新世界よコンニチハ(其の弐)
幼馴染のお通が、切支丹であった。
江戸幕府が禁じている教え、基督教。天帝を奉り、己の中にある罪を見つめる……そんな教えだと、風津は理解している。
室町の時代の最後、フランシスコ・ザビエルなる者をはじめとし、南蛮から多くの宣教師がやってきた。彼らは国中にその教えを広めていった。天帝を拝みなさい。みなは平等なのだから、隣人をも愛しなさい。かの織田信長はそれを許したし、大名の中には基督教によって統治しようと試みたほどだった。
だが、その教えは、織田、豊臣に認められようと、徳川の支配する世では都合が悪かった。
詳しくを語ることははばかられるが、既存のものを損なうような行いが見られたのだ。人々は平等であるという教えは、不都合であったのだろう。あるいは、彼らの教えからして、寺社仏閣などは不都合だった。古くから日ノ本にいた宣教師に連なる者は一定の配慮を見せたが、その後入ってきた者はそうではなかった。
多くの暗躍があり、事件を経て、江戸幕府は禁教令を出すに至る。商売、信仰、政治など様々な事情を鑑みた結果である。
そして、切支丹を中心とする者たちによる、島原での反乱がいまもなお続いている。
なぜ台場町が存在するのか、と言えば、海外との窓口を狭くすることで、基督教の拡散を防ぐためである。多くの監視の目があり、高くそびえる壁の上に砲台を外ではなく内へ向けているのは、そうした事情だ。
風津はお通を、馬鹿だ、と思った。
この台場町は江戸の下で最も基督教に近い場所であり、最も基督教に厳しい場所である。
「おめえ、どうしてだ」
いろんな疑問が胸を渦巻いて、吐き出された言葉はそれだった。
お通は目を閉じる。
「だんまりか」
「……私を、奉行に突き出すの?」
「んなことはしねえよ」
その言葉に、ほっとするようにお通は笑った。
「よかった。佐之助は、嘘はつかないもんね」
「わかったみてえなことを言うんじゃねえ。俺はさっぱりなんだからな」
「……ある日ね、私たちの元にやってきた人がいたの。その人は、みんなを救うって言ってた。誰も信じなかったけど、私は聞いたんだ。そのみんなって誰? って」
その人は答えてくれた。誰もがためらうような、夢のような答えを、確信を持って言っていた。
「この世に存在する、遍くすべての人を。その中には佐之助、あなたも入ってるって」
「……おめえ」
「私は、それを聞いて頷いた。どんな生まれであっても、信じ行えば救われる。それはとても良いことのように聞こえたの。良いことをすれば、良いことがある。そこに、あなたが誰だとか、どこの生まれで……先祖に鬼がいるかなんて関係ない。そういうものだって」
「そんなことのために、禁じられている教えに手を染めたって言うのか」
「そんなこと? そんなことって言った?」
お通は、さっきとは打って変わって、怒りの形相を見せる。
その表情は幼馴染である風津の記憶にすらないものであった。
「私にとって、佐之助が、そんなことなわけないでしょ!」
鬼気迫る、とはまさにこのことである。決して武芸を嗜んでいるわけのない、それどころか刀も薙刀も握ったことのない娘が発するものとは思えぬほどの覇気であった。
思わず一歩引いた風津であってもやむなしと言えるだろう。
「私がどれだけ、どれだけどれだけ、心配したか! あんたも! 又八も! そうやって人のことを小さく見て!」
「わ、悪かった、そんな大声を出すんじゃねえよ」
風津が諌めれば、お通は渋々といった様子で従う。
小さく胸を拳で叩く。痛くはなかったが、不思議と重く感じられた。
「俺はどこにもいかん」
「本当に?」
「いまさら信用しろとは言わん。だが、あえて言わせてもらうが、俺はここにいるぜ」
「……わかった。嘘はつかないもんね、佐之助は」
繰り返すように、あるいは自分に言い聞かせるように、お通は言った。
でも、と風津の袖をつかむ。
「私と一緒に来てほしい」
「あん? どこか行きてえところでもあんのかよ。あいにくだが、この台場町は学者や商人にとってはありがたい場所だが、俺らみてえなのにはそんな価値のあるようなもんじゃねえぜ」
「ううん、違う。一緒に行こう、島原に」
風津は言葉を失う。いま、とんでもないことを言いやしなかったか。
もう一度、今度は冷めた目で、風津はお通を見た。彼女は怯んでいるが目は強い。本気で言っているのだ、とわかる。
お通は武蔵国より、花火大会の手伝いの名目でやってきたのだという。であるならば、彼女とともにやってきた者もまた、目的を同じくする者だろう。
「まさかおめえら、この台場町から出て行くためにそんな危険を……。いや、言うまい。おめえも言葉に気をつけろ。この台場町には公儀の隠密衆がたくさんいる。誰が耳にしているかわかんねえぞ」
「だからこそ、彼らは気づかないはずよ。私たちの企みに。全部秘密裏に行われてる。私たちは花火大会に乗じて、この台場から外へ出るわ。そして行くの、誰もが平等な場所へ」
「それはずいぶんと甘え考えだ」
興味をなくして風津は、もはや聞く気はないという風に足を違う方へと向けた。
「俺は忘れるぜ、このことはよ。おめえは勝手にしろ」
「佐之助、これはあんたのために!」
「うるせえよ。もう知らん……一切口にするな。おめえらの策が成ろうが成らなかろうが、俺の知ったことじゃねえってんだ」
そう言って、風津はお通から少し距離をとった。お通が伸ばした手は空を切る。
ふざけた話だ、と思う。
平穏で、平等な地。さて、それは天国だとか千年王国などと言っただろうか。風津とて知らぬわけではない。師の元で習った妖の類、鬼道の技の中には当然として南蛮由来のものも含まれていた。かの地の悪鬼の類を相手にすることが、万が一にもないとは言えない。師に曰く、南蛮にありし異端の神々は書という形で語り継がれ、その中には常世とも異なる世の者たちすらも記されていたという。
ゆえに、様々な知の中で、ことは日ノ本のみではないと伝えられた。基督教のことをよく、教えられたのだった。
「おめえらの語る天帝とやらが何なのか、知らねえわけじゃねえからな」
むしろ、お通や、彼女とともにやってきた信者たちよりも深く理解していると言っていい。
だからこそその思いも、わからないものではない。
「さあ、こんなところは出よう。せめておめえがいなくなるまでは、幼馴染の義理を果たすさ」
「……佐之助、どうしても」
「何度も聞くんじゃねえ」
通りに出ると、目の前は川であった。
空は曇っているが、いまのうちに雨でも降ってくれれば花火大会には晴れるだろうか。
そう思ったとき、風津に悪寒が走った。腰の刀を構えながら、お通を背に隠した。
「佐之助?」
「黙ってろ」
飛んできたのは針手裏剣であり、その後ろにぴったりとくっつくように人影が飛び込んでくる。
針手裏剣を弾いたのでは、人影には対応できない。そう判断するや否や、腕で針を受け止めてから、鞘ごと抜いた刀で人影を迎え撃った。
激しい音が鳴る。人影は身軽な動きで距離をとった。
手に握られているむき出しの短刀と、見覚えのある顔がそこにあった。
「お珊……!」
その名を呼ぶものの、彼女はその目を妖しく光らせただけであった。
* * *
風津は刀を抜くことはしなかった。
半ばで折れている刀、獅子丸は尋常のものではない。なくなった切っ先は冥界の持ち物であり、鬼の持つ、この世に留まるための糸を断ち切る。
そして、それは鬼核で動いている絡繰である珊でさえ例外ではない。
時に人よりも容易く鬼を斬ってしまう獅子丸を抜くわけにはいかなかった。
「佐之助、これってどういう……?」
「あいつは公儀の者だ」
簡潔に風津は答える。お通ははっとして、身を風津の後ろへと隠した。
じっとにらみ合いが続く。風津は自分の背筋に嫌な汗が流れるのを感じた。
風津は彼女と戦ったことはない。手合わせでさえしたことはなかった。たまたま機会がなかったのか、意図的に避けていたのかはわからぬも、いままで彼女とお互いの武技を交えたことはなかった。
それでも、ずっと隣で戦っている彼女を見ていて、その実力はよくわかっている。
「おい、こいつはどういうことだ」
風津がそう呼びかける。ふらり、と珊は揺れる。
まったく読めない動きからの一振りが風津を襲った。鞘を振るって躱していきながらも、お通を背にかばって近づけさせない。
その動きに、わずかな違和感を覚える。これは珊のものではないと。一方で、既視感もあった。その感覚を手繰っていく。
「何か言えよ。そんなぶっきらぼうなやつじゃねえだろ、おめえは」
なおも言葉をかけるが、答える気配はない。
様子がおかしいと確信したのはこのときだった。そして、既視感の正体もわかる。
「……誰だ、てめえは。珊じゃねえな?」
「えっ。でも、あれはどう見ても」
風津の言葉にお通が言う。それに取り合うことなく、風津は目を細める。
「そこにいるのは誰だ、答えろ!」
無駄だろうとわかりつつも風津は声をかけ続ける。
珊の様子は、若返りの騒動の正体、すなわち絡繰に身を移したがゆえに操られることになった者たちによく似ていた。自らの意思によらず、何者かにその身体を使われている。
だが、いまの珊は少しばかり違う。どこにも珊自身の意思は存在しない。まるで中身が別の何かに切り替えられているようであった。
風津の誰何に答えはなかった。しかし、彼女はその表情で示す。にやりと笑った。
腕に刺さったままの針手裏剣を引き抜き、珊にめがけて投げつける。手裏剣術によって必殺の威力を持った針は彼女に突き刺さる。
その瞬間、陽炎のように珊の身体が揺れた。鬼道の技、あるいは忍術か。分身であった。
風津は空を見上げる。高く跳び上がった彼女がその脚を振り下ろした。その脚には杭が現れている。絡繰による忍法・天狗の踵だ。命を奪うに十分以上の威力を持っている。
お通を抱えて後ろに跳んで避けるも、珊の追撃が迫る。
「絡繰起動、忍法・雷貂」
折れた膝から先の丸まった角が突き出され、風津の腹へとめり込む。反射的にお通を手放した。痛みに苦悶の声をあげながらも、鞘を珊の頭へ振るうべく横薙ぎの構えをとった。
しかし、珊の忍法・雷貂はこの角による攻撃のみではない。その名の通り、雷が風津の全身をかけぬけたのだ。
身体の内から燃えるような感覚だ。握っていた拳が、力を入れていた脚が、すべて折れてしまう。
珊から離れて後ずさりしながらも、立ち上がることができない。自分の中を走った雷が、力を奪っていた。指先が麻痺してしまい、まともに刀を握ることもままならない。
構えを崩さない珊を見つめる。彼女の構えはいつもの伊賀流のものではない。むしろ、柳生新陰流のような、無手の構えに近かった。
かつり、かつり、と音がする。鎧の擦れる音がいくつも響いた。風津が気づいたときには、人影に囲まれていた。
それもただの人ではない。絡繰甲冑である。しかも、その姿には見覚えがあるではないか。かつて剣を交えた相手、岡崎正次によく似ていたのである。単眼にすらりとした出で立ちは、絡繰ながらも、いずれも相当な剣の使い手であることをうかがわせた。
この、量産型絡繰柳生甲冑とも言うべき彼らを見て、驚きが隠せないでいる。そして、それらとともにいる者が珊であるということに、風津はやり切れなさを感じた。
「こ、こいつはなんだ……おい、てめえ、説明しやがれ!」
「それは儂がしようかのう」
風津が声を荒げるとともに、絡繰甲冑の裏から現れたのは、一人の老人であった。
いや、老人というのはただの印象にすぎない。見た目は確かに人であり、老人であるが、その者もまた絡繰であった。生気をまるで感じない。風津にしかわからぬ感覚であろう。尋常の者であれば、彼を人と疑わない。おおよそ、絡繰の中でも特に精緻な出来である。
いつか戦った、永尾格次郎を思わせる人物でもあった。胸にかけている十字架が、彼が基督教者である証である。
「アンプロジウス様……これはいったい何なのです!」
その言葉を発したのはお通であった。アンプロジウス、というのはおそらく洗礼名だろう。
はっはっは、と笑ったアンプロジウスなる絡繰は、珊の頭を撫でて言った。
「この台場町を出て島原へと渡る前に、娘を返してもらおうと思ってな」
「んだと……てめえ、何者だ」
「確か佐之助と言ったな。我が娘が世話になった。いや、弟子もであったか? まあよい、人には興味がない。そんなことより、儂の作品をたくさん見ただろうに、その造り主のこともわからぬのか。学どころか素養のない」
「そうか、てめえ、有芭空士!」
その名はかつての人形演劇で、酒呑童子の人形を作った者として挙がった名であった。
当面の敵だろう、と珊とともに語っていた人物である。
稀代の絡繰職人にして、酒呑童子人形で神降ろし、いや、鬼降ろしを試み、岡崎正次を始めとする人の意識を絡繰へと移植しようと試みた狂気の科学者。
そして、いましがた、彼は言った。珊のことを娘と。
「どうだ、我が娘の使い心地はよかったか? いや、答えずともよい。わかりきったことだ。答えることもできないだろうがな」
「て、めえ……!なに言ってやがる、目を覚ませよ、珊!」
「逆だ、佐之助。我が娘は覚醒したのだ。その真の使命と人格に。そのように鬼核に仕組んだのもこの儂だ」
にやにやと、有芭空士は笑いながら言った。風津が信じているものを一つ一つ潰していくことに、快感を覚えているように。
風津は歯噛みをするしかない。目の前にいるのは、珊の姿をしているが、風津の知っている珊ではない。その器は自身の知るものであるのに、中身は違うのだと言われて、自分の中にある感情が揺れている。
立ち上がり、抜刀の構えを見せる。闘志はいまだ陰らず、胸にあった。むしろ燃え上がっているまである。
「馬鹿言ってんじゃねえぞ、返せよ」
「佐之助、もうやめて! アンプロジウス様も、どうしてそのようなことをするのです! ともに島原へ行くのでしょう。この人には関係のないことではありませんか!」
お通が悲痛な声をあげる。アンプロジウス有芭空士は、じろりとその生気のない目をお通へと向ける。
「お通、お前のあずかり知らぬことではあるが、儂は何度もこの男と戦っている。そして、我らの悲願の妨げになるだろうと判断したのだ」
やれ、と短く命じた。珊は頷いて、風津へと斬りかかる。短刀が踊って迫る。
その無軌道な動きは、普段の風津であれば見切った上で避けられただろう。反撃を入れることもできたかもしれない。しかし、身体が痺れてしまった風津はもはや、身動きひとつできず、立ち上がるので精一杯であった。
珊の刀が、風津の身を袈裟懸けに斬った。血を滴らせながらも、倒れることはしなかった。
一歩、二歩と後ろへと退いていく。
なぜ追撃を仕掛けてこないのか。霞む視界の中で、風津は珊を見る。目が合った。その瞳は揺れている。
「……! いかん、殺せ、やつを殺せ!」
有芭空士はそう言って、周りにいる絡繰甲冑たちに命じた。迫ってくる量産型絡繰柳生甲冑の刀を空を斬る。
風津はにやりと笑って川へと飛び込んだ。自分の傷を塩水につけることも厭わずに。
絡繰の身では、水の中へは入れない。かつて決め手として用いた知識を、今度は逃げの手のために使った。
この場は逃げる。だが、必ず戻ってきて、取り戻すぞ。
そう誓うとともに、風津の意識は途絶えたのだった。