであれば微笑ましいものであったが、問題は彼女があの蛸入道に絡め取られていたことであった。
ぬるぬるとした感触と独特の臭いは蛸の肌のものである。それをなすりつけられた風津は再び酔いにも似た感覚を発症する。
「う、くさ、うえ、おえええ」
「なっ、失礼なやつでござるな!? 乙女心が! 拙者の乙女心が!」
その様子を見て、シーラは思わず笑ってしまった。その笑いは伝染していって、甲板を充したのだった。