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四章八節

「それではもう帰られますか?」


 この言い方では、与羽に早く帰ってほしいように聞こえてしまうかもしれない。そう思ったが、すでに口をついて出てしまった。


「はい、申し訳ありませんが……」


「わかりました」


 辰海は一つ頷いて、使用人に与羽の(いとま)を告げた。

 すぐに使用人が与羽を帰す準備をする。短いあいさつを交わして、与羽は使用人に連れられて行った。これで古狐本家の門まで丁寧に送り返されるだろう。


「ふぅ……」


 与羽と使用人の足音が消えてから、辰海は息をついた。


太一(たいち)、ちょっとの間ひとりにしてもらっていいかな」


 近くの見えない場所に控えているであろう乳兄弟にそう頼んで、姿勢を崩す。


 卓上に大事な印が置いたままになっていたので、丁寧に拭いて箱に戻し、もとあったように絹でくるんだ。卯龍がこれを辰海に託したということは、それなりに辰海を認めてくれているのだろう。それをこんな軽々と与羽のためとはいえ使ってしまった。怒られるだろうか。怒られるかもしれないが、間違ったことをしたとは思っていない。大切な与羽のためなら何でもできる。


 ――でも、だめだ。与羽を想いすぎたら、また与羽を傷つけちゃう。


 与羽も必要以上に辰海と関わらないと言っていた。彼女も辰海を避けているようだ。


 ――当たり前だよね……。


 秋の旅を思えばもっともだ。そこで辰海は自分の欲望におぼれて、与羽に力づくでひどいことをした。耳や目じりに無理やり口づけて――。

 きっと与羽は怖かったはずだ。避けられても仕方ない。あの時の与羽の震えが、おびえた顔が、脳裏を離れない。


「くそっ」


 辰海は自分でもらしくないと思うような悪態をついて、自分のももを殴りつけた。いらだちをごまかすために。そして、自分を戒めるために。


 不安でいっぱいな与羽を見ると、助けたくなる。あのままでは、きっと与羽は上級官吏になる前につぶれてしまう。与羽が与羽でいられなくなってしまう。

 それなら、自分は与羽のためにどうするべきなのだろうか。さっきの瞬間、与羽の応募用紙をぐしゃぐしゃに破いて捨てるべきだったのではないか。


「君は今のままで、何も悩まず、楽しく生きてくれればそれでいいんだよ」とささやいて、彼女が傷つかない柔らかな真綿の檻に入れて――。

 与羽が望んでいなくても、それが与羽のためならば、やるべきではなかったのか……。


「わからない……」


 自分が与羽のために何をすべきなのか。

 与羽を守りたい。与羽の望みをかなえたい。どちらも同じくらい強い気持ちだ。しかし、そのどちらかしか叶わないのだとしたら――。


「わからない……」


 もう一度つぶやく。辰海は乱舞に、「与羽が与羽でいられるように守る」と誓った。しかし、その守り方がわからない。迷う与羽を見ているうちに、わからなくなってしまった。


「与羽……」


 虚空にその名前を呼びながら、ゆっくりと両手の指を組み合わせる。今は祈るしかない、と言うように。

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