五章十節
卯龍の足はそのまま古狐の屋敷へ向かっていた。城主や主要な官吏にはすでにあいさつを終え、あとはゆっくりと旅の疲れをいやすだけだ。
古狐の使用人たちは、すでに卯龍の戻りに気付いているはずなので、風呂や食事等々必要なことはすべてつつがなく整えられていることだろう。
しかし卯龍は、真っ先に本殿の自室へ戻った。その顔に表情はない。
彼の部屋にはその帰りを待っていた妻の姿がある。卯龍はその隣に倒れ込むように腰を下ろした。
「卯龍! 大丈夫か?」
美海はなんとか膝立って、その頭を抱きとめることに成功した。すっかり疲れ切ってしまっているようだ。
「疲れた……」
卯龍はそれだけ呟いて、美海の胴を力いっぱい抱きしめた。縋り付くように。
「卯龍は、よくがんばっておる」
美海は絞め殺されそうな力に苦しむそぶりもなく、やさしく卯龍の背を撫でた。
「疲れた……」
もう一度そうつぶやく。その言葉が、美海には「苦しい……」と聞こえた気がした。
「卯龍は間違っておらぬぞ」
だから、美海はそう卯龍を励ました。
「翔舞に……、会いたい」
「……うむ」
あの日から。翔舞の消えたあの日から、卯龍の心の底は曇ったままだ。それを照らせる人は、もう二度と現れないだろう。
「お前さんは、よく耐えておる」
辰海は、与羽に大事があれば、迷いなくそれに殉じるだろう。父親である卯龍も、同じ気質の持ち主だ。にもかかわらず、美海は卯龍の口から「死にたい」と言う単語を聞いたことがなかった。心の底には、きっとその願望が強くあるはずだ。しかし卯龍は、その自分の願いに蓋をして、乱舞や与羽を育て上げ、翔舞の愛した国を守ることを選んだ。
「お前さんは、本当に良く――」
普通、親しい者が亡くなっても、その悲しみはじきに癒える。しかし、卯龍の場合は、あえて自分でその傷をえぐり続けているのではないかと思うほど、翔舞のことを深く深く胸に刻み付けているようだった。
苦しみながら、最愛の、無二の友に二度と会えない絶望を噛みしめながら、それでも卯龍は乱舞を支え、与羽を愛し、官吏をまとめ、人々を導き続けている。
「与羽が……」
「与羽に会ってきたのか」
今日の卯龍は、数年ぶりのふさぎようだ。前回は、一日戦のあと、翔舞の死が確定した時。
「なんで、与羽も、乱舞も、翔舞も、平和な道を歩んでくれないんだ……?」
卯龍の手が激しく震えている。それをなだめるように、美海はやさしく卯龍の背を撫で続けた。
「俺は、もう、失いたくない。これ以上は、耐えられない」
「……卯龍よ」
美海のはっきりした声に、卯龍が顔をあげた。泣いているのかと思ったが、彼の目は乾いている。いつもそうだ。彼は決して涙を流さない。最後に彼の涙を見たのはいつだったろうか。
「もう、耐えなくともよいのではないか?」
これでは、卯龍の死をそそのかしているようだが、美海はそれで構わないと思った。これ以上彼に、苦しみを、寂しさを耐えさせるくらいなら――。
「与羽も、乱舞も良く育った。わしら二人で、良く育て上げたものよ。まさしく彼らも、わしらの最愛の子どもたち。そして、他のものも良く育った。辰海も銀龍も、絡柳や大斗や他の官吏たちや、太一や竜月たちもじゃ。もう十分じゃろう。お前さんは、良く働いた、良く耐えた。与羽のことは辰海と竜月に、乱舞のことは絡柳と大斗に任せようぞ。わしらは、もう休ませてもらっても良いのではないか?」
泣かない卯龍の代わりに、美海の目から大粒の涙がこぼれた。この世界と別れるのはつらいが、卯龍の幸せのためならそれも悪くないと思える。
「もう、耐えなくとも、良い」
美海の涙が、卯龍の顔を濡らす。卯龍のほほを伝った自分の涙を、美海はやさしく指の腹でぬぐった。




