一章二節
「嵐雨の乱の前ならそれでいいと思ったけど……。あのときにいろいろ見て、後ろ暗い歴史も知って、きれいごとばっかじゃどうもならんって思った。で、戦の後に乱兄を手伝ったり、黒羽や風見の領主さまや官吏の人らと話したりして、やっぱり、なんか――……」
うまい言葉を見つけられずに、しりすぼみになる。まだ自分の決意が揺らいでいるからかもしれない。乱舞もそれを見抜いているようだった。
「与羽が本当に心から官吏になりたい、って強く思うんなら止めないよ。だけど、今の与羽はまだ迷っとるよね。官吏には官吏のつらさがある。いろんな考えの人がいるし、いろんな仕事がある。その中には今の君には到底受け入れられないようなものもあると思う。何をやるにしても、意見の衝突は避けられないし、妥協も必要だ。精神的にきついことも多い。
それだけじゃないよ。官吏になれば、日によっては何日もほとんど休むことなく案件を片付けないといけない時もある。体力的にもきついんだ。与羽だって、僕が何時に起きて何時に寝てるか知ってるでしょう?」
乱舞は日の出と同時に起き、床に就くのは日付がとっくに変わったあと。二刻(四時間)寝られない日も少なくない。今だって、ほとんど日付が変わろうとしているくらいの時間だ。
「…………」
与羽は黙ってしまった。自分の気持ちはまだ揺らいでいる。こんな気持ちで官吏を目指してもいいのだろうか、そう思っている自分がいる。
「けど――……」
なんとか反論の言葉を絞り出す。一言ずつでも、自分の気持ちを伝えなければ――。そうしなければ、ずっと中途半端な『与羽』のままだ。
「……今の私じゃ、ちゃんとした姫にもなれんし、乱兄の力にもなれん。乱兄は私の言うことちゃんと聞いてくれるけど、……けど、私はただの妹なだけなのに、下手したら官吏の話より私の話をよく聞いてくれとるんじゃないかって――」
「そりゃあ兄妹だからね」
「政治の話も、よく聞いてくれとる。私は、辰海や絡柳先輩やほかの文官に比べたら全然知識も経験もない人間なのに……」
だんだんと口が回るようになってきた。このまま、自分の意思を伝えきらなければ――。
「君は知識や経験がほしいの?」
乱舞の口調はやさしかったが、どこか尋問するような厳しさも垣間見えた。口ごもりがちで、はっきりとしない自分の様子にいらだっているのだろうか。与羽は小さくなりながらもうなずいた。
「官吏になったからって、手に入るとは限らないよ――?」
「少なくとも、経験を得られる機会は増える……、と思う。城主の妹っていう特別権限じゃなくて、『一官吏』の権限で城主にいろんな提案や考えを伝えることができる。その方が、乱兄も余計な感情抜きで私の話を聞けるんじゃないかって――」
「大事な大事な身内なのに、特別扱いしてほしくないの? 家族扱いしてほしくないの?」
「そういうわけじゃないけど……。乱兄のことは大好きじゃし、大事なお兄ちゃんじゃけど、城主に迷惑はかけられんし、城主を支えるんならそんな中途半端な立場じゃダメなんだと思う。私はたぶん、『お姫様』にはなれん。それなら、『官吏』になるしかないんかなって」
自分でも何を言っているのかわからなくなりはじめているが、少しでもこの気持ちが乱舞に伝わればいい。与羽はそう思って兄を見た。彼の笑顔はいつの間にか消え、厳しい表情で与羽を見ている。