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六章一節


 辰海(たつみ)の執務室は過ごしやすい。城の喧騒が全く聞こえないし、日当たりも良好で真冬でもぬくもりを感じられる。

 火桶からは熱とともに辰海が着物に焚いているのと同じ桜の香りがほのかに漂ってきた。何冊も書物を広げられる大きな机の奥には、与羽(よう)の背よりも高い本棚がいくつもあり、そこに古今東西のさまざまな本が丁寧に整理されて並んでいた。その多くは歴史書や朝議の議事録、法律書、地図など官吏としての仕事に関連するものだったが、空想の物語や絵巻物などの娯楽本もある。思わず人魚の肉を食べて不老不死になってしまった男性と病弱な女性の恋物語を読みふけりそうになって、慌てて本を書棚に戻した。


 必要な本だけを選び、慎重に開く。


「辰海の字だ……」


 この部屋にある本の多くは辰海が自分用にどこかから書き写してきたものらしい。普段官吏として公文書を作っている時の字より崩れているが、こちらの方が辰海らしさが出ている気がして、好感が持てた。


 卯龍(うりゅう)が助言した資料は、すべて古狐と中州の書庫にあった。辰海の部屋にもそれらの写しが収めてある。内容は確かに今の与羽に必要な情報ばかりで、これがあればより良いものが書けるだろうと確信できた。


「つまり、卯龍さんの中にはもうこれだけの考えがあったってことよね……」


 ――私がいなくても中州の政治は回る。


 卯龍に言われたことを思い出し、与羽は胸を押さえた。


「いたぞ! 行け、太一(たいち)。与羽をとらえるのじゃ!」


 しかし、物寂しさにふけたのも柄の間。突然響いた声と、開け放したままの扉からぞろぞろ入ってくる人たちに、与羽はのけぞった。


「かしこまりました、奥様」


 そう言って先陣を切るのは、辰海の乳兄弟――太一だ。その後ろで楽しそうに笑うのは、この屋敷の奥方、美海。


「え?」


 与羽が戸惑っている間に、太一はもう目の前まで来ている。


「ごめんな。奥様のご命令だから、しばらくおとなしくしておいてほしい」


 状況はわからないが、よく見知った相手なので害意がないことはわかる。与羽は口を開けたままこくりとうなずいた。

 それを確認して、太一は与羽の体を軽々と肩に担ぎ上げた。


「ちょ……! そのやり方は――」


 さすがに不満を口にした与羽だったが、「奥様の命令なんだ」と言われるとどうしようもない。


「よし。では、撤退じゃー!!」


 やけに楽しそうな美海と、それに従う太一。その後ろには賑やかしの女官までいる。

 彼女たちを良く知っている与羽は、あっさりとあきらめた。担がれたまま連れていかれるのは、屋敷の奥の奥。美海や卯龍の居室がある方向だ。ほとんど立ち入ったことのないそこは、北向きの部屋だったが、火桶と行灯のおかげで寒さも暗さも感じなかった。


 やさしくおろされた部屋には、美海に仕える中年の女官が複数人と、与羽の女官である竜月(りゅうげつ)、きらびやか打掛に身を包んだ紫陽(しよう)大臣までいた。いつも豪華に髪を結い上げてこれでもかと言うほど飾り付けている紫陽大臣だが、今日はつややかな髪を背に流している。


「え……?」


「太一、ご苦労じゃった。これから与羽を剥くゆえ、外で人が通りかからぬように見張りを頼んでも良いか? 寒くないように火桶と綿入れを好きなだけ持って行っていいゆえ」


「かしこまりました」


 戸惑う与羽の前でそんな会話が交わされ、太一が部屋を出ていく。部屋を出るときに与羽を見て強くうなずいたのには、どんな意味があるのだろうか。

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