六章十五節
与羽は大斗を解放するために、その体から転がり下りようとした。しかし、大斗に軽く抱きとめられて阻止される。
「着物が汚れるよ? 俺の体に手や膝をついていいから、そのまま立ちな」
どうやら外出着の与羽を気にかけてくれているようだ。
「……ありがとうございます」
与羽は華奈の助けも借りつつ、できるだけ着物を汚さないように立ち上がった。裾の土を払っている間に大斗も体を起こしている。与羽に掴まれた右手首の調子を確かめてから、与羽と同じように全身の土を払いおとす。
「やっぱり、俺はお前が無能だとは思わない。俺相手に、空手でこれだけ戦える奴が無能なわけないだろう? きっとお前は文官としても同じように無能じゃないと思うな」
「でも、先輩手加減しましたよね?」
大斗なら与羽の手を振りほどいて、逆に彼女を下敷きにすることもできたはずだ。
「それ」
彼が指差したのは、与羽の左手首を覆う、飾り紐の編み物だ。ここに来る前、雨花の雨子がつけてくれたもの。
「無理やり攻勢に出たら、それを乱しそうだった。重要な局面で一瞬迷った、俺の決断力不足が敗因さ。戦いは戦闘力だけじゃ決まらない。今回は俺をためらわせたお前の勝ち」
大斗が素直に負けを認めている。与羽の自信を取り戻させるためにそう言っているだけだろうか? いや、大斗はそんな忖度をする人間ではない。
「ありがとうございます」
与羽は今日何度目かわからない感謝の言葉を口にした。
「それでですね。私、お二人に聞きたいことがあってここにきたんですよ」
あらためて、店の奥に三人並んで腰掛けた。与羽が真ん中で、左右に大斗と華奈がいる。
「官吏登用試験とは別件?」
「そうです」
与羽は答えて、一つ息をついた。怒られるかもしれない……。
「ただの好奇心なんですけど、お二人はいつ頃結婚されるご予定なんですか?」
二人を見比べながら、尋ねた。
「は? ちょっと! いきなりなにを言い出すのよ!」
案の定というべきか、華奈が飛びついてきた。与羽の口を抑えながら、周囲を確認している。幸い店先に立つ数子には聞こえていなかったらしい。一方の大斗は、真面目な顔で思案していた。茶化すと思っていたが、意外だ。
「先輩?」
華奈の手をゆっくり振りほどいたところで、与羽はそう短く声をかけた。
「俺は、乱舞と華奈次第って答えておくよ」
彼の返答もまた、真面目なものだった。
「俺はいつでもいいけど、華奈に無理強いはしない。でも、華奈にその気があっても、乱舞より先に所帯を持つことはないかな。乱舞は気にしないでって言うかも知れないけど、やっぱりあるじをさしおいては、ね」
「なるほど」
意外ではあったが、有意義な回答だ。
「ちなみに、千斗たちは――?」
次の与羽は大斗の弟のことを尋ねた。彼にも婚約者がいるのはよく知っている。
「あいつは俺が所帯を持つまで待つらしいよ。兄より先に結婚するのは、悪いとかなんとか。その必要はないって、何年も言ってきたけど……。強情な奴だよ」
「大変ですね……」
乱舞の婚姻は、予想以上に多くの人に影響を及ぼすようだ。
「で? 急にそんなこと聞いてきてどうしたの? 夫婦に興味を持ちはじめた?」
からかうような口調だ。
「いえ……。乱兄がいつまでたっても婚約状態から進まないから、そんなもんなのかなって気になっただけです」
一方の与羽はいたって真面目に答える。
「ああ……。嵐雨の乱でいろんな予定が狂ったからね……」
大斗は遠い目をした。
「あいつは周りにものすごく気をつかう奴だから、そんなそぶりは一切見せないけど、内心は察するものがあるよ」
「やっぱりそうなんですね。これは、沙羅さんにも話を聞いてみるべきかも……」
「なに? 恋愛成就大作戦の次は、祝言大作戦?」
大斗は少し愉快そうだ。
「そんな感じ、ですかね」
「楽しみにしてるよ。でも、先に官吏登用試験を通過しなよ?」
大斗の大きな手が与羽の肩を叩く。
「もちろんです」
それをさりげなく払いのけながら、与羽はうなずいた。
「まっ、今のお前なら大丈夫だろうさ」
彼はすっかり以前と変わらない調子で与羽と接している。与羽の変化、いや、復調を感じ取ったのだ。大斗はゆっくり立ち上がると、店の奥からりんごを三つ持ってきた。それを小さな風呂敷で包み、与羽の膝においてくれる。
「傷があって売り物にならないやつだから、早めに食べな」
どうやらお土産にくれるらしい。
「ありがとうございます」
与羽はにっこり笑って礼を言った。口の端をあげて、大斗もそれに応える。
「いつでも来なよ」
そう言って見送ってくれた。
このまま兄の婚約者――沙羅に会いに行くことも考えたが、城下町の南にある彼女の家はここから少し歩く上に、事前の連絡も一切していない。彼女は上級武官なので、家にいないかもしれない。仲は良いはずだが、頻繁に会うほどの間柄でもない。沙羅の件は日を改めようと、与羽はその足を城へと向けた。




