一章十節
「その気持ちはよくわかるぞ!」
与羽の答えに、美海はうれしそうな声を上げた。彼女の膝の上にある歴史書は、彼女の夫――卯龍が書いたものだ。何度も何度も繰り返し読んでいるのだろう。その本は手垢で汚れている。
「一字一字心を込めて書いたのだろうな。この本を読んでいると、卯龍を見ているようで――。若いころのは、当時の卯龍のように少し角ばっていて攻撃的な字で、最近の卯龍が書いた本は自信に満ちた勢いのある文字で美しくまとまっていて――。本当に、……好きなのだ」
そう言う美海はうっとりと本の表紙に書かれた卯龍の名をなぞっている。
「……そうですか」
与羽はどうこたえるべきか悩んで、なんとかそれだけ言った。
戸惑った様子の与羽を見て、美海は小さく息をついた。
「そう言えば、『角にはその人の自信が出る。止めにはその人の意志が出る。跳ねにはその人のやさしさが出る。払いにはその人の強さが出る。文字はその人そのものだ』と卯龍が言っておったな。文字が美しくても文章として見ると不格好なこともある。逆もまたしかり。
与羽が辰海の文字を読みやすいと言うのなら、その文字はお前さんが読みやすいように書いてくれた文字なのだろうな」
「……そんなものなのでしょうか?」
「お前さんのためなら、やってのけるぞ。うちの息子は」
美海はそう胸を張った。
「卯龍の翔舞好きも大概だったが、辰海も一緒よ。なぜこの家の者たちは、そこまで城主一族に心酔するのであろうな?」
翔舞とは、先代の中州城主で与羽の父のこと。卯龍とは親友だったと聞いている。
「……わかりません」
与羽は首を横に振った。
「わしにもわからぬ。だが……、そう言うところも、たまらなく好きなのだ」
自分は美海ののろけ話を聞きに来たわけではないのだが……。そう思いつつも、与羽は彼女の話をうなずきながら聞いた。
「与羽は、今回の官吏登用試験を受けるのであろう?」
「なんでそれを?」
この話はまだ兄の乱舞と先ほど会った比呼、試験の申込用紙を配布している部屋にいた官吏しか知らないはずだ。
「わしらの情報網を甘く見てもらっては困る」
驚く与羽を見て、美海は得意げに胸を張った。
「卯龍も辰海もわしも、古狐系官吏も使用人も、みんなお前さんを応援しておるぞ! 試験中も官吏になったあとも困ったときはいつでも頼るがよい」
「……ありがとうございます」
与羽は中州城主一族出身と言う身分に頼らず官吏を目指したいと思っている。美海の申し出はありがたかったが、古狐に頼るのは城主一族の権限を使っているようで気が引けると言うのが本音だ。
古狐本家の書庫から歴史書を借りている時点で、その権限を行使してしまっているような気もするが……。自分自身、矛盾を感じつつも、「これくらいなら許されるはず」と心の中で自分に言い聞かせる。
「うむ」と美海は強くうなずいている。
「それでは、私はこれで――」
与羽はそう言うと、集めた歴史書を抱えて逃げるように古狐本家をあとにした。




