七章二節
「そう言えばさ、辰海」
しかし、与羽から辰海に直接話しかければ、違ってくる。
「なに?」
あいかわらず、辰海は顔を上げない。しかし、彼の筆の進みが遅くなったところから、彼が与羽の言葉に集中しているのがうかがえた。
「私が明日の話し合いで議題提出したらどうなるかな?」
与羽の口元はわずかに緩んでいる。何か悪いことを思いついている表情だ。辰海は上目遣いにそれを確認して、手を一瞬止めた。
「君は試験に集中するべきだと思う」
彼の答えは、否定だった。しかし、今の与羽はそれだけで引き下がるほど弱っていない。
「もうだいぶ終わらせたもん。中州の特産品の提案書と周辺国――私の場合は風見に絞ったけど、そことの交易や関係性発展の計画書、城下町南部の治安向上案も完成しとる。朝議の議事録も十日分あるし、この年始議の記録とそれに対する考察と提案も絶対に間に合わせる。そりゃ、辰海や絡柳先輩が提出したやつほど大したもんじゃないかもしれんけどさ、試験通過には十分な内容ができあがっとるはずじゃよ。確認する?」
「いや、大丈夫。ここに集めてある本から、大体の内容は察せる」
本当は太一と竜月の兄妹に頼んで、詳しく確認したのだが、辰海はあえてそれを言わなかった。兄妹は古狐の使用人家として良く教育されているので、彼らから与羽にバレることもない。
「良くできてると思うよ。僕でもすぐには思いつかない小さな記録までつまびらかにあたっているのがわかる。量は僕の時より確かに少ないかもしれないけど、内容は当時の僕以上じゃないかな」
「十二歳の辰海には勝てとるか、良かった」
卯龍や紫陽宮美大臣が時々監督してくれていたのだからできがいいのは当たり前だが、辰海の言葉は与羽を安心させた。
得意げな笑みを浮かべる与羽を盗み見た辰海の胸に、熱いものが満ちる。自信にあふれた、どこかいたずらっぽさを感じる彼女の笑みは特に好きだ。その隣にいられたらと強く思う。しかし、ダメなのだ。その自分勝手な欲望はきっと与羽から笑顔を奪ってしまう。辰海はそう自分を諌めた。
「……何を提案するつもりなの?」
辰海は顔を上げずにそう尋ねた。意識して表情をかき消す。
「乱兄はいつ結婚するんかな、って」
「おお!」
名案だと言うように声をあげたのは太一だ。辰海は筆を置いて思考している。
「議論してもらえんでもええんじゃ。ただ、できるだけ偉い人がたくさんおる場で話して、少しでもみんなの意識に残ってくれれば――」
「これ、乱舞さんの気持ちは確認してる?」
「もちろん。沙羅さんにも確認したし、紫陽大臣や大斗先輩にも相談したよ。卯龍さんと舞行じいちゃんにはまだじゃけど」
「父上には事前に……」
辰海はそこまで言って言葉を切った。本当に卯龍に相談するべきか検討する必要があると感じたからだ。乱舞のことを思って賛成するか、今の中州の不安定な状況と不十分な財政の改善を優先して反対するか。理論だけでなく、感情が働く内容だけに、正確な予測ができない。卯龍は理を取るか情を取るか……。ただ――。
「一人だけ、間違いなく君の味方になりそうな人の心当たりがある……」
卯龍以外の選択肢がある。情で動くことを許された最上級官が、今だけ城にいるのだ。
「え?」
与羽の視線が刺さる。辰海は顔を上げて与羽を見た。
「柊一閃銀山地司。あの人なら、絶対に君の味方になってくれるはずだ」
柊家は中州で城主一族の次に濃く龍の血を継ぐ一族で、国政を離れて以降、ずっと中州の北にある銀鉱山とその周辺地域を守り続けている。方針の違いで古狐とは対立しがちだが、その能力の高さは疑いようがない。城主一族への忠誠心も非常に高く、現在の柊家当主で銀山地域の官吏の頂点に立つ柊一閃ならば、間違いなく乱舞の早い結婚に賛成するだろう。そのためには、資金が必要だが、銀の採掘権を持つ彼ならば、その捻出もたやすい。
「柊おじさんか!」
普段中州城下町にいない人なので、選択肢から抜けていたが、確かに彼がいてくれれば心強い。
さっそく、与羽は柊地司に面会を頼みたい旨を書いた書状を作りはじめた。官吏登用試験の過程で多くの人に協力を求めてきたので、書き方は慣れている。辰海が文面を確認しても、不備は一切ない。
「太一に届けてもらってもいい?」
「構わないよ」
辰海が答えて目配せすると、太一は身だしなみを整えはじめた。上着を羽織り、ざんばらな髪を頭の後ろで一つにまとめる。それだけで、立派な姫君の使者になれるのが、太一の優れたところの一つだ。中州の間諜を務める上級武官で、城下にいるときは下級文官として辰海や与羽の補佐や、使用人家出身の経験を生かして身の回りの世話を行う。彼の能力は多岐にわたる。
「ごめん。城の客間におるのはわかるんじゃけど、どこの部屋かまでは把握できてなくて……」
与羽は上質な絹に包んだ手紙を託しながら謝った。
「問題ない。使用人に聞けば一発だ」
太一は受け取った手紙に折りしわ一つつけないように、小さく掲げた。
「今夜か明日の朝か、時間のあるときにお話ししたい、って書いたから、お返事を受け取ってきてもらえると助かる。難しそうなら、使用人か誰かに託けてくれたら私まで伝わるように、手はずを整えてほしい。手間かけるけど……」
「任せろ」
使用人家出身の彼は、伝令係も慣れたものだ。すぐに足音なく退室し、城へと向かう。
「辰海も忙しいのに、ありがとう」
それを最後まで見送らず、与羽は自分の作業に戻った。
「気にしないで」
「今夜、ちゃんと寝るんよ?」
徹夜で議事録作成をしそうな勢いの辰海を、与羽は案じた。
辰海は一瞬だけ与羽を見た。手を止め、眉を下げて、辰海を見ている。本当に心から気遣ってくれているのだ。辰海は口元が緩むのを抑えられなかった。すぐに議事録に向かって俯くことで隠したが。与羽を傷つけたくないのに、以前話した時には少し怯えた様子で辰海と距離を取りたがっていたのに。
――今なら、受け入れられるのだろうか。
辰海の手がピクリと動いた。この筆を置いて、与羽に触れたい。
「体に無理が出ない程度には休むよ」
しかし、辰海はなんとかそう素っ気なく答えた。
「…………そう」
与羽の返事には間があった。短過ぎて、その言葉にこもる感情は読み取れない。
そのあとは無言だ。暖をとるために置いている、火鉢で炭が爆ぜる音が聞こえる。風で戸が軋む。時々、筆を止めた与羽が小さく息をつくのがわかった。もしかすると、辰海の息遣いも与羽に聞こえているかもしれない。紙を取り替える音ときぬ擦れの音。
その静寂を終わらせたのは、足音とそれとともにやってきた小姓だ。彼は太一からの伝言を預かっており、柊地司がまもなくこの場所に来ることを告げた。




