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大江戸ダイバーシティ(連載版)  作者: ジョシュア
第肆話:桃源郷インスタント
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桃源郷インスタント(其の肆)

 珊はお松を見上げている。喉を絞められようと関係なく、声を発することはできる。


「お松殿、もはやおぬしが裏切ったことは明白。して、何故その身を絡繰などに堕としたか、お聞かせ願えるでござるか?」


 落ち着いている声音の珊とは対照的に、激昂するお松はその感情を言葉に乗せる。


「絡繰のお前にはわかるまい!」


 珊はびくり、と反応した。

 ここに集まっていて、いまも苦悶の声をあげる者たちはみな、若さを手に入れにきたのだ。

 それは老いへの恐怖の裏返しである。

 だが、珊にはその恐ろしさがわからない。絡繰の身にそんなものは持ち合わせていない。


「おぬしは、決してそのような者ではなかっただろうと記憶しているでござるが」

「やっぱりわかってなかったんだね。私があんたに向けてる感情に」


 瞳に宿るのは嫉妬であった。

 実のところ、珊はお松をとりわけ苦手にしていたわけではない。仕事の仲間であり、時勢によっては敵味方に分かれることもあった。そんな中で、馴れ合いをしたところで仕方ない。

 むしろ執着しているのは、お松の方であった。彼女は事あるごとに珊に話しかけては、からかっていたのだ。


「馬鹿なことはやめるでござるよ。絡繰の生など、儚いものでござる」

「ふざけないで……。私にはね、この外見しかないのよ。顔だって、男が好むように化粧をしたわ。表情だって何度も練習したし、身体だって自信があるのよ? この世のどんな男だって、私に籠絡できないものなんてないんだから」


 懐かしむように、お松が言った。珊とて、過去のお松の姿を知っている。

 いくら変装したところで、彼女の美貌には追いつけない。その色香を手に入れることはできない。

 刃を手にすれば自分が上であろうとも、女を武器にするならば彼女に勝てるはずがないと、そう思うほどにお松は美しい女であった。

 美人局であれば、右に出る者はいまい。褥で聞き出した情報の数々は、幕府にとって非常に有益であった。


「幕府の犬になったって、私を必要としてくれる、私の価値を証明できるなら構いはしないと思ってたわ」


 なのに、とお松は言う。声に涙が滲んできていた。


「私から美貌をとったら、何が残るの? 誰も必要としなくなるわ、私のことなんて。衰えていく肉体に、欠けていく美貌に……ただでさえ不完全な私から、どんどん零れていく、欠けていく! その恐ろしさが、悔しさがわかるか、絡繰のあんたに!」


 それは、女を利用して生きてきた者の末路なのだろうか。老いていったとしても、そこにしがみ付かなければ生きていけぬ者になってしまうのだろうか。

 珊はそんな風に思いながら、声をかける。


「人の価値はそこにないでござるよ」

「絡繰がそれを語るか!」

「絡繰だからこそ、わかることもあるでござる」


 珊は告げる。絡繰の現実を。


「絡繰とは所詮、仕掛けでしかない。自らがいずれ失われる物であると理解しながら、その時はいつ訪れるのかさっぱりわからぬ。私の意識と知識だけが死という現象を知り、身体はそうではない。そうして永らく生きていくでござる」

「永遠が恐ろしいとでも言うつもり?」

「違うでござるよ。自分が殺めた者を背負い、自分が生かした者を背負い、しかしどちらも死に行ってしまう。摂理とも言える命の平等さが私を置いてきぼりにしていき、やがて訪れる自身の死ばかりが重くのしかかってくるのでござるよ。自分の生の意味を有無をじっと問いながら」


 ————ただ、そのときばかりが恐ろしくなる。


 自分が殺めた者の死を悲しむ者を見て、その死を利用する者を見て、その死を忘れた者を見る。

 自分が助けた者が、老いて狂うところを見て、そして床に伏せるのを見届ける。

 そんな命の等さを見届けるたびに、自分の存在ばかりが浮いているような気さえしてくる。

 いいや、水にも浮かばぬ絡繰の身だ。人の生の流れに沈みゆくほど、自分がいずれ静止するそのときが重くなっていく。

 果たして意味のあるものなのか、という問い。いま自分が行っていることは、いずれ死に行くことが決まっている者たちにとって意味があるのだろうか。そして人と交わることのできない自分は、果たして何か価値を示せたのか、と。

 若さが価値だと言う。そんなことはない。ただその若さという力で何を為すのか。そして老いていく中で、何を残していけるのか。

 珊には許されない考えだ。しかし、それこそが人にとって尊ばれることなのではないだろうか、と思う。


「自分が絡繰になったところで、それは人ではない。人の価値はそんなところにはないでござる。もうやめよう、お松殿……!」

「それはあんたが、手に入れてるから言えることだ! 私にはそんなものはない!」


 もはやかつての美貌も見る影もなく、彼女は言った。


「大名の側室になって、女たちと戦い、殺めたことだってある。商人に取り入って、契約を取り付けたことだってある。反乱を目論む者の愛人にだってなってやった。そしてわずかでも美貌を損なってしまえば用済みとばかりに、呉服屋に嫁がせて、はいさよなら! その夫も死んで、あの家に私の居場所なんかなくなって……私は女だから、女だから、女だから……!」

「その前に、人でござる」

「私は、人ではいられなかった……!」


 もはや別の生き物として、美貌を持っていなければいけなかった。

 そこまで彼女を追い詰めてしまったのは、彼女自身だろうか。それともそうと知りながら、彼女を利用した幕府だろうか。

 珊の言葉は届かない。それでも言いたいことがあった。


「……あの婚姻の儀、共に老いていこうと言った夫を見つめるおぬしは、美しかったでござるよ」


 そう言って、珊は自らの身体にある仕掛けを起動した。

 忍法・蝉筒。自分の腹の内側から刃を伸ばし、密着した相手を殺める絡繰の技である。

 彼女は惚けた顔をする。もしかすると、痛みをあまり感じていないかもしれない。彼女もまた忍者であるから、痛みに耐えられるようには鍛えているのだろう。

 口の端から血を流しながら、お松は珊を睨みつける。


「そんなこと、血も涙もないあんたに言われたって、嬉しくないわよ」


 それが彼女の、最期の言葉であった。

 お松の身体から力が抜けていく。

 悲しい感情がずっと胸に渦巻いた。それを涙に変えることができない自分が、どうしようもなく不甲斐なく思えた。


「涙など、この身の錆びにしかならぬでござるよ」


 その声を聞く者は、どこにもいなかった。




      *      *      *




 風津の剣は岡崎には届かない。

 折れた刀身は彼にとっても厄介であるはずだった。人が相手にするのであれば、鈍らにも劣る刀で何ができるのだとあざ笑うだろう。

 しかし、風津が握る獅子丸は、鬼に対しては脅威である。

 物理的に干渉されない刃は受け止めることができない。わずかでも目測を誤れば、その魂はこの世とのつながりを失って、あの世へと霧散するのである。

 その刃を受け止めるのは、人の意識を保ったまま鬼に成り果てた男、岡崎正次。柳生新陰流を学び、柳生宗矩の愛弟子と呼ばれている彼は、恐ろしい巧みさで風津の剣を躱していく。

 柳生新陰流とは、新陰流の一分派でありながら、幕府において重要な地位を占めるようになる。それは、将軍の流派であるということ。徳川秀忠とその後任の家光の剣術指南役となった柳生宗矩の尽力があった。

 柳生宗矩はそのために、様々な誹りを受けることになる。剣士ではなく政治家、地位にしがみつく小心者、武芸者であるのに技法を捨て心法に走った者……。彼に勝負を挑み、地位を理由に断られた者たちはそう言った。

 しかし、柳生新陰流を知る者はこう言う。これこそが新時代の剣であると。

 水月の境地、すなわち相手の動きを見てから反応する「後の先」の概念を体現するかの剣術は、確かに剣を持つ者の理想の一つであった。

 風津の剣が横に払えば、間一髪のところで身を逸らして避ける。

 返す刀は逆袈裟である。掬いあげるような動きは風津の腕を切断して有り余る威力を持っていた。それを大きく退いて風津は避ける。

 橋の手すりの上に飛び乗った。岡崎は斬りかかってこない。やはり様子見を決め込んでいる。

 かちゃり、と手首をひねると刀が鳴った。

 刀身の折れている獅子丸は、風津の枷にもなっていた。相手の刀を受けることができない。相当の覚悟を持って挑まねばならなかった。

 風津と岡崎が剣を合わせたのはこれで五度目であった。離れてみれば、岡崎は変わらぬ、受け身の姿勢を見せる。誘っているのだ、とわかる。

 柳生新陰流の恐ろしい点は、極めればありとあらゆる太刀筋に対応し、後から動いたにも関わらず先んじて斬って見せることである。それも無理なく、ただ相手の力を活かして。

 転変の技、活人剣である。

 風津は再び岡崎へと斬りかかる。縦の振りは囮、素早く返す刀が本命であった。

 一振り目はわずかな動きで躱される。次いで放たれた二振り目は先の刀よりも早く振るわれた。岡崎はそれさえも避けてみせるが、今度は岡崎の方が大きく距離をとった。


「やはり、やりおる。某の剣をこれほどまでに避けてみせたのは貴様が初めてだ」

「そいつはどうも。こっちはやりにくくて仕方ねえぜ」

「楢威流は怪異を斬るための剣術と聞いた。なるほど、確かに。大振りな技が多いようだ。しかし、人と戦うことは考えられてないものと思いきや、ここまでやってくれるとはな」

「てめえみてえなのがいるからな」


 とは言うものの、風津は焦りが隠せなかった。

 第一に、自分は荻原の命を背負っているのである。彼を死なせてしまえば、この戦いの意味のほとんどを失ってしまう。

 次いで、風津の楢威流は確かに剣術を用いる相手の技を想定している技もある。しかし、だからと言って柳生新陰流を極めた者を相手取ることは困難であろう。


「しかし、まだまだ」


 岡崎がそう言った瞬間、風津の右腕に痛みが走った。わずかに触れた切っ先が、傷を作っていた。切り傷かた血が垂れる。


「見事な技だ、楢威流。だが、その程度ではあるまい。なにを躊躇している。いまの某は鬼であるぞ。鬼ならば斬るのだろう? 本気を出せぬと言うなら、そうだな、あと三つ、貴様の前に人の首でも並べようか」

「言ってろ……!」


 風津はそう言って、剣を振り払った。そして再び斬りかかる。

 橋の上で再び交錯する二人は、剣をお互いに躱しあった。しかしそれはお互いの臆病さからではない。むしろ果敢に相手の懐に入り込んでは身の振りで躱すという、超人的な技を用いての攻防であった。

 縦に振り払えば下がり、前に踏み出す。ほとんど零になった距離で、二人はお互いの柄をぶつけてせめぎあった。


「どうしてそこまでして、俺の剣にこだわりやがる! 俺より強え剣客なら、この世にごまんといるぜ?」

「人を斬る技を磨く者は確かに数多いるだろう。しかし、鬼を斬りし剣でさえあの美しさよ。その先にあるのはなんだろうと思いを馳せれば、神仏さえも斬り伏せうる最強の剣技。某はその境地を目指したい」

「……そんなもの、手に入れてどうする」

「武芸者に対し、それは愚問である」


 そうだったな、と風津は頷く。その道に虚しさを感じたからこそ、風津の今がある。しかし目の前の男は、その先に必ずやなにかを手にしうると信じて、邁進している。

 狂えなかった。剣のために。残ったのは友を斬ったという後悔と、人を斬れぬという縛り。中途半端なのだ。

 鬼が巣食う場所、江戸。その台場町は魑魅魍魎を斬られる場所だ。

 しかし、ここならば人を斬らずに済むのではないか、と思ったことは否めない。

 見よ、お前の罪を。目の前にいる男こそが、お前の中途半端さが生み出した鬼だ。

 であれば、その罪は己の手で斬るしかあるまい。


「……岡崎正次敗れたり!」

「なんだと」

「人を殺めし刀にていちの悪人を斬りまんの善人を活かす剣、これぞ柳生宗矩公の謳いし活人剣の理と聞いた。されど汝はその目を曇らせ、人を活かす道を失っている。もはや柳生新陰流にあらず! 俺は柳生新陰流を恐れても、鬼を恐れはしないぞ!」

「ほざいたな!」


 岡崎はそう言って、刀を深く構えた。そして鋭く切り込んでくる。

 初めての攻勢であったが、それこそが風津の思うつぼであった。

 彼の一刀は空を切る。一瞬早く跳んで見せた風津が、蹴りをくらわせるべく宙で身をひねった。

 それを身を引くことで避けた岡崎は、着地した瞬間を狙う。

 風津の右腕が振るわれる。二人の距離では、折れた刀身の獅子丸は届かない。しかし、そもそも風津の右手には刀は握られてなかった。

 彼が振るったのは、血の刃であった。斬られた傷から流れる血を飛ばし、岡崎の顔に向けてかけたのだ。

 一瞬視界を奪われる岡崎はたじろいだ。すかさず風津の刀がひらめく。

 勘が働いたか、岡崎は刀で受けるも、甲高い音をたててその手から刀が弾き飛ばされた。

 風津はここぞとばかりに詰める。刀を失って徒手となった岡崎へ、容赦なく刀を向けて突撃する。

 わずかでも鬼核に触れれば勝てる。風津の持つ獅子丸の見えぬ刃は、鬼の因縁を無理やりに断つものである。

 だが、その驕りが仇となった。


「みくびるな、柳生新陰流を!」


 岡崎の言葉が聞こえた気がしたとき、風津の視界が回った。手首を掴まれ投げられたのだ、と思った時には遅い。

 無刀取り。

 それこそが柳生新陰流の誇る奥義のひとつだ。

 無手にて剣に勝つ。常人であれば鼻で笑う理論を実現させうる技である。

 相手の勢いを利用し最小限の力で相手を討つ、すなわち活人剣を極めた者が到達する極意である。

 橋に風津は叩きつけられる。空気が口から吐き出される。力が一瞬抜けて、刀を手から落としてしまった。

 続いて叩きつけられる拳を転がって避ける。

 剣士でありながら得物を失った両者であったが、岡崎の戦意は衰えることがない。鬼となった彼はもはや、風津を討つことしか考えられないでいる。

 どうにか立ち上がった風津へ、岡崎が飛びかかった。もはや剣術もなにもない。獣のごとき動きだった。


「てめえこそ舐めるなよ、この俺を!」


 風津はそう言って、一歩踏み込み、岡崎の腕を掴む。そして相手の勢いを活かして倒れみながら、足を腹にかける。

 相手が宙を回った瞬間に、手を離して投げ飛ばすのだった。

 柔術、ともえ。かつて鬼でありながら人に味方した者の名を冠するこの技は、鬼が持つ強大な力を逆に利用し投げる技であった。

 果たして、投げ飛ばされた岡崎は橋を越えて、下の水へと落下する。怨嗟の声すらあげられないままに、彼は深い水底へと落下していった。


「絡繰は水に浮かべねえんだ……知らなかったろ」


 風津はそう言って、ため息を吐いた。辛くも手に入れた勝利に、満足感はない。

 ただ窮地を脱したという、徒労感だけが残っていた。

 どうにか刀を拾った。自身のものと、岡崎のものである。

 そして彼の沈んでいった先を見た。台場町は埋立地であり元は海、川も深いと聞いている。それに、あれほどの勢いで叩きつけられたのだ。もはや浮かび上がってくることはできまい。


「見事だった。人であれば、俺の完敗だったよ」


 そう言い残して、風津は川に刀を落とす。人であった岡崎正次への、せめてもの手向けとして。

 

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