5話
敬意ゼロパーセントの棒読みに満足した主に連れられ、刻はまず二階へと階段を上った。
コの字型に並ぶ八つの部屋はすべてプライベートルームで、右側から椿、ハル、ジュリア、刻の部屋の順。そして空き部屋をふたつ挟んで英次の書斎、リンの部屋という順になっている。
ちなみに刻は今、プライバシーという横文字を知らない江戸時代生まれの主によってご丁寧に全員の部屋の中まで見せられていた。
「いらっしゃイ。で、いきなり人の部屋に何のご用ですカー?」
机に向かって作業をしていたハルが、のんびりした声でこちらを振り返る。分解された部品を見て、時計を修理しているのかと思ったがどこかおかしい。彼が今手にしているモノだ。あんなに黒くて大きい球体が時計に入っているはずはない。
よく見れば部屋中に怪しげな小物が、まるでインテリアのごとくいたるところに置かれている。一見粘土細工や、一見ブリキ製おもちゃや、一見ぬいぐるみのすべてに不自然に手を加えられた後があった。
こいつ絶対やばいものを作ってる――。イタズラに手を焼いていると言ったリンの言葉を思い出して、刻はそう確信した。
「刻に皆の部屋を見せたかっただけだ。邪魔をしたな」
気付いているのかいないのか、リンは軽く侘びて扉を閉めた。
――次いてジュリアの部屋。
「まったく、あいつの趣味はよく分からん」
こちらは可愛らしいピンク色の壁紙に、日本のアニメや戦隊物のポスターが壁一面に貼られている。リンは不気味なものを見るような目で言うが、仮面戦士やロボットなどは刻にとって懐かしかった。共通の話題を見つけたところでまったく話したいとは思わないのは、あの高すぎるテンションについていける自信がないからだ。
――そして刻の部屋へ。
「お前の部屋は何だか……家具が安っぽいな」
「余計なお世話だ。安くていいものが現代の主流なんだよ。っていうか、俺の部屋は見る必要ねーだろ」
「それもそうだな」
殺風景な刻の部屋を出て、ふたりは英次の部屋に入る。
「げ」
一見すると書斎といった感じの部屋に並ぶ、無数の写真立て。そこには幼い頃から現在までの刻の写真が入っていた。
「何だこれ……すげー気持ち悪いんだけど」
「そう言ってやるな。よほどお前が可愛いのだろう。新しい写真が増えるたびに私に成長を自慢してきたからな」
成長して、可愛くもない孫の写真を見せびらかす祖父の姿は容易に想像できる。刻は写真を見られたことが恥ずかしいというよりも、相手の迷惑も考えずに孫の写真を見せる祖父が恥ずかしかった。
「でもアンタ、俺を最初見た時に顔知らないっぽかったけど」
「ああ、最近の写真はちゃんと見ていなかったからな。お前が小学校に上がった頃から、私は英次の孫自慢につきあうのをやめた」
「それが正解だな」
最近のものと思われる写真のひとつに目を落として、いつのまに撮ったんだと呆れる刻。
「なあ、刻」
「――?」
呼ばれて振り返ると、真剣な顔のリンと目があう。
「お前は私を恨んでいるか?」
「いきなり何だよ……」
訝る刻に、彼女はためらうように口を開いた。
「私はお前から、英次と過ごす時間の大半を奪ってしまった。あいつがお前をいつまでも子ども扱いしているのは、屋敷の出入りが忙しいせいでお前を家でひとりにしてしまったという負い目があるからかも知れん」
「ああ。そんなことか」
刻はあっさり答えた。
たしかに小さい頃から祖父はほとんど家にいなかった。だが寂しいと思ったことは一度もない。それが当たり前だったからだ。
「仕事なんだからしょうがないだろ。自由な時間が少なくなるなんて文句言ってたら世の中に働く人間はいなくなるし、ジイさんの年齢を考えると今の収入も十分すぎるくらいだしな」
「お前は若いくせに、理屈っぽい奴だな」
淡々と言葉を並べる刻に、リンはふっと笑った。
「まあ、これだけは分かってやってくれ。英次は本当にお前を大事に思ってる。今回の出張も、お前を残して行くのを心配していたのだぞ」
「分かってるよ。だけど本当に心配なのはジイさんの方だ。ロクに海外旅行もしたことないのに、ちゃんと飛行機にちゃんと乗れるかどうか」
「飛行機? ああ。どのような仕掛けかは分からんが、今の時代は魔法を使わず空を飛べるらしいな。危険だからと、私は船を勧めたのだが」
「セルビアまで船って……。アンタどれだけ時間がかかると思ってるんだ? 想像もつかねー距離だぞ」
「馬鹿な! そんなに遠いのか。私はてっきり二、三時間で着くものかと……」
カルチャーショックを受けたらしいリンが、心底驚いたような顔で刻を見る。
「ったく……何も知らなかったのかよ。どんなところか少しは調べろよな」
百五十年以上も生きているわりには――いや、だからこそか、彼女は常識があまりないらしい。
これにはさすがのリンも返す言葉がないようで、無知を恥じるように顔を赤らめた。
「……それで、飛行機とやらでも乗っても何日もかかるのか?」
「セルビアまでは直通便がないからオーストリアかドイツあたりを経由するのが速いだろうけど、出発した時間が時間だし、空港近くのホテルに泊まって明日の朝一で出発するのかもな。それでも明日中には着くだろ」
「ほう」
今度はさっきとは違う驚きの顔で、リンが刻を見つめた。
「ずいぶんと詳しいようだが、もしやセルビアに行った経験があるのか?」
「いや、本で読んだだけ。旅行記に載ってたのが偶然中欧だったから」
「ふむ……」
リンは感心したように頷いてから、
「お前は本が好きなのか?」
意味深に微笑んだ。
「まあ、好きな方だけど」
「よし! それならいい場所があるぞ」
「……?」
何か企んだような笑みのリンに連れられ、刻は一階にある応接室や風呂場などを見学した。屋敷の大きさからしてメインの大部屋がやたら小さいと思ったが、これら他の部屋が幅を取りすぎていたらしい。いずれも西洋の城や豪邸を彷彿とさせる、絢爛豪華な内装だった。質素なのは、保管庫と薬を調合する作業場くらいだろう。
そして驚くべきは――。
「こんな所に階段があったのか……」
大部屋の奥に位置する厨房。そのさらに奥の隅に、下へと続く石造りの階段があった。
「それにしても今風のキッチンの奥に石造りの階段って……めちゃくちゃ怪しいな」
「男のくせに細かいことを気にするでない。ほら、行くぞ」
背中を軽く叩かれ、刻は石段を降りて行く。重厚な木製扉を開けると中は暗闇で、一歩足を踏み入れると地下特有のひんやりとした空気が肌をなでた。
まるで中世ヨーロッパの地下牢みたいだと薄気味悪く思う刻の隣で、リンがこなれた仕草でマッチを擦り、壁掛けランプに火を灯す。
「地下はハイセンとかいう関係でデンキが使えないらしい。だから、ここだけは昔のままなのだ」
そう言いながら、彼女は近くのランプから順番に明かりをつけていく。ゆらゆらと揺れるオレンジ色の光が部屋全体に広がり、天井まで伸びた背の高い本棚が迷路のようにいくつも並んでいる光景があらわになった。
棚に隙間なく埋め尽くされている無数の本を目の前に、刻は思わず息を呑む。
「……すごいな」
「どれもこの世にふたつと存在しない、希少価値のある魔法関連の本だと聞いている。私にはよく分からんがな」
貴重と言うわりには本の価値をあまり理解していないようで、リンはどうでもよさそうに返した。
置ききれなかったのか、床に転がったいくつもの本に足をとられそうになりながら、刻は書棚の迷路を進んでいく。
棚から適当に一冊取ってみると、ずっしりと重く、表紙には見慣れぬ言語がきざまれていた。
「フランス語か?」
中を見るとやはり本文も日本語ではなかった。そして、
「こっちは英語じゃねーか」
次々と手にした本を開くが、イタリア語やドイツ語らしき見慣れない文字ばかりが出てくる。
この棚だけではなく、隣の棚も、後ろの棚を見ても外国語で書かれた本ばかりだった。
「おい、読めるものがねーんだけど」
「だろうな。この書庫にある本はすべて、フランス生まれの私の師匠が世界中をまわって集めたものだ。どんな言語でも話せたフランス人の彼女が、日本語で書かれた本ばかり集めるわけがあるまい」
「でも……さっきアンタが俺に本が好きかって聞いたのは、ここにある本を読ませてくれようとしたからじゃないのか?」
「いや違う」
即答する主に刻は苦い顔をする。
リンは「お前に仕事を頼もうと思ったのだ」と言うと、部屋中に散らかった本に目をやった。
「まあ、この通り私は整理というのが苦手でな。活字嫌いなのもあって、この書庫は師匠が屋敷を出て行った頃から変わらず散乱したままになっておる」
「アンタの師匠も随分と整理が苦手みたいだな。でも執事はどうしたんだよ? ジイさんの話では、真城家が代々この屋敷で働いてるって……」
「全滅だ」
遠い目で答えるリン。どうやらこれまで、まともに整理整頓ができる真城家の男はひとりもいなかったらしい。
「だが、刻。お前は掃除や家事の類が得意だと聞いたぞ」
その言葉で、刻はリンが自分をここに連れてきた本当の理由が分かった。
あの企んだような笑みの意味も。
「まさか……この部屋の本、全部俺に片付けろって言うんじゃないだろうな」
「英次が日本に帰ってお前に仕事を教えるまでは、私の命令を聞けばいいと言ったはずだ」
「そうだけど」
何十年、いや百何十年も放置された書庫を今さら掃除する必要性があるように思えない。
いかにも不服そうな刻に対し、リンは主人らしい強い口調で告げた。
「文句を言うでない、これくらいできなくて何が執事だ。よしこうしよう、もし明日中に私が納得するほど綺麗にできなければお前はクビだ。分かったな!」
「…………」
『これくらいできない』人間にそこまで言われたくない。刻は呆れて閉口した。
「ちゃんと本や棚のホコリも綺麗にするのだぞー」
リンは一方的に言い残すと、刻を置いたまま書庫を出て行ってしまった。
「ったく。ホントに何なんだよ、あの女」
薄暗い地下に、若き執事見習いの声が虚しく響く。
さっき英次の部屋でしおらしく『恨んでるか』など聞いてきたと思えば、今度は偉そうに命令を押し付ける。子供みたいな態度に反比例した年寄りくさい口調といい、本当によく分からない女だ。
「ジイさんより面倒くさい年寄りがいるなんてな……」
うんざりしつつ、あらためてまわりを見渡した刻はさらにがっくりする。
雑然としている原因は、足の踏み場もないほど床に積まれた本だけではなさそうだ。棚に並ぶ本は上下逆さま、前後ろが逆。本の背の高さもまちまちで適当に並べられている。
いったいどこから手をつけようかと考えながら、刻は書棚をひとつずつ観察する。
歩くうちに、積まれた本のひとつに足がぶつかった。崩れた本の山からホコリが激しく舞い上がる。
「げほっ、げほっ……ん?」
散乱した本の中に、漢字らしき文字の一部を見つけて拾い上げる。ホコリを払うと、無地の赤い布製のカバーにやたらと大きなフォントで『魔女の歴史』と書かれているのが分かった。
刻は表紙を見ただけで気味の悪さを感じた。街で普通に売られているものとは、明らかに何かが違うのだ。
シンプルすぎるデザインだからか、年季が入っているせいなのかは分からないが――どこか、この世のものではない雰囲気があった。
「やっぱり、読むのやめておいた方がよさそうだな」
と言うより、開いただけで呪われそうである。
(早いところ終えてここを出よう)
背中合わせになっている巨大な本棚は全部で二十架もあるが、今はまだ夜八時くらいだ。
真剣にやれば日付が変わる前には何とか終わるだろうと刻は計算した。
そして、数時間後――。
片付けは終わらず、あきらめて寝ることに。携帯電話で時間を確認した刻は、ようやく自分の見込みが甘かったことに気付く。
現在時刻――すでに夜中の三時だった。