六章九節
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正月まであと数日に迫った頃、与羽は貴重な時間を使って城下町に下りていた。竜月が用意してくれた町娘の格好に黒のレースで髪を隠し、大通りを歩く。空は晴れているが、その色は薄く、冬の冷気が頬を刺した。しかし、今はそれも心地よい。冷たい空気を胸いっぱいに吸って与羽がまず目指したのは、一鬼道場だ。そこで雷乱が鍛錬を行なっているはず。
「雷乱!」
与羽は久しぶりに見る大柄な護衛官に向かって声を張り上げた。
「小娘……」
そんな荒っぽい呼び方も懐かしい。
「試験はどう?」
「今のところはなんとかなってるぜ。次の選考は文官登用試験が終わってからだとよ」
「んじゃあ、今は結構余裕あるんじゃん。たまには顔見せに来てくれても良いのに」
与羽は雷乱の胴に軽く拳を打ち込んだが、硬い筋肉に止められてしまった。
「お前、忙しいんだろ」
「それはそうじゃけどさ。息抜きも大事じゃん?」
言いながら与羽はたすきをかけて、袖をまくりあげた。竹刀置き場に歩み寄り、短くて軽い竹刀を二本とる。
「私、最近全然鍛錬できとらんのよね。少し付き合ってくれん?」
「その格好でか?」
二刀を構える与羽に、雷乱は顔をしかめた。今日の与羽の姿は稽古を行うには向いていない。落ち着いた暗色の訪問着の裾はくるぶしを覆うほど長く足にまとわりつき、太くて硬い帯は体をひねる障害になりそうだ。
「余裕余裕」
しかし、与羽はやる気まんまんで、竹刀を素振りしている。こうなると、説得は大変だ。
「少しだけだぞ」
与羽が満足するまで付き合うのが手っ取り早い。そう判断して、雷乱も竹刀を構えた。
「来い」
実戦形式で飛びかかってくるかと思ったが、与羽はゆっくりとすり足で歩み寄ったのち、雷乱の持つ竹刀目がけて打ち込んできた。ひとつひとつ、型と体の動かし方を確認しているようだ。右の竹刀をなぎ払い、切り返し、次は左。雷乱が自分の竹刀の角度を変えると、与羽もそれに合わせてくる。
真横に構えた竹刀に、斜め上から左右の竹刀を平行に斬り下ろす。その勢いで優雅に一回転すると、彼女の頭を覆っているレースの裾が浮かび上がって、与羽の姿を隠した。背の高い雷乱からはそう見えた。銀の髪飾りのきらめきに目を細める。
とっと、と与羽が体勢を定める足音が聞こえた。レースを透かして見えるおぼろげな影から次の攻撃を予測して竹刀の角度を変えると、そこに与羽の攻撃が叩き込まれる。左、続いて右。回転の勢いがあった分、先ほどまでより重い。
ダンッと与羽が強く踏み込むのがわかった。間髪入れず、先ほどとは逆回転で攻撃してくる。少しずつ調子づいてきたようだ。
――そろそろ竹刀以外の攻撃が来そうだな。
雷乱はわずかに重心を落とし足にも意識を割いた。しばらく竹刀への執拗な攻撃が続いたあと、低い姿勢になった与羽がさらに身を落とす。
――来る。
冷静にそう判断した雷乱の足に与羽の足が絡む。足を引っ掛けて体勢を崩そうとしたのだろうが、予測できていれば体重と筋力差でなんとでもなる。
「うわ!」
逆に足払いを返されて、与羽は簡単にひっくり返った。着物の裾が乱れて、ももまで見えてしまっている。転倒理由には、長い裾が足に絡んだのもありそうだ。
「おい、大丈夫かよ?」
予想より派手にすっ転んだ与羽に、雷乱は慌てて手を差し出した。
「思った以上に動けんくなっとる……」
はだけた裾を直して、大きな雷乱の手を取りながらぼやく与羽。
「着物が悪かったな」
与羽を引っ張り起こして、雷乱はさりげなく彼女の持っていた竹刀を取り上げた。
「官吏登用試験が落ち着いたらまたやろうぜ」
言外に今はここまでにしようと告げる。
「……そうしよう」
もう一戦とごねるかと思ったが、与羽はすんなりうなずいた。すでに立ち上がり、裾を払っている。
「ありがとう、雷乱。良い息抜きになったわ」
そう言うと、与羽は自分が使っていた竹刀を雷乱から受け取った。速足でそれをもとあった場所に戻すと、道場の師範に軽くあいさつをして、手を振りながらいなくなってしまった。
「何しに来たんだ、あいつ」
雷乱を案じてのことだとはわかっていたが、予想以上にあっさりとした態度に雷乱の口からそんな言葉が漏れた。




