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大江戸ダイバーシティ(連載版)  作者: ジョシュア
第伍話:有頂天オルタナティブ
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有頂天オルタナティブ(終)

「かぁ〜、美味いのう!」


 声が響いたのは、風津が住んでいる長屋の前の空間であった。

 いまやそこはたくさんの者たちで賑わっている。長屋に暮らす者が全員、集まっているのだ。

 振舞われているのは素麺であった。才蔵が風津たちの元を訪れた際に大量に買い込んでいたものである。あまりに大量すぎて、自分たちでは食べきれないほどであった。

 曰く、風津よりも甲斐性があることを示したかっただとか。

 そんなこと、世の大抵の人物ができている、などとは口にはしないが。

 ともかくとして、大勢で集まって食べる素麺は格別である。

 それも、色取り取りの花が自分の両脇に添えられては。

 風津は右を見る。珊がそこにはいた。気に入ったのか、藍色の着物は自分で買ったようで、今も着ている。その金で自分を買い戻してもいいのではないか、とも思ったが言わなかった。素麺を食べて、頬を緩めてわずかに笑う姿は年頃の少女のものである。

 一方、左側には才蔵がいた。彼女は満面の笑みで、素麺を一気に啜っていく。幼く見え、珊の妹、と言っても本当に通じそうであった。美味いのう、美味いのう、と言いながら食べては、爺や婆が嬉しそうな笑みをこちらに向けていた。

 この大量の素麺を茹でて出してくれているのは、長老たちである。大きな鍋を持ち寄っては交代で茹でていた。

 わざわざすまないでござるな、などと珊が言えば、素麺をもらった礼だと笑う彼らには感謝しかない。

 男女逢引三番勝負は、二番で決着がついてしまった。

 あったはずの三番目にて風津が提案しようと思っていたのは、素麺の早食いである。

 浴びるように素麺を食いたい、と言ったのは本音ではあったが、こうも早く叶うとは思いもしなかった。

 幸いにして勝負など関係なく、こうしてゆっくり美味しく食べられている。

 お代わりをもらってくるでござる、と珊は立ち上がって鍋の方へと向かっていく。爺や婆に捕まって長話に付き合わされるのが落ちだろうと思ったが、黙って行かせた。

 才蔵は隣でずるずると素麺を啜ると、こちらを振り向いた。


「ううむ、やはり、素麺はいいのう。なあ、風津様」

「ぶふっ!」


 風津は才蔵の言葉に思わず吹き出してしまった。咳き込んでいると才蔵が背中をぽんぽんと叩く。

 いま、なにか、変な敬称がついてやいなかったか。


「い、いきなりなに言いやがるんだ!」

「姉上を預かる者であるならば、妾も慕うべき御仁ということじゃ。当然じゃろう?」


 そう言って猫のようにすり寄ってくる才蔵に、風津は複雑な気持ちを抱く。

 何か狙いがあるのではないか、などと勘ぐらずにはいられない。

 馬鹿で阿呆だが、愚かではない。

 風津が抱く才蔵への印象はそれである。


「それに、この才蔵に勝ったのじゃ、それくらいの褒美があってもよかろう」

「はあ、それは、まあ、なあ、喜んでいいのかはわからんが」

「素直に喜べ戯け!」

「怒り方が姉によく似てやがる」

「そ、そうかのう? ふへへ」


 才蔵はだらしなく笑う。とろけている、と言ってもいいだろう。

 この娘といると本当に調子が狂うな、と風津は思いながら、素麺をさらに啜った。


「ときに風津様や、お願いがあるのじゃが」

「なんだよ」

「……どんなことがあっても、姉上を信じてほしいのじゃ」

「ああん?」


 それはよくわからない願いであった。

 どんなことがあっても、などというのは、これからもしもがあるかのような言い分ではないか。

 素麺を飲み込んで、風津は才蔵の顔を見る。遠くを眺める先には、珊が近所の人々に捕まって話している様子があった。

 ああ、これは、日常なのだ。そう思える一幕である。


「この光景が失われるって言うのか、おめえは」

「ずっと続くものなどないのじゃよ。お前にとっての一日とて、長き生から見れば一刻ということもある」


 才蔵はそう言って、風津から少し離れる。

 彼女の顔は幼いものであったが、いまは百年の時を生きた者の表情にも見えた。

 じっと眼を見る。人の眼ではない。冷めた穴のようにも見える。吸い込まれそうな深淵である。

 この才蔵という女忍者の、底知れなさを見たような気がした。


「よいか、これからこの台場町では様々なことが起こるだろう。例えば……」


 才蔵がそこまで言ったところで、風津は彼女の柔らかい唇に指を当てた。

 何か忠告を言おうとしたのだろう。天樹院という、時代の中心人物の側にいるのだ。聞こえてくるものがあるはずだ。

 だが、それは風津にとっては無用のものである。


「そんときはそんときだ」

「軽いのう。まあ、そんなもんじゃな。人など、そんなものでよい。風のように吹かれれば」


 ふっ、と笑ってみせる。誰かのことを思い出している顔だった。

 素麺を啜る。皿が空になった。珊のお代わりを勝手にもらってしまえ、などと考える。


「では、風が吹けば、妾に気が向くこともあるかのう、風津様や」

「ぶふぅっ!」


 さっきよりもさらに盛大に吹き出してしまう。周りの何人かが振り向いた。

 照れている、というよりも驚きの感情であったが、風津の慌てふためく様子を見て調子に乗った才蔵は、さらにぐいぐいと風津へと迫る。

 ほのかに腕に当たる胸の感覚は、悪くはない。その点で言えば姉より高性能だろう。


「最後の一口を吹き出しちまったじゃねえか!」

「妾を負かす男など猿飛以来、ついぞ現れぬものだと思っていたが、わからぬものじゃ。よく見れば、顔もとてもよい。眼も幸村様に似ておる」

「は、はあ?」

「気に入ったと言っておるのじゃ!」

「おめえは阿呆か、阿呆だ、阿呆だったな」

「三段活用!」


 才蔵がそう言いながらはしゃぎ、風津の腕に絡みついてくる。しがみつく、ではないのは、彼女はあたかも蔦のように手足を風津の腕に回したからだ。

 子どものようなあどけなさと、どことなくある妖艶さが、風津の鼻に匂いとして漂ってくる。どうにもくすぐったい感じがして、いけなかった。


「妾でさえ、これほどに想うのじゃ。姉上はどれほど焦がれて想っておるのじゃろうなあ」

「おめえ、そういうことはだな」

「野暮と言いたいのじゃろ? うべなるかな、しかし妾としては、それくらいでちょうどよいと思うのじゃ。何も伝わらないよりも、な」


 ふうん、と風津はひとまず頷くことにした。

 はっきりと肯定してしまうには、かっこつけたがりの自分には難しかったのだ。

 寄りかかっている才蔵は、恋人というより甘えた盛りの妹のようであった。珊が口うるさい姉貴分であるならば、妹分として申し分ない役である。

 その様子を見て、向こうから珊が肩を怒らせてやってくる。風津は、まずい、という顔をするが、才蔵は離れなかった。


「才蔵! なにをしているでござるか! そ、その、少し近いのでは!」

「や、これは姉上、誤解じゃ。妾は何も風津様を奪おうとしているわけではない。ただ胸のある女子おなごが良いというので、しばし感触を楽しんでもらおうとな。ついでに此度の花火大会へ行く約束もしようかと」

「な、なに!? それは本当でござるか、風津殿!」


 露骨に狼狽えてみせる珊に、風津は思わず笑った。

 そこにいるのは百年生きた絡繰ではない。妹に振り回されてる姉であった。

 まるで人だ、などとは言えまい。人なのだ、彼女たちは。


「笑って誤魔化しても無駄でござる! 拙者に飽き足らず我が妹までもその毒牙にかけようと言うのか! 節操なし! 恥知らず!」

「おい、待ちやがれ、それは語弊がありすぎる。あと声がでけえ!」

「きゃあ、獣じゃ、風津様はけだものじゃ! 夜になればあの手この手で我らを手篭めにするのじゃ!」

「だああああっ、姉妹揃って好き勝手言いやがって!」


 風津がそう言って立ち上がれば、珊と才蔵は顔を見合わせて走り始める。笑いあっている様は、なるほど姉妹である。

 そんな二人を追いかけていく風津の光景は、古くから見る少年少女のものであった。

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