8話
その頃、屋敷では――。
長さ三メートルはある食事テーブルの前に、昼食を終えたリンが腰かけていた。
猫の姿をしているからと言って、床に置かれた平たい皿から猫用の餌を食べるわけではない。ちゃんと、人間の時と同じように食事をとっている。
不便ではあるが、抜かりはない。尻の下には分厚いクッションが置かれており、きちんとテーブルに口元が届くようになっているのだ。
「リン様、食後のコーヒーはいかがですか」
「頼む」
高級ブランドのカップに注がれたコーヒーを小さな舌でチロリと飲むと、リンは傍らに立つ椿に話しかけた。
「もしや豆を変えたか?」
「はい。さすがリン様、よくお分かりですね」
「師匠が教えてくれた中で、コーヒーが一番いいものだったからな。この不思議な飲み物を気に入ってからは、魔法よりも詳しくなってしまった」
昔を懐かしむように、黒猫はカップの中を眺める。
「はじめて師匠から口にしろと言われた時は、真っ黒くて不気味に感じたものだが……」
ふいに言葉を切って黙り込んだ屋敷の主を、椿が心配そうに見つめる。
「リン様?」
「あ、いや」
リンは顔をあげ、慌てて首を横に振った。
「いかんな。師匠が私を置いて出て行ってからずいぶん経つのに、いまだに彼女を忘れられないなど我ながら未練がましい話だ。せめてもとの姿に戻してからこの世を去ってくれたら吹っ切れたのかもしれんが」
「ルネ様がなぜリン様に呪いをかけたのか、やはり分かりませんか? もし理由だけでも分かればもとに戻る方法が見つかるかもしれませんよ」
形のよい眉をよせて、椿が真剣な声で気遣う。
「呪いをかけた理由……か。そう言えば、師匠は去り際に何かを言っていたような気もするが――百五十年も前のことだからはっきりとは覚えておらん。やはり私も歳だな」
リンは自嘲的な笑みを浮かべ、冗談めかして言った。
――ルネ・ルベールが死んだ。
リンが師匠の訃報を噂で聞いたのは、その師匠に猫の姿にされ、この屋敷に置き去りにされた少し後のことだった。
ルネがまだ屋敷にいた頃、今と違って二種類の魔女が存在していた。
悪魔に魂を売って力を得た魔女と、リンやルネのように生まれつき力を持つ魔女だ。
ふたつの派閥に別れた魔女達は、何百年もの間、互いを憎み戦争を続けていた。
主な戦場は中欧だったため、日本に住むリンにはあまり関係ない話だと思っていたのだが、それは彼女が未熟で状況をよく知らないだけだった。
ルネが屋敷を去ったのは他でもない、激化した魔女界の戦争に行くためだったらしい。
のちに『魔女界の最終決戦』と呼ばれる戦いにおいて素晴らしい活躍を見せたルネは、最後の最後で敵と相討ちになって命を落としたと言う。
そして敵の殲滅に多大なる功績を残したルネの名は伝説となり、争いの絶えなかった魔女の世界は平和の時代を迎えたのであった。
戦争の呪縛から解放された仲間の魔女達は、それぞれの人生を歩み始めた。戦いに魔法を使う必要のなくなったため、魔力を捨てて普通の人間としての生活を始める者もいたが、ほとんどが他の魔女相手の商売を生業にしていた。使い魔売りや魔術道具売りなど、今やひとつの業界となっている。
リンも、魔法薬と占いを魔女に提供して生計を立てている。
普通の人間として新しい人生を歩むことを考えたこともあるが、一日の半分を猫として生きていかねばならないリンにはとうてい無理な話だった。
ルネがとつぜん自分を置いていった理由が、戦争に行くためだというのは理解できた。
帰ってこない理由も……。
しかしなぜ、半日だけ猫にする呪いをかけていったのか、それだけはいくら考えても答えがでることはなかった。
師匠はいつも優しかった。
一緒に過ごした時間はたったの四年だが、思い出の中の彼女はいつだって未熟なリンを心配し、愛情をしめしてくれていた。
なのに、どうして――?
最初の四十年くらいは悶々と悩み続けるリンだったが、しだいに変わらぬ日常が愛おしく思えてくるようになると、争いをなくしてくれたルネに感謝の気持ちを抱くようになっていた。
それでも時々こうして昔を思い出すたびに、言いようのない寂しに襲われる。そうやって過去に思いをはせては無駄なことだと気づき、最終的にはいつも今に感謝するのだ。
孤独じゃないことに。
猫の姿をした魔女と言う、人間とはかけ離れた存在の自分に笑いかけてくれる人がいることに。
それが、これまでは真城家の執事ひとりだった。だが今では椿が住み込みで働くようになり、ハルとジュリアを預かることになり……。新しく執事見習いとなった刻という少年も加わり、ずいぶんと賑やかになった。
彼らは皆、大切な家族だ。気恥ずかしくてなかなか口にはできないが、そう思っている。
「さて、陰気臭い話しはやめるとしよう。今日は天気が良い。たまには庭に出て、のんびりと陽に当たるとでもするか」
リンは椿に微笑みかけた。
「私もご一緒します。あ、その前に日焼け止め塗らないと……」
「そんなもの必要か?」
何気なく聞いたリンだったが、椿はさも重要なことのように熱弁する。
「もちろんです! 二十歳を少しでも過ぎたらシミ予防とかしておかないと、後が怖いですから」
外に出るたびに何かを塗りたくるのは面倒そうだと思いながらも、近頃の若い娘の美容に関する知識の豊富さには感服せずにいられないリン。
もっとも紫外線予防など、真っ黒な毛皮に覆われている彼女には必要ないのだが。
「猫になって得したこともあるな。日焼けなど気にしなくていい」
つまらない洒落の調子で言うと、椿が探るような視線でリンを見る。
主人の発言が自虐でなく冗談だと分かると、彼女は安心したように表情をゆるめた。
「ええ、そうですね」
どうやら、ずいぶんと気を遣わせてしまったようだ。
重い部屋の空気をかき消すように、リンはできるだけ明るい声で呼びかける。
「椿」
「はい?」
「今日の夕飯は何だ」
「銀だらの煮つけと、リン様の大好きなカニのお味噌汁です」
「ほう、それは楽しみだな」
暢気に日光浴をし、夕飯を楽しみにする。
些細なことに喜びを感じる自分に苦笑しながらも、リンはこんな平和が続くことを祈るばかりだった。