四章三節
「ふっ」と大斗はそんな与羽を鼻で笑った。
「本当につまらない答えだね」
そう言いつつも、大斗は北斗から筆を受け取った。
「自信がないなら、はなから上級官吏なんて目指さないべきだと思うけど、俺が大好きだった昔の与羽に免じて署名だけはしてあげるよ。でも、困ったことがあっても俺のところには来ないで。今のお前を助けてやる気にはなれないからね。たぶん、親父が何とでもしてくれるよ」
大斗の署名は、いかにも仕方なく書いてやったと言うような、ひどく雑な字だった。
「『武官筆頭九鬼家次期家長』も書いておけ」と北斗に言われて、それも渋々書き足す。
なんとか必要な署名は得られたが、不安は募るばかりだ。
「与羽ちゃん、うちの馬鹿息子がごめんな。九鬼は、絶対に与羽ちゃんを応援するし、困ったら、いや、困ってなくても、いつでも頼ってくれ」
北斗が大斗の首根っこをつかんで、頭を机に押し付けながらやさしく言ってくれるが、与羽の心には大斗の言葉が鋭く刺さったままだ。それでも、大斗はこれから長い間、ともに官吏として働いていくことになる相手だ。彼の署名は、ひどく危うくはあったが、手に入れることができた。
「ありがとうございます」
与羽は淡く笑んだ。
「これからもよろしくお願いいたします」
そのあと、北斗数子夫妻や華奈と少したわいもない話をして、九鬼家を辞す。
そして日を改めて、城下町の外に住む母方の祖父を訪れた。
中州川を渡り南北に延びる街道を越えて、山地帯に近づくと、道が細くなり、急な上り坂になる。その両側には高い石垣が組まれ、その上に家が建っている。高い石垣も急な坂も細い道も戦の時に敵の侵入を防ぐ役割を果たしている。この坂の終着点には、龍神水主を祭る神社が鎮座し、そこまでの道沿い――石垣の上には小さな町が形成されていた。
与羽が止まったのは、その入り口付近。質素な門構えのお屋敷だ。豪華ではないが、丈夫な作りの門の両端には漆喰をしっかりと塗りこめた高い塀が続いていた。
あらかじめ与羽が来ることを伝えられていたのだろう。与羽が立ち止まった瞬間に門横の通用口から老爺が出てきた。
「豊田殿」
彼の顔は見知っている。亡き母親の父――要するに与羽の祖父だ。
「姫様、ご足労申し訳ありません。ようこそいらっしゃいました」
「いいえ。城まで足を運ぶと言ってくださったのをお断りしたのは、こちらですから」
そう祖父と孫には見えない他人行儀な会話をしつつ、与羽は客間へ通された。客間は霜月(11月)とは思えないほど暑く温められており、調度品も埃一つなく磨き抜かれている。与羽が来ると言うことで、見栄えよく整えたのだろうが、調度品一つ一つが中州城にあるものと比べてもそん色ない上質なものであることに与羽は気付いた。家自体も大きく、立派な作りのようだ。
農民と言うのは、もっと貧しく質素なものではないのか。これでは、中州の上級官吏の家と変わらない。しかし、その疑問は顔に出さず、保証人欄の一番後ろの空欄に署名をもらった。
「姫様は、だんだんと面差しが母君に似てこられましたね」
その墨が乾くのを待つ間、祖父がそう切り出してきた。




