一章七節
「ほら、お茶を飲んで落ち着いて」
「ん……」
与羽は差し出されたお茶を反射的に受け取った。
「旅はどうだった? 大変だったよね、絶対」
ゆっくりと湯呑を口に運ぶ与羽を見ながら、比呼は穏やかな口調で尋ねる。
「……うん。いろいろと――」
そして、与羽はぽつりぽつりと旅の話をはじめた。とても大きかった黒雨嶺分の町と城の話。そこで会った辰海の姉――銀龍の話。
嶺分から風見国の薫町まで伸びる街道を牛車で移動したこと。薫風吹き抜ける雅な都のこと。風見で立ち寄った町々の素晴らしい工芸品。
天駆で祖父と再会し、龍頭天駆では庶民の生活を見られた。
もちろん、口に出さないこともある。たとえば、与羽の姿を見た人々が浮かべた驚きや、風見醍醐に辱めを受けそうになったこと、それ以降辰海との関係がぎくしゃくしてしまっていることなどには触れない。
比呼には、旅を通して発見したこと、楽しかったことを中心に伝えた。
比呼はそれを、やさしい笑みを浮かべてゆっくりうなずきながら聞いてくれている。よいことばかりではなかったことは察しているだろうが、あえてそれに触れてこないのがうれしい。
「うん、そんな感じ」と与羽が話を締めくくった時も、「たくさん経験して、色々なことに気付けたんだね」と言うやさしくあたりさわりないながらも、与羽の苦労や苦悩をねぎらうような感想を言ってくれた。
だからこそ、次の言葉を言う気になった。
「それでさ、私、次の文官登用試験受けようかと思っとるんじゃ……」
「いいね!」
間が空くかと思ったが、比呼は満面の笑みで即座にうなずいた。
「文官の与羽――。かっこいいよ! がんばって!」
手を叩きながら、嬉しそうに言ってくれる比呼に、与羽の顔にも自然と笑みが浮かんだ。
「ありがと。がんばる。かっこいい中州大臣になっちゃるわ」
与羽の口の端が見慣れた形に吊り上がった。前向きな気持ちで官吏を志す言葉を口にできたのはこれがはじめてかもしれない。
「うん、期待してる」
もう一度、深くうなずく比呼。
「僕も、もう少しみんなに受け入れてもらえたら、武官準吏くらいにはなっておこうかなと思ってる」
そして、いきなりそんなことを漏らした。
「ええんじゃないかな。私は止めんよ」
比呼がしてくれたように、与羽も明るくうなずいてそれを認めた。
「ありがとう。目標は、三年後くらい。それまでに、精一杯この国と町になじむよ」
「うん。私にできることがあったら、協力するわ」
「ありがとう」
比呼は再度感謝の言葉を口にした。
「与羽も、僕にできることがあったら、何でも言って。全力で協力する」
「ありがと。助かる」
与羽は比呼が差し出してくれた手を強く握り返した。兄と話しても晴れなかった気持ちがやっと少し軽くなったように思える。
片手を添えて膝に置いていたゆのみが、じんわりとあたたかい。今まで不安定に揺らいでいた決心が、やっと固まりはじめた。これでいいのだ。比呼の後押しでそう思えるようになりはじめた。
「じゃあ、私、試験受けるのに必要な書類を取りに行ってくるわ」
ゆのみに残っていたあたたかい茶をゆっくりと流し込み、与羽は立ち上がった。背筋を伸ばし、いつものいたずらっぽい笑みを浮かべる。
比呼も立ち上がって、戸口まで案内しようとするが、与羽が片手で制した。
「いってらっしゃい」
仕方なく、比呼はその場で手を振る。
与羽は軽い足取りで、すぐにいなくなった。
迷いのない足音に、比呼はほっと安堵の息をつく。中州に帰ってきた与羽が、ずっと思い悩んでいるようだったのは知っていた。これで、彼女の気が少しでも楽になれば良い。
「がんばって」
誰もいなくなった空間に、そうつぶやく比呼。
そして、その表情がふいに曇った。表情が消え、濃い闇が瞳に落ちる。感情のうかがえないその顔は、別人のようだ。
「四ッ葉屋秋兵衛……」
低い声でそうつぶやく。
与羽の口から出た名前。彼女には大丈夫だと言ったが、彼ならば与羽や周りの人々との接し方、行動、些細な指先や視線の動きからでも、何かしらの情報を得るだろう。人間関係、上下関係、くせ、言葉遣い、性格、嗜好、考え方――。様々なことがわかるはずだ。
「ふぅ……」
目を閉じて息をつく。
与羽も面倒な奴に絡まれてしまったものだ。
「僕も、ちょっとがんばってみようかな」
比呼はそうつぶやくと、自分の持っている情報を頭の中で整理しはじめた。