四章六節
「なぜ古狐家長の署名・花押が必要なのですか?」
改めて聞かれると、少しだけ悩む。
「私の生家と人脈なら努力次第で得られると思ったからです。私は中州の姫君。他のどの官吏志望者より――いえ、ほかのどの官吏よりも有利で優れた立場にいます。そうでなくてはならないのです。自分だけでなく、兄や国のためにも」
「あなたは中州の姫君として官吏を志すのですか?」
「どうなのでしょうね」
与羽は相手に失礼にならない程度に肩をすくめて困った態度を見せた。
「私は分けて考えたい。純粋に、『与羽』として出生にとらわれない個人の力だけで官吏をめざし、官吏として国と城主を支えていきたいと思います。
しかし、周りの人々はそうは見ないでしょう。不本意でも、中州の姫君だからと言う色眼鏡をかけて私とその行いを見るはずです。姫君だからと私に私の個人的な実力以上のことを求めるかもしれません。私は中州の姫君として生まれた以上、それにこたえなくてはなりません。人々が姫ならできると思うことを当たり前にこなす。そして、できることなら、人々が思う以上の働きをしたいのです。そのために古狐家長に私が官吏を志すことを認めるとともに、私の身元やこれからの官吏としての行動を保証していただきたいのです。もちろん、古狐の名に泥を塗ることは致しません」
「あなたの格上げのために古狐家長の名を利用するということですか?」
「端的に言えばそうなります」
柔らかな問いに与羽はきっぱりそう答えた。
「素直なのはいいことですが、それだといつか周りの人間や他の文官家、地方の豪族から不評を買いますよ」
辰海は柔らかな物腰を崩さず、与羽の返答の悪い点を指摘した。世の中利用し、利用されることは多々あるが、「利用させていただきまーす」などとわざわざ宣言して利用することは挑発目的などよほどの悪意がない限りまずない。腹の中に黒いものを抱えているとしても、表向きはきれいで相手を立てる言葉を使い表面上は波風のない状態で付き合っていくのが普通だ。
与羽の素直さは中州では美徳とされるが、それでも素直に「利用する」と言われていい顔をする者はそうそういない。
「しかし、もちろん古狐への見返りもあるのでしょうね」
しかし、まずいと思ったのか表情の揺らいだ与羽に、辰海はすぐさま助け舟を出した。家として無条件に与羽に利用されてあげるわけにはいかないが、辰海個人の感情は別だ。古狐次期家長として接しつつも、個人としてできる範囲で彼女の力になる。
「は、はい。もちろんです。私の姓は中州。五派ある主要文官家のどの派閥にも属しません。しかし、このご恩は私が官吏として生きる限り忘れることはありません。必ずや古狐の助けとなります」
古狐系官吏を名乗ることはないが、それに近い立場には立つ。それくらいの恩返しはするつもりだ。
今の中州国文官勢力は文官二位と五位の大臣が月日系であるだけでなく、八位、十一位、十二位、果ては次期漏日家家長の妻まで月日系官吏が幅を利かせている。一方の古狐系官吏はいつの時代も少数精鋭ではあったが、現在の上級文官には片手で数えられるほどしかいない。古狐系と名乗らないにしても、与羽の存在はありがたいはずだ。
「なるほど」
辰海はうなずいた。口には出さないが、それはなかなか価値がありそうだと思ったのだ。中州城主一族と言う家に縛られた与羽が官吏として生きていく場合、上級文官の中でも一桁の位を持たなければならない。辰海も文官筆頭古狐と言う家を背負う以上、ゆくゆくは大臣位を勝ち取らなければならない。そうなれば、上位十位以内に古狐系が二人。家としてはかなりおいしい条件だ。
「いいでしょう」
辰海は手を小さく振って使用人に墨と筆を用意させた。
「署名します。書類を出してください」
「ありがとうございます!」
与羽は丁寧に巻いてひもで止めていた用紙を開いた。
辰海が筆の白い穂先に墨を含ませる。そうしながら、すでに書かれた四つの名前を見て浅くうなずいた。どうやらこの人選は辰海も満足のいくものだったようだと与羽は内心安堵のため息をついた。
そして、辰海は整った美しい字で一番最初の空所に自分の名前を書いた。「文官筆頭古狐家家長代理」と言う肩書とともに。




