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大江戸ダイバーシティ(連載版)  作者: ジョシュア
第肆話:桃源郷インスタント
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桃源郷インスタント(其の壱)

 江戸の夜は暗い。空を満たすほどの輝きを月は放つが、それでも足元はおぼつかないほどであった。ほとんどの店は閉めていて、出歩く者も少なかった。

 が、それがすべてというわけではない。なにについても例外とはつきものである。

 例えば遊郭であれば、夜こそが彼らの縄張りであると言えよう。男たちの夢を叶えるべく花を飾る女郎屋はいつだって明るかった。

 しかし、それだけではない。夜店も開かれていた。この頃の夜店と言えば、寿司や天婦羅てんぷらなどの食事が主流だった。酒と魚、と言えば定番の組み合わせであると言えるだろう。

 風津と珊が夜になって向かう場所と言えば、川沿いにある天婦羅屋であった。川と言っても台場町では意味を変える。台場町は埋め立て地であり元は海であるからかなり深い。また、そこは商人たちが東印度会社とやりとりした商品を運ぶ運河となっている。

 その川沿いに、日が暮れるまで仕事をした船頭たちが溢れるのを狙って店を出したのがこの川沿いの夜店である。もっぱら、商店街に集中しているものの、風津たちがよく使うのはそこから外れたところにひっそりとやっている店である。


「くぅ〜、うめぇ!」


 赤い髪の風変わりな男、風津は思わず感嘆の言葉をもらした。

 かれいをごま油であげた天婦羅は、ふっくらしながら香ばしい。厚い衣に染みた油のくどさは天つゆと大根おろしで中和させれば、箸が進んでしまう。蓮根の歯ごたえや菊の葉の香り高さなど、風津からすれば贅沢であった。

 美味い飯があれば、酒も美味いというもの。お猪口を傾ければ、喉に通る熱さが心地よい。


「おうよ、日本橋で水揚げした魚よ」

「たまらねえなあ。なあお珊や」

「美味い食事というのは、日々を豊かにするものでござるなあ」

「ははあ、お嬢ちゃん、わかるじゃねえか」


 風津の隣にちんまりと座っている珊も頬を綻ばせていた。絡繰少女である彼女であったは、食事は嗜むことはできる。曰く、食とは心を豊かにするものであり、それは力であるとのことだ。

 たまさかいい収入が入った二人はここ最近、過ぎた贅沢はできなくとも、安定した生活を送ることができていた。こうして夜もちょっと足を伸ばして、天婦羅などに舌鼓を打つことができるほどには。


「仕事を終えた後の酒は美味いなあ」

「でござろう。これからはきちんと仕事をしていくのがいいでござるよ」

「働かねえで他人の金で飲む酒も格別の味だけどな! くぅ〜、もう一杯!」

「どこまで屑男になるつもりでござるか!? や、やはり拙者がしっかりしなければ……」


 二人の会話を聞いて、はははと店主が笑った。夜も更けているが、そこだけは明るい気配が木霊していた。

 そこへ暖簾をくぐって誰かが入ってくる。若い女だった。嫌味なところがなく、しかし端正な顔立ちである。不思議な色香があった。

 彼女は風津と目があうとにっこりと微笑む。そして珊の方を向くと、彼女の耳に口を寄せる。


「美味しそうね。それに、男の人を連れているなんて珍しい」

「そもそもこうして表を歩いていることが珍しいでござるよ。して、要件はなんでござるか?」

「相変わらず素っ気ないのね。私のこと苦手? それともそっちの赤髪の人のこと? まあ、どっちでもいいけど。ほら、これよ」


 女は珊に書状を託すと、すぐに姿を消した。その動作は淀みなく、慣れていることをうかがわせる。


「なんだ、知り合いか」

「……そうでござる。前の仕事の」


 珊が濁すようにそう言った。風津はだいたいその文言で、彼女の言わんとすることを察する。お猪口を口に含んで、風津は視線を逸らした。


「いやあ、しかし、彼女もここんところ、ますます別嬪になったなあ」

「うん? どういうことだ?」

「この台場町が開かれた時から住んでる人なんだけどね、彼女は。もう三十も過ぎる頃だと思うのに、まあ若返っちまって。呉服屋の旦那が亡くなって、子もいねえもんだからひどく落ち込んだのを見たけど、急に元気になったと思ったらそういうことよ」

「へえ、若返るねえ。そういや、昼間もそんな話を聞いたな。店主、なんか知ってんのか」

「いやね、お客さん、このところ何やら若返るはり治療なんてものが流行ってるみたいでですね。まあどこにあるか、はたまたどんな医者が使ってるかは誰も知らんのですが、街中を歩いてみれば、十も若返った奥方だとか商人の方だとか、話は聞きますなあ」

「なんと面妖な……。若返りの鍼、ねえ」


 風津は天婦羅を噛みながらそう言った。若返る、と言われるものはこの世にはたくさんあるものの、本物の数は非常に少ない。例えば、月の不死伝説における変若おち水などは有名である。過去の時代においては見られたかもしれないが、風津は未だ出会ったことはなかった。

 眉唾なものだ、と鬼を退治する身の風津でさえ思った。仙術を用いている、というならわからないでもないが、それは剣術や忍術どころか鬼道さえも足元に及ばぬ厳しい努力と才能を要する。台場町の商人や婦人が、簡単に身につけられるものではない。

 どうにも奇妙な話だ、と思うも、そうしたものを信じたくなるのも人であろう。この世にしがみつく想いも行き過ぎれば鬼にも通じるというものだ。


「鍼なんかじゃなくて、房中術なら歓迎だがなあ」

「はは、ちげえねえ」

「……風津殿は、あのような者が好みでござるか?」


 文書を読み終えた珊が、じとっとした視線を風津に送った。

 なんとなく先ほどの女を思い出したが、上手く顔が思い浮かべることができない。だが、感覚だけの話であれば答えられた。


「なんつうか、そそられなかったな。好みじゃねえっていうか、わかんねえけど」

「そ、そうでござるか」


 わずかに頬を染める珊は、安心したように息を吐いた。

 ただ、そうした個人の資質としての好みとは別問題である、などとは言わない方が吉だろう。本音で言ったことには違いないが。


「んじゃあ、お勘定だ」

「へい、毎度!」


 風津が屋台を出る。金を出したのは珊の方だった。遅れて風津を追いかける珊は、彼の隣に並んだ。


「そうだ、辻斬りに気をつけなよ!」

「あん? 辻斬りだあ?」

「そうよ。ここんところ三人も斬られてるみてえだからな!」


 明るく言うが、この台場町で辻斬りなどそうあることではない。少なくとも風津はこの一年で聞いたこともなかった。

 辻斬りとは、侍が通りすがりに人を切りつける行為のことを言う。戦国の世から行われており、腕を試す他にも、鬱憤晴らしや金品目的などのためにも行われていた。刀の斬れ味を試すためにする者もいたという。

 台場町は至って平和である。……などとは口が裂けても言えないが、表立って騒がれた事件などはかつて天草衆の一味によって生み出された絡繰兵器による反乱未遂のみである。


「勘弁してほしいぜ、辻斬りなんてな。俺は人は斬れねえんだ」


 風津がそうつぶやくも、珊は何も反応しなかった。じっと川の方を眺めながら歩いている。

 絡繰もそんな風に考え込むものなのか、と思いながらも、話しかける。


「ぼうっとして、川に落っこちるなよ」

「そうでござるな。絡繰の身では重く、泳げぬゆえ」


 そんならしくない返答に、風津は少し調子を崩される。

 先ほど受け取った手紙のことか、あるいはそれを届けに来た女のことか。


「その、辻斬りのことでござるが」


 言いにくそうに珊が口を開く。


「実は、先ほどの文にて伝達があったでござる」

「公儀の仕事か。ってか、俺に言っていいのかよ」

「知っておいてほしいのでござるよ。辻斬りとやらが斬った数は、公には三人となっているが、実際のところは五人なのではないかと。そして斬られた者はみな、この台場町に潜んでいた公儀の者でござる」

「はあ? 公儀隠密が辻斬りに?」


 公儀と言えば幕府のことである。その中でも隠密行動を主体にする者たちを公儀隠密などと呼ぶ。

 彼らは剣術や忍術などに長けている伊賀者や甲賀者、あるいは柳生新陰流の高弟たちであり、幕府の命令によって情報収集活動を行っているとされる。無論、並大抵の腕で務まるわけがない。珊を含めてどれもが精鋭であるだろう。

 和蘭と交易しながら、兵器開発技術の研究なども行っている台場町は、江戸にとっては最も必要としているものであり、最も危険視しているものでもある。島原・天草の者たちと戦うためとして見逃されてる罪責も多くあるだろう。それらを見張る役目を果たしている公儀の者たちが潜んでいても、不思議などではない。

 そんな彼らを斬る者が、この台場にいるというのは、非常な事態であると言える。


「しゃれになってねえな。それに、なんだ、そいつは実のところ辻斬りなどではなく、公儀の輩を狙ってるってことなのか」

「如何にも、でござる。その斬られたあとを見つけることができたのは三人でござるが、あと二人の姿も見えないとのこと。しかし斬りあった跡は残っているようでござるが……その二人がさらに問題でござる」

「と言うと?」


 うむ、と珊は頷く。彼女は足を止めて、空を少し眺めた。


「一人は、岡崎正次という男。彼は柳生新陰流免許皆伝の腕前を誇り、柳生宗矩殿の愛弟子と呼ばれた剣客でござる。その剣術は公儀でも屈指のものでござる。稽古ならばいざしらず、いざ真剣での斬り合いとあらば容赦のない者でござった」

「そんなやつを斬るほどの輩が、辻斬りだと?」

「鬼道の類を用いたならば、あるいは。しかし戦国の世を駆け抜けた拙者であっても、気圧されるほどでござる。よほどの腕前の持ち主であることには違いない」


 そこまで言って、もう一人のことについても話す。


「残るのは、荻原兼山という男。この者は剣術は凡庸でござったが、公儀における役割は格別でござった。優れた筆の使い手であったのでござる」

「筆って、そんなものが何の役に立つ?」

「彼の筆は、ただ卓越なのみではなく、他者の筆跡を真似ることができるでござる。これによって密書の写しを作る、あるいはありもしない文をでっち上げることもできた。この重大さがわかるでござるな? 偽りの情報を流すも自由自在、ことによれば一国を傾けるなど造作もないことでござる。そして彼は、その書の中身もすべて覚えているという徹底ぶりであった」


 ぶるり、と風津は震えた。なるほど、それほどの者の行方が知れないとなれば、公儀の中でも騒ぎになるだろう。

 優れた剣術の担い手すらも斬り、さらには国を傾けうる技を持つ男を攫う。そのような構図が頭に浮かんだ。

 並大抵の者ではない。もしかすると、背景に何者かが画策している可能性すら高い。


「さっきの女、名はなんだ?」

「お松殿でござるが……どうしてそのようなことを?」

「次に狙われるのは誰だと思ってな。おめえ、その辻斬りを追うつもりだろう?」


 こくり、と珊は頷いた。それなりに彼女と過ごしていて、風津にもわかることがある。

 この絡繰忍者娘はお人好しもあるが、死地を望んでいるのかと思うほどの無謀を見せることがある。そしてそれを止めることはできない。


「だったらおめえが狙われるか、あるいはお松が狙われるかだろうよ」

「なるほど、慧眼でござる。いや、拙者は信用してるでござるよ? おぬしであれば辻斬りは斬れずとも、女一人を守ることはできるでござろうからな。決して色香に負けたわけでもないと、そう思うでござるからな?」

「ば、ばっかやろ、俺が惑わされてるように見えるってか?」

「そんなことは言ってないでござるよ」


 くすくすと笑って、しかしすぐに真顔に戻る。


「風津殿、念のために言っておくでござるが、彼女も元は公儀隠密の者でござる。その役目を果たし引退しても、その技はおそらくは健在であろう。しかも彼女は、その色香によって男を惑わす術の使い手でござる」

「おめえが俺と会ったときみてえなやつか」

「そうでござる。おぬしも見てわかっているでござるが、お松殿も美貌を保つことにも余念がないようでござるし……ゆめゆめ、気をつけられよ」

「へいへい、わかってるっての」


 風津が答えたときには、珊の姿は消えていた。戦国の世から生きている忍者は決して偽りではなく、目の前にいたにも関わらず、瞬きしたときにはすでに違う場所にいた。

 彼女を見送った風津は、彼女が見上げていた空へ視線を写す。わずかに欠けた月が浮かんでいる。じきに満月だろう、ということが伺い知れた。

 久しぶりに寂しい夜になるなあ、などと柄にもなく思いながら、風津は帰り道を急いだのであった。

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