桃源郷インスタント(終)
風津はふらつきながらも、寝かせていた荻原の元へと近づいていく。
彼の咳はひどくなっていたものの、まだ息はあり、意識もはっきりしているようであった。さすがは公儀と言うべきだろうか。
「よう、待たせたな」
「お、おい見てたぞ。お前、岡崎を川に落としたじゃないか。薬はどうするんだ」
「薬ならある」
風津はそう言って、薬包紙を荻原に渡す。目を見開いて驚く彼に、風津は告げた。
「ああ、あいつ、最初の何回目かでぶつかった時に、俺の袖に仕込みやがった。憂いのねえようにしたつもりなんだろうがな、腹が立つ野郎だぜ」
腰から竹の水筒を差し出す。かたじけない、と言って荻原は薬と水を飲んだ。
これで一安心だろう、と思う。岡崎が偽物の解毒薬を差し出すようなことはない。鬼とはそういうものである。極悪非道な者もいようが、それは目的のために手段を選ばないだけのこと。それ以外のことで嘘をつくとは思えなかった。
咳は止まってないものの、いくらか楽になっただろうか、様子は落ち着いていた。
「よし、そうしたら俺は……ごほっごほっ」
だが、今度は風津が咳き込んだ。視界が揺れて、目が熱くなる。
戦いの緊張から解放されたからか、体から力が抜けていた。その瞬間に堪えていたものが一気に溢れ出している。
「お、おい、お前……!」
「へっ、思ったより保ってくれたみてえだ。だが、お松め、やってくれる」
そうやって毒づく。風津の咳の原因はおそらく、荻原と同じ毒だろう。
お松に差し出された茶には、毒が入れられていたのだ。
しかもとびきり、強力なもののようだった。あるいは、風津が堪えていた分が一気に症状として出てきているだけなのか。
咳が止まらない。足腰に力が入らず、咳込んではへたり込んでしまう。
死が明確に近づいていた。こんなところで死ぬのか、などと嘆く言葉を吐くこともできない。
荻原が這って近づいてきている。最期に見るのが男の顔か、などと呑気なことが頭を過っていった。
ああ、だけれども。
誰かを助けて死ねるのだとしたら、そして自分が助けた人が自分を看取ってくれるのだとしたら、こんなに幸せなことはないかもしれない。
走馬灯と言うのだろう。様々な光景がよぎっていった。
自分が望まないはずの光景がよぎり、かつてあったことを美化したものも消えていく。
ありえて欲しくなかったものを想像し、ありえて欲しかったことを妄想する。
そうしてだんだん、真実と虚構の境界がわからなくなっていくのだ。
余計なものが削ぎ落とされていく。
まるで自分が純化していくかのようだった。
そして、残った光景は。
泣いている珊の姿だ。
彼女が泣いているところを見たことはなかった。
泣き真似は何度もある。
しかし、本当の少女のように泣きじゃくる姿を見たことはなかった。
喜怒哀楽のはっきりしている彼女が泣かないことを、疑問に思ってはこなかった。
もしかしたら、そういう風にできているのではないか、などと、考えもしなかった。
きっと泣くのだろうとばかり、思っていたのではないか。
あるいは彼女を泣かすようなことをしていないと、安心しきっていたのではないだろうか。
そして生み出した妄想が、最期の光景になろうとは。
「なに勝手に死んでるでござるか! 拙者はまだ借りを返してないでござるよ!」
なんて言って、珊なら怒ってくれるだろうか。
「風津殿のことなんて全然好きじゃないでござるからね!」
それともこんな風に、突き放した態度をとるだろうか。
「拙者のこと、好きにしていいでござる……」
なんてことを言ったりするだろうか。ぐへへ。
「阿呆なこと言っておらんで、起きるでござる!」
「は、え?」
意識が浮かび上がってくる。景色が取り戻された。
視界が急に晴れる。珊の顔が自分の目の前にあった。空も白んでいて、人もわずかであるが道を歩いている。そして通り過ぎる者はみな、風津と珊の二人を一瞥して去っていった。
「な、なにが起こってるんだ? ってか、何で怒ってるんだ?」
「それはこちらの台詞でござるよ。解毒薬を調合して荻原殿を追ってみれば、二人して倒れているし、毒を飲まされたはずの荻原殿の容態が落ち着いているし、そのくせ風津殿の方が毒でやられているし!」
ああ、そうだったな。と風津は頷く。
どうやら荻原は本当に助かったらしい。そのことに安心感を覚えながら、いまの自分の状況を理解する。
珊の膝に頭が乗せられていた。絡繰にも関わらず柔らかい太ももにわずかな感動を覚えながら、彼女の顔を見上げた。遮るものもなにもない光景であったが、これはこれで、はっきりと顔が見えてよい。
「大方、お松殿の色香にやられて呑気に茶でも飲んでおったのだろう。まったく、これだから風津殿は。駄目でござるよ、女の忍は力が弱い分、相手の弱みを突くことを得意としているでござる。男となれば女そのものが弱点でござろう」
「おめえ、泣いてたのか?」
「……ほえ?」
今のは鳴き声だろうか。珊の口から、間抜けな声が聞こえた。長い説教も中断して、ぽかんとした顔を浮かべている。
必死になって目尻を拭いている珊であったが、しかし、そこに涙の跡はない。彼女の無機質な瞳には、きっとそんな機能はないのだろう。
戸惑いの表情を浮かべる彼女に、ふっと笑みがこぼれた。
「なにを笑ってるでござるか」
「いや、別に。それより、おめえの用事は終わったのか?」
「無事に……とは言い難いでござるなあ。報告することも多いでござるし」
「ふうん、そうかい」
そんな風に頷いて、風津はため息を吐いた。毒はまだ抜けていないだろうが、息苦しさはない。しばらく安静にすれば、元気になるだろう。
一方の珊の表情は未だ晴れない。昨日……いいや、もう一昨日だろうか。この調子が続くのであれば、困ったものである。
このままでは、というよりすでに、風津の調子も狂いつつもあった。
お松が関わっていることは間違いないが、それを根ほり葉ほり聞いたところでどうしようもない。
「風津殿、拙者は、ここにいて良いのだろうか」
ようやく口を開いたかと思えば、急にそんなことを口にする。
馬鹿なことをと思えど、笑うことはできない。
「血も涙もない、と言われたでござる。拙者は人ではござらん。絡繰の身でござる。この内にあるものを心と信じて疑っていなかった。だが、それさえ何者かに作られて、そうあるようにされたものであったならば、拙者は本物足り得るでござろうか」
何を見てきたのか、風津にはさっぱりわからない。彼女の生きてきた百年以上の生について、ほとんど聞いたことがない。酒の肴にもならないことなど、話題にあがらなかった。
けれどもそれは、彼女の根から出てきたものだろうことだけはわかった。
ふうん、と言って、風津は立ち上がる。珊の脚は名残惜しかったが、いまはそれどころではない。
「ふ、風津殿?」
「俺は帰る。腹が減ったし、寝足りねえよ。しばらく休業だなあ」
身体を伸ばせば、あちこちが悲鳴をあげていた。激しい戦いと、毒にやられた身体が十全の力を取り戻すまでどれほどの日数がかかるだろう。
数歩歩いて、振り返る。珊は立ち上がって、砂埃を払ってはこちらを惚けた顔で見ている。
「おめえはどうする?」
「え、あ……」
何を問われたのかわからなかったのだろうか。歴戦の女忍者は、このときばかりは年頃の乙女のような反応を見せた。
そして、しばらくの逡巡の後、ようやく答えを出した彼女は。
「うん!」
まるで朝顔が咲くように笑ったのだった。