一:海の中へ…
そのくじらは浅い水面近くをゆったりと泳いでいた。
なにを思うのだろう?
なにを見てきたのだろう?
時々、そのくじらは何かを求めて、海深くへ向かって潜ってゆくと云う。
具体物がほとんどない、光もほとんど差し込まない、暗い、重い、海の底を旅するのだと云う。
目覚めると僕は、いつもと変わらない散らかった部屋にいた。いつと変わらないタイミングでベッドから起き出し、顔を洗い、服を着替え…
いつもと変わらない遅刻ギリギリのペースで学校へ向かった。
いつもと変わらない朝。いつもと変わらない一日。
僕の人生が同じような一日の繰り返しでしかないと言うことを、僕はそろそろ覚悟し始めていた。おもしろくも、つまらなくもない、ただ、同じような日々。
だけど、その繰り返しのどこかで、その人生を彩るような、素敵な出来事が起きて欲しいと…
…やっぱり、心のどこかで願っていたんだ。
今日もいつもと同じオレンジ色の電車の四両目に乗り込んだ。
いつもと変わらない。少なくともかわりばえの無い車内
そういえば…
その子もやっぱりいつものようにそこに座っていた。
ああ、やっぱり。
その子は、僕と同じ大学に通うらしい女の子。同じ駅で降り、同じ道を通って同じキャンパスへ。
初めて見た時は正直かわいいと思った。
でも、それだけ。
同じ大学だからって、講義で会うだとか、同じサークルだとかって訳でもない。話した事もないし、話す気もない。
今ではただいつもと同じ景色の一部になっていた。 予定通り、2限の講義は眠り、3限はサボったその日の午後、やっぱりいつもどおりの人気の少ない中庭のベンチで昼寝をすることにした。
何もない昼下がり
何でもない昼下がり…
大学生活、いや、人生なんてこんなもの。と、ついつい諦めたような気持ちになる瞬間だ。
でも、その時の気持ちは中断させられた。東棟の四階から自分に向かって落ちて来る何かによって。
半分眠っていた僕には避ける暇などなく、それは僕の頭に直撃した…たぶん。
辺りが真っ白になった。
くじらは海の少しだけ深いところを漂っていた。まだ、たくさん光が届く所。上の方にはさっきまでいた海面が、下には計り知れない闇があった。漂いながら、くじらは少しずつ、深く、深くへ沈んでゆく…
「ねぇ…」
ん?
「ねぇ!」
なんだ?
「お〜ぃ!!」
少し懐かしい声…
はっと目を開けると、そこは見覚えのある映画館だった。まわりの雰囲気からして、上映の終わったところのようだ。
「ん、あれ?もしかして、オレ途中で寝ちゃった?」
「もう終わっちゃったよ!女の子と二人で映画みにきて、途中で寝るとかあり得ない!」彼女が隣で怒っているという顔でわめいていた。
「わり。最近寝不足だったからさ〜…。」
ほんとにごめんという顔で僕も応対した。
彼女が本気で怒っているわけじゃないこと位わかっていた。
「ね?怒らないで、ほら、行こ?今日は時間いっぱいあるしさ」
「…うん」少し笑って、そして手をつないで、彼女は応えた。
高校生の僕らにとって時間はどんどん過ぎ去ってゆく。でも、それなのに僕らは信じられないほどたくさんのことを感じて生きている。
だから…彼女とのこれまでの半年にだって、半年分よりずっとずっと多くのものが詰まっている。
本当に…もう、一生モノになっちゃうんじゃないかな…
そう思えて、願えてしまうほどだった。
映画館をでると、まぶしい光に目がちくっとした。
町を歩きながら、彼女は隣りで一生懸命僕に、僕が寝ていた部分のストーリーを解説していた。
僕はそれをしっかり聞きながら、彼女とな時間の共有を実感していた。
あぁかわい。ほんとにかわいい。どうしたらいいんだろう?
手をつないで歩く二人を何か柔らかなものが包んでいた。
そして、デートのメインな予定が終わった後、僕らが寄る場所はいつも決まっていた。
そこは、とあるマンションの地下駐車場。僕らはいつもここに忍び込んで、抱き合って、キスをした。長い長いキスを、何度もした。
誰かが来ないかというスリルが、妙に気持ちを高ぶらせる。
「…ねぇ」
彼女から唇をそっとはなし、彼女の両目を見ながら、僕は、
「家、来ない?」と、初めて誘ってみた。
彼女はそれほど悩む訳でもなく、簡単に
「うん。」と応えた。
その日、初めて二人同じ方向へ向かった。
その帰路は別に何か変わった様子もなく、二人、いつものようにふわふわと喋りながら、家に向かった…。
そこでは別に特別なやりとりは必要なかった。二人はさっきよりもずっとずっと深いキスをした。
二人、どちらともなくベッドに倒れこんだ。
僕は、心の中から彼女の名前を呼んだ。
彼女の…名前……を……?
そこで記憶は止まった。
彼女の名前は…?誰よりも愛しかった、彼女の…名前?
ねぇ、
「なに?」
『僕』は彼女を愛せていたかな?
「あたりまえじゃないか。世間が許せば、世界一愛しかったとすらいえるかもよ。」
どうして、そう言えるの?
「彼女といるときが、あの頃僕は一番幸せだったんだ。恥ずかしいけど、彼女がいれば、他に何もいらないって…何もいらないって、思えたよ。」
…そう、『僕』は本当に幸せだった。それはどこまでも深く生きている。
「ああ。」
彼女はどうだったかな…?
「え?」
彼女は『僕』といて、本当に幸せだった…かな?
「あたりまえだろ!彼女だって幸せだったに決まってるさ。」
どうして?どうしてわかるの?『僕』は彼女ではないのに…?
「え?」
と、言うか、『僕』は今の言葉を本当に自信を持っていえるかな?
「……」
だから、家に連れてったんでしょ?
「…え?」
『僕』が本当に彼女を幸せに出来ているか、本当の意味で、彼女を愛せているか、とか、そういうことを確かめたくて、彼女を家に連れて行って、そして…
「違う!ただ、僕は、彼女が愛しくて、仕方なくて、それで…。」
結果は…?
「結果?」
彼女を連れてった結果、どうなったのかってことだよ。
「どうだっていいだろ!そんなこと…。」
でも『僕』は気にしてる。誰よりも気にしてる。そうでしょ?
「……」
あの後悩んだよね?心がどうにかなっちゃう位に。
「……」
そして、『僕』はその世界一の愛を手放した。彼女と共に『愛』をまるごと…。
「……」
あのあと『僕』は誰も愛さなくなったね。殊に女の子とは取れるだけ距離を取ろうとしてるよね。
「うるさい!僕には愛なんて不安定なものいらないんだ!あんな……あんな形のないもの…」
『僕』はそんな形のないものだから、せめて、二人だけが感じることのできる事で愛を見せようとしたんだよね?
それが、『僕』なりの精一杯の、彼女の為の行為だと、思ったんだよね…。
でもね、この海の中に『僕』があれほど
「愛」していた彼女の名前は残っていないんだ。
こんな浅い所にちょっと潜っただけで、もう、ほら、記憶の海に彼女は朧げにしかいない。
代わりに、『僕』が感じることの出来るモノは?
「……………………。」
僕はその
「事実」をかき消そうとした。僕が記憶している
「事実」…。つないでいた手の感触…彼女に近付けば近付くほど高ぶる気持ち…キスした時の唇、舌の柔らかさ、細い体を抱いたときの温さ…そして…
記憶を掘り起こせば掘り起こす程、現れるのは生々しい感触…男である自分の何かをくすぐるような、生きた感触だった。
「これは………何?僕の………何?」
わかってる。でも…わかりたくない……。
海が大きくざわついた。
ねぇ、、『僕』は少し
「人を愛すること」を美化し過ぎてたんじゃないかな。難しくとらえすぎてたんじゃないかな。お互いがお互いを想い、お互いがお互いを満たし合い、幸せにし合うような、そんな綺麗な奇跡みたいなものを目指してしまっていたんじゃないかな。
でもね、愛の根源にあるものは結局、自分の快を求める欲なんだよ。
「…欲?」
そう、結局は、『僕』の欲を満たしたいだけなんだよ…
「そんなの…嫌だ…」
そうだね。人は、少なくとも『僕』は利己的な所をとても隠したがるね。
「だからやっぱり…愛なんていらないんだ…。そうだ!あんな我がままなもの…!」
……本当に、『僕』にとって愛はいらないモノなのかな?『僕』のわがままな汚い部分を晒してしまうものでしかないのかな?
「………………」
……ねぇ、もう少し潜ってみようよ?
「潜る?」
そう。キミの海の中のもっと深くを見に行こうよ……
「どうして?」
キミの…キミが必要と思える愛を……キミの心を……ここからじゃ下は闇しか見えないけど、あの闇の向こうにも、きっと何かがあるはずだよ。キミの気持ちを動かす何かが…
くじらは更に深くへ潜って行った。ざわついた彼の心の海の中を……
つづく
ふぁいです。愛読ありがとうございました…と言いたいところですが、お話はまだまだ序盤です。是非続きも読んでいただければと思います。