43話
リンが英次に事の顛末を話したのは、夕食を終えて皆が自室に戻ったあとだった。
ダイニングテーブルに向かい側に座り、椿の入れたコーヒーを静かにすする英次にリンはすべてを語った。
悪魔崇拝派の魔女がひそかに存在を続けていたこと。
椿が実はもと悪魔崇拝派の魔女だったこと。だが共に戦い、エレナの力を封じたこと。
そして、その過程において刻が一度死んだこと。
彼の命を救ったのが、『従者の契約』によるものだったということを――。
リンはおそるおそる英次の顔を見つめた。
やはり怒っているのだろうか?
大切な孫を危ない目に合わせたせいか、契約により人生を狂わせてしまったせいか。
心当たりが多すぎてよく分からないが、とにかく失望されても仕方がないと覚悟していた。
「……私がいない間にそんなことがあったのですか」
ようやく口を開いた英次の口調は、意外にも穏やかだった。
「まったく皮肉なものです。……貴女に仕えて何十年もたつと言うのに、たった数日離れた間にこれほどの事件がおころうとは」
それから彼はふっと笑みを浮かべて、ふたたびコーヒーを口にする。
「怒っていないのか?」
「なぜ私が貴女を怒るのです」
英次の反応を最初は驚いたが、すぐに理解した。
彼は従者の契約を結んだいわば『しもべ』だ。主に対し咎めることなどできはしない。
ふいに、むなしさが込み上げてくる。
これまで友人だと思っていた真城の男たちは、すべてルネのかけた術のせいで自分と共にいただけだ。
ただの主従の関係を超え、深い信頼によって家族のような結びつきを持っていたというのは幻想に過ぎない。そう考えると、無性に悲しくなった。
「リン様」
うつむくリンに、カップを置いた英次が声をかける。
「私が残念なのは、貴女が大変な時にそばにいられなかったことですよ」
「そう思うのは契約のせいだ」
ぽつりと本音を漏らすと、英次は拗ねた子供を相手にするみたいに困った笑みを浮かべる。
ついこの間まで女にうつつを抜かしていた若造が、ずいぶんと落ち着いたものだ。
この男と話していると最近、自分の方が年下なのではないかと錯覚することさえある。
「私が貴女を友人のように大切に思っても、貴女はこれからずっと魔法のせいだと思うのですか?」
「……ああ」
「それは寂しいですな」
ハハっと笑って、英次はテーブルの上に置かれた大きな本を手に取った。
説明のために一応用意しておいた『従者の契約』について書かれている本だ。
「どれどれ」
おもむろに開き、彼は老眼鏡を直しながらページをめくっていく。
「フランス語ですか」
椿ほど達者ではないが、英次もフランス語が話せる。
あるページでその手を休めると、リンに開いたままの本を差し出してきた。
「…………?」
英次が指で示した部分を見て、リンは首を傾げる。
「読めん」
「従者の契約についての記載です」
椿に読んでもらい、一度は耳にしていたはずだが、細かい部分までは覚えていない。
「ここ、ふたつめの項目に『従者となった人間は、後継者が決まるまで術者から遠く離れることができない』とあります。……今回私がセルビアという遠い国に行けたのは、間違いなく刻に従者の座が渡ったからでしょう」
妙ですなぁ、といたずらっぽく言い、英次は目を細めた。
「私にかけられた魔法はとっくに解けているはずなのに、今も貴女のそばで過ごしたいと願っている。それはどうしてでしょうね?」
はっとして目を見開くリンに、彼は諭すような口調で告げた。
「魔法で主従関係を結べても、心までは縛ることはできないのですよ。リン様」
目の前で微笑む英次の優しい眼差しは、従者の契約が解かれる前となんら変わりない。
仮に契約が心まで変えてしまうなら、刻が来る前の彼と今の彼とで同じはずがなかった。
「心までは縛れない……か。……そうかもしれんな」
リンは泣きそうになるのを、冷めたコーヒーをすする仕草でごまかす。
ありがとう。これからもよろしく頼む。そう心の中で呟きながら。
気恥ずかしくて口には出せなかったが、きっとこの友人には伝わったに違いない。
何十年か先、刻ともこのような関係になれたらいいと思う。
いくつかの苦労を共にして、互いのことを知っていって……。
従者の契約が解かれても、あたりまえのように隣にいてくれるような関係に。
おそらくはなれるだろう。あの少年は態度に反しておひとよしだ。
契約が終わった途端にサヨナラなんて薄情なことはできないはずである。
文句をたれつつ、サンダース姉弟やエレナの世話を焼く刻の姿を思い出し、リンはくすりと笑った。
「おや、どうしたのですか。急に」
「いや……。幸だなぁと思ってな」