大江戸ダイバーシティ(上)
江戸の隣にある台場はもう一つの大坂と呼ばれるほど栄えていた。
西暦にして一六四八年、慶安元年のことであった。
海辺を埋め立てて作られたこの地はときに台場町などと呼ばれており、数多の商人や職人がおり、江戸の、ひいては日ノ本の経済の中心地となりつつある。
欧州の言葉を好んで用いる者は「だいばぁしてぃ」などと言ったが、馴染みない言葉のために流行る兆しはなかった。
そして金が集まれば必然、欲が生まれるものであり、その金を目当てにして欲を満たすための施設が生まれるものであった。
遊郭はその代表格であろう。世に身を滅ぼすものと言えば三つある。酒、金、女である。それらは人間の根源的欲求を満たすものであり、遊郭はその全てを満たすものであった。
花街はこの台場にもあった。吉原に数は劣っていても、酒の席もそこそこに、遊女と結ばれるをの今か今かと待つ男がいた。
名は風津という。もちろんのこと本名ではなく、彼を見れば誰もがかぶき者と言うだろう。生まれは武蔵国と言っているが本当のところはわからない。齢は二十の半ばほど。髷を結うこともなく、ざん切り頭で歩いているのはこの台場町ならではであった。
そんな者を上客として扱う遊女など普通ではいないだろう。彼が馴染み客になるべく努力していた姿を多くの者が見ていたが、一様に首を横に振っていたものであった。
しかしこの日は、なんたる偶然か、はたまた気が変わったのか、あるいはそういう変わり者が好みだったのかはわからないが、遊女は風津を上客と認めたのだった。
まして、この遊女は太夫と呼ばれる、遊郭の中でも最高位の女だった。容貌は天女が如し、所作は姫が如し、着飾る衣装は竜宮の織物とも言われる。おおよその人がお目にかかれる相手ではない。大名や役人でさえおいそれと手を出すことはできず、酒の席で酌をしてもらうのがせいぜいだ。
風津がいま目の前にしているのはそんな女であった。名は珊太夫と言う。興奮が隠しきれないのは当然のことであろう。顔をだらしなく緩ませて、彼女の後ろ姿を見ている。
着物をゆるりと脱いで、肩を見せた。髪には、いまは風津の女であるという証に、専用の簪をつけている。
これから珊太夫を自分のものにするのだ、という実感があった。金で結ばれた関係であるとは言え、風津は本気だった。
ごっこではない。恋なのだ、と胸を張って言うことができる。
「ねえ、お願いがあるのだけれど」
遊女は言った。お願い、なんのことだ。風津は耳を傾ける。優しくしてほしい、などとは言うまい。むしろそれは誘いだろう。
ははあ、もしや照れているのではあるまいか、などと下衆の勘ぐりをする。
ここは聞いておくのが男の甲斐性というやつだ、と風津は思って、彼女に少し近づいて言った。
「なんだい、改まって。俺と君の仲だろう。何でも言ってごらんよ」
「何でも? 何でもって言ったかい?」
「おお、もちろんだとも。何か悩んでいるのか。俺ならばどんな悩みも解決できるとも」
「さすがは名に聞こえし風津さま……頼もしいですわ」
そう言って微笑んだ。気がした。こちらにわずかに顔を向けた姿は艶やかで、いますぐにでも手をかけたくなる。我慢のときだった。
「あの男を知ってる? 永尾格次郎という名の男なのだけれど」
「うん? ああ、知っているとも。この台場にいる職人の一人だとか。すまんが詳しくはないぞ。俺は芸だとか技だとかめっきりでな。前も話した通り、剣しか道がない」
「ええ、そうでしたわね」
くすくす、と笑って彼女は言う。妖艶な表情にひき込まれそうであった。風津は自分の顔がだらしなく歪むのを理解した。
「それで、その、永尾殿がどうしたっていうんだ?」
「あの方をあなたに斬っていただく思うのです」
変わらない笑顔のまま珊太夫は言った。ああ、なるほど、自分の愛に応えよとお前は言うか。風津は思った。
もしかすると、珊太夫に詰め寄るあまりよくない客なのだろうか。懇意にするつもりはないのに、指名してはにじりより、礼儀作法を無視するような者だろうか。
ならばこの剣はためらうことなくその男を斬るだろう。愛しき者を守るためであらば。
「ああ、なるほど、そういうことか」
「そういうことでございます。理解が早く、助かります」
裸身をしゃなりと揺らして、彼女は近づいてくる。風津の首に腕をかけた。膝立ちになっている風津は珊太夫を見上げる形になる。
顎を持ち上げられた。視線が重なる。にやりと笑った彼女は、顔をゆっくりと近づけてきた。
そのとき、風津は鞘から抜かないままに刀を振るった。一閃はまさに光陰の如し。次には珊太夫は鞘に当てられ倒れ伏すものだと思われた。
が、風津が当てたのは衣服のみであった。鞘に弾かれた衣服が舞い落ちると、その向こうに忍び装束を纏った女がいた。
変わり身の術だ。数多の人物と出会ってきたが、忍者を見たのは初めてであった。
「御見事! 酒が入れど技の冴えに些かの衰えもなし。やはりおぬしは優れた剣客のようでござるな。しかし、どうして拙者がおぬしの知る珊太夫でないと分かったでござるか?」
「その間抜けなござる口調はわざとか?」
「こ、これは仕様というやつでござる! いいから答えるがよい!」
怒ったように忍者は言った。いいや、その風貌は女と呼べるほど成熟していないように見える。風津は心のうちで忍者娘と呼ぶことにした。
ふん、と風津は鼻を鳴らす。
「臭うのさ、鬼の気配だ。怪しい術を使って俺を惑わそうとしたな?」
「むう、なんという嗅覚でござるか。術を破る者はいれど、術を使う前に破られるとは思わなんだ」
「くノ一め、狙いはなんだ、答えてみろ。自慢ではないが、俺は人に襲われるようなことは両手で足りないぐらいはしても、わざわざ忍者を雇って殺めようとするような輩に喧嘩を売った覚えはねえ。むしろ媚びて生きてきた」
「本当に自慢にならないでござるな!?」
胸を張って言う風津に、呆れたように応える女忍者は、はあとため息をついた。
そして衣服を正して正座をすると、深く頭を下げる。いわゆる土下座であった。女に土下座させるのは少し気が引けたが、風津はひとまず言葉を聞こうと思った。
「試すような真似をした。深くお詫びを申す。その上で、お願いというのは他にない、永尾格次郎についてでござる」
その言葉に、風津は刀の柄から手を離さないままに、問い詰める。
「なにゆえ職人なんかを斬らねばならねえんだ。ここ台場は徳川のお膝元である地だぞ。そこで貴重な職人を斬ってみろ。次に転がるのは俺の首だ」
「徳川に仇を為す者でござる。その証拠を確かに掴んでいればこそ、こう言っているでござるよ」
忍者娘の口調はいたって真面目だった。ござる口調だが。彼女の生真面目な質のみではなく、嘘偽りはないように思われた。ござる口調だが。
公儀隠密の身なのだということがわかる。忍として、天下をとった江戸幕府に仕える者だ。並大抵の腕前ではない。
その身のこなしは風津の力と技を以ってしても、捕らえるのは困難だった。
混乱した風津は頭を掻いて、ひとまず刀を納めた。きん、という音が鳴るとともに、忍者娘は顔をあげる。
「術にて利用しようとした身ではあるが、おぬしの腕を信用しているのは本当でござる。我が主人からは、術を破られたならば破格の待遇で迎えようと言われておれば、金銭もきちんと用意があるでござる。魑魅魍魎、悪鬼羅刹を斬る不死殺しの風津と言えば……」
「もういいもういい。今日は終いにしようぜ。酔いもすっかり醒めちまった、クソッ」
悪態をつく風津は、そう言って席の端に寄せていた徳利をお猪口へと傾け、口に運んだ。
不死殺しなどという異名がついたのは、いつからだろうか。知る人ぞ知る名だ。なにせ妖鬼の類が表舞台より相当数減っている。
悪さをする鬼ばかりか、善き鬼まで減っている昨今においては、風津の出番はそもそも少ないのだ。どこか異界へと逃れたか、あるいは自分の知らない同業者が漁るようにして討ち取っているのではないかと考えている。
刀を抜いてすっかり意識の冴えてしまった風津は、そこではたと気づくことがあった。
「本物の珊太夫はどうしたんだ? 俺はあの女に用があるんだ。てめえなんかに構ってる暇はねえ。いや、ここにいねえってのは、いったいどういうことだ。ことと次第によっちゃあ、ただじゃ済まさねえぞ」
「本物の珊太夫はいまごろ、洋上でござるよ」
「……は?」
忍者娘の答えに、間抜けな返事をする。耳を疑ってしまった。
「客たるおぬしが知らぬのは道理よ。珊太夫はかねてより客として来られた南蛮渡来の御仁と恋仲であった。商売ではない関係でな。しかし相手の男は帰国の時期となり、珊太夫にも買い手も現れた。そこで拙者は両人より依頼を受け、珊太夫の立場と引き換えに逃したでござるよ。拙者としても風津殿をたぶら……会うために必要なことでござった」
「まだ死んだと聞かされた方がましだった……」
風津はそうつぶやいて、お猪口を呷った。
このまま酒を飲んでいれば悪酔いしてしまいそうだったが、飲まずにはいられなかった。
「それで依頼のことなのでござるが」
忍者娘はそう言った。風津が三本目の徳利を空にしたときだった。
お猪口を口につけながら、じろりと忍者娘の方を見る。彼女は太々しい態度で正座をし、風津を見ていた。
「なんだよ。今日は終いだって言ったはずだぜ。こちとら失恋の痛みで酒にでも溺れてねえとやってられねえんだ。話は後で聞くから放っておけ」
「そうもいられないでござる。永尾格次郎なる男が幕府へと仕掛けるのは今日、このときでござる」
「もっと早く言え、そういうことはよ!」
風津はそう言ってお猪口をおいた。忍者娘は顔を少しだけ綻ばせる。
「おお、受けていただけるでござるか!」
「そうじゃねえよ。だがなあ、テメエのせいで損した分は取り返さねえとならねえ。俺が珊太夫に払った分以上はもらえるんだろうな?」
「小さい男でござるな!?」
「俺だってなあ、本気だったんだからなあ!」
いまにも泣き出しそうな風津に、忍者娘はどうどうと馬をあやすように扱った。
ふう、と息を大きく吸って、吐いた。過ぎたことは仕方ない。気持ちを切り替えて、次に備えるのが肝心だ、と自分に言い聞かせる。
刀を脇において、交渉の席についた。舐められてはいけない。剣の腕は確かに見せたのだから、こうして刀を備えるだけでも牽制にはなるだろう。
「それでテメエ、名前は」
「はっ、申し遅れました。しかし、珊太夫という名もあながち間違いではないでござる」
「身分をもらったからか?」
「いかにも。ゆえにいまは珊と呼んでいただけると助かるでござる」
なるほど、と風津は頷いた。そもそも、忍者たる者がそう簡単に真名を明かすとは思えない。
ひとまずは珊と呼ぶことにするのだった。
「お珊、話を聞く前に俺の話だ。まず永尾格次郎なる者を斬ることはできねえよ。俺の剣では人を斬ることができねえんだ。不死殺しなどと呼ばれているが、逆に言えば不死の者のみを斬ることができるだけだ。どこで話を聞いたかは知らんが、そこを勘違いされては困るぜ」
「先ほどは、剣の話を珊太夫にしていたと聞いたでござるが。怪異を斬ることのみに特化した剣の自慢を?」
「馬鹿言うんじゃねえ。するわけねえだろ。あれはカマカケってやつよ」
ううむ、と唸る珊は、少しだけ悔しそうな表情を浮かべた。あまり表情の変わらない者であったが、どうやら自分の腕前に関わることには敏感らしい。
ともあれ、風津は伝えるべきことは伝えた。無論のこと珊は風津のことは知っているようであるから、人を殺めることができないことを承知の上での依頼であるだろう。聞く価値はあるかもしれない。
「もちろん、おぬしの腕については知っているでござる。永尾格次郎を捕らえるのは拙者に任せよ。おぬしには、拙者の護衛を務めていただきたい」
「忍者が護衛を必要とするって、そいつは逆じゃねえのか?」
「まったくでござる。しかし、相手は絡繰技師でござるゆえに。脅威というのも、彼の作る絡繰は江戸そのものを窮地に追い込むことのできる絡繰でござる」
「からくり?」
絡繰と言えば、仕掛けの類を指すものだった。いまでは絡繰と言えば、もっぱら南蛮由来の異様な技術、すなわち歯車や歯軸を用いた機械のことであった。
この台場の地は、そうした技術を学ぶ地として作られたものでもある。和蘭と物資的にも、技術的にも貿易を行う地であった。
過去において葡萄牙の商人たちを管理する目的で出島が作られたが、島原の乱にて九州が天草一揆衆と葡萄牙の手に落ちてからこの方、台場町がその代わりとなったのだった。
「たかが絡繰だろう。……それに、余計に俺を必要とする理由がわからんぜ」
「ただの絡繰ではござらぬ。鬼の絡繰でござる」
「鬼だぁ?」
風津は眉を釣り上げる。なるほど、鬼であれば自分の出番だろう。しかし絡繰と鬼をつなぎ合わせるなどと風津は聞いたことがなかった。
少しばかり悩む。鬼退治という本来の仕事に、金もたんまりとくれるときた。受けない理由はない。
だが、鬼の絡繰など聞いたことがない。そもそも鬼と絡繰というのは相反するものであるようにすら思える。
自分は鬼を討つ者として、知る必要があるのではないか。
「いいだろう、興味が湧いてきた。その話、受けよう」
「では参るでござるよ」
そう言うと、珊は畳を持ち上げる。そこには簡単にだが、階下へと繋がっている戸があった。
突然の行動に驚く風津は思わず呼び止める。
「おい、どういうことだ。永尾殿のところへ行くんじゃねえのか。窓障子を突き破った方が早えぞ。そっちに行ったらほら、護衛のもんがおるだろ。自信があるなら大したもんだが、俺はあいにく人が相手ならお荷物も同然だぜ」
「まだ話してなかったでござるな。永尾格次郎がいるのはこの地下でござる」
「……は?」
「永尾格次郎はこの遊郭の主人と癒着しておる。おぬしが珊太夫に払った金はその格次郎の研究開発の資金になった、というわけでござる」
「いっそのこと俺を殺せ!」
そう叫んでしまったとしても、仕方ないことだろう。




