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五章四節

 

  * * *


辰海(たつみ)、頼みがあるんだが、聞いてくれるか?」


 朝議を終え、議事録の清書を行うために古狐(ふるぎつね)の屋敷にある執務室へ戻ろうとした辰海に、声をかけたのは絡柳(らくりゅう)だ。


「なんですか?」


 朝議に集まっていた官吏が、謁見の間を出ていく人波をよけつつ、辰海が尋ねた。


「正月前に、卯龍(うりゅう)さんが南の砦から城下町に戻ってくる」


「はい」


 正月行事はかなり重要なもので、その一連の行事では、中州の官吏も大きな役割を果たす。その何百何千と言う官吏の代表が、中州最上位の大臣――古狐卯龍だ。彼の存在なくして、城下の新年行事は行えない。そのため、卯龍は師走の下旬には中州城下町に帰ってくることになっていた。


「まだ正式な任命はされていないが、その代わりとして、俺が南の砦に赴くよう打診があった」


「はい」


 辰海は全く驚くことなく頷いた。

 まだ華金との国境は注視が必要で、万一の事態に決断を下せる大臣級の文官が詰めておく必要がある。しかし、文官二位の月日大臣は米寿近い老齢で、三位の漏日(もれひ)大臣と四位の紫陽(しよう)大臣は官吏登用試験の当番で城下町を離れられない。六位の大臣は、名ばかりの遊び人なので、能力が必要な前線勤務には向かない。そうなると、残る大臣は文官五位水月絡柳のみだ。


「それでだ。辰海、俺の補佐として、一緒に南の砦に来てくれないか? 卯龍さんとともに、砦にいた文官の多くが城下に戻ってくるらしい。戦況が落ち着き、砦での仕事は減りつつあると言っても、彼らすべての仕事を俺一人でこなすのは無理がある。他にも何人かに声をかけるつもりだが、ひとり有能な補佐が欲しい」


 絡柳が辰海とよく一緒に仕事をするようになったのは、今年の春からだ。まだ半年ほどの期間しかたっていないが、貸本屋の計画や周辺国を回った長旅などの中で辰海の能力はよくわかった。絡柳が信頼して仕事を任せられる官吏の一人だ。


「かまいませんよ」


 一方の辰海も、絡柳の仕事ぶりはさすが最年少大臣だと舌を巻いている。もし、自分がもっと早い段階で上級官吏――果ては大臣を目指していたら、絡柳よりも早く大臣位につけていただろうと考えていたが、改める必要があるかもしれない。


「もっとよく考えてから返事をしてくれてもいいんだぞ」


 辰海の即答が意外だったのだろう。絡柳は怪訝な顔をしている。


「早く昇進したいなら、俺よりも卯龍さんについて仕事をした方が良いかもしれない」


「いいえ。僕も絡柳先輩と仕事をしたい気分なんです」


 辰海はほほえんだ。


与羽(よう)と離れることになるが、いいのか?」


 それでも絡柳は念を押してくる。


「大丈夫です。むしろ、今は与羽の近くにいない方が良い気がして……」


「……喧嘩でもしたのか?」


 笑みをはかなげなものに変えた辰海に、絡柳は首をかしげて尋ねた。


「いいえ。今の、官吏登用試験に臨む与羽の近くにいたら、余計なおせっかいを焼いてしまいそうになるので、それを避けたいだけです」


 与羽が今受けている官吏登用試験四次試験は、人に手伝ってもらっても問題ないことになっている。辰海のような上級文官に助言をもらうことさえできるのだ。しかし、それでは与羽の力にはならないし、与羽もそれを望まないだろう。そう思っていても、大量の書物の前で悩む与羽を思うと、手を差し伸べたくなってしまう。


「なるほど。懸命だな」


 絡柳も辰海の思考を察して頷く。


「そういえば、野火女官は俺が準吏になる前後のことを聞きに来たな。試験には差しさわりのない思い出話しかしなかったが……」


「僕のところにも来ました。正直あの頃のことはあまり思い出したくないんですけどね……」


 辰海が官吏登用試験を受けたのは、十二歳の夏。あの頃の辰海は、与羽を一方的に避けて、仲たがいをしていた。


「そうだな」


 当時を思い出して、絡柳は愉快そうな笑みを浮かべた。


「まぁ、あれがあってくれたおかげで、今の与羽があるんだとも思うけどな」


「あれがなければ、与羽はとっくに僕と結ばれているはずでした」


「……それもそうだな」


 仲たがいをする前の与羽は、辰海を兄のように慕い、彼に頼りっぱなしだった。

 しかし、辰海が与羽を突き放したために、彼女は大斗や絡柳や――多くの人と出会い、自分で考え、自分で動く力を手に入れたのだ。


 今の彼女は、自分のために兄のために国のために生きるのに必死で、辰海の好意に気が付いているのかさえあいまいだ。官吏や友としての辰海は頼りにしているが、男としての辰海は全く眼中になく思える。


「まぁ、理由はどうあれ、国境についてきてもらえるのはとても助かる」


 辰海が少し不機嫌になったのを察して、絡柳はここでこの話を切り上げることにした。城下町を離れるまでに終わらせておかないといけない仕事が山のようにあるのだ。辰海の機嫌を取っている場合ではない。


「申し訳ないが、大みそかまで半月を切っていて、時間がない。早めに辰海の持っている仕事の引継ぎ準備もしておいてくれ」


「はい」


 辰海も官吏の顔でうなずく。先ほどまでの不機嫌さはない。以前は、与羽のことで感情が不安定になったり、官吏としての自覚が足りなかったりすることもあったように思うが、切り替えが非常に速くなった。与羽もそうだが、辰海も着実に成長しているようだ。


「頼もしいな」


 絡柳は素直な感想を述べた。うれしそうな笑みを浮かべて、辰海の腕をねぎらうように叩きながら――。

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