40話
「はあっ、はあ……」
刻は永遠と続く、地獄の真っ赤な大地をあてもなく歩いていた。
「あ、つ……っ」
全身にやけどを負ったように体中が痛い。のどは乾くし、めまいがする。
ずしゃ、と無様な音を立て、刻はとうとう派手に倒れ込んでしまった。
このままでは脱水症状で死んでしまいそうだ。
「……いや、もう死んでるのか」
すっかり忘れていた。
どうも魂だけと言う実感がないのだ。今だって焼け石のような地面の熱を感じる。
(もしかして、熱いのもだるいのも気のせいなのか?)
そう思うと、急にすべてが面倒になってきた。
(いっそこのまま寝てみるか)
名案だと思った。どうせ死んでいるのだから無理して何かをする必要はない。
刻はゆっくり目を閉じた。
走馬灯のように、これまでのことがまぶたの裏に浮かぶ。
両親が死んだ時のこと、小学校の時に好きな女の子にフラれたこと。慣れあいについて行けず、中学の部活を一週間でやめたこと。高校に上がって、ますます孤独が好きになったこと。そのせいで、人と深く付き合わなくなったこと。
いつも、ひとりでいたこと――。
そして、最後に猫の魔女が住まう妙な屋敷が頭に浮かんだ。
偉そうな年寄りのくせに、どこか子供のようなところがある主。
イタズラ好きの悪ガキと、常にハイテンションでやかましい少女。
異常な程気が弱い残念な美人。
それと、唯一の肉親である祖父。
残されたリン達にとって、祖父への説明は一番大変に違いなかった。
息子を亡くし、孫まで亡くしたとなれば、しばらくは立直れ無いかもしれない。
それでも時間が経てば、いつかはいないことが当たり前になるはずだ。
(ジイさんもあいつらも……俺のことなんて、すぐに忘れる)
『…………き』
『…………とき』
『……おい、刻』
誰かに呼ばれた気がした。
「今度は幻聴か? 勘弁してくれ……」
うんざりして、刻は目を閉じる力を強める。
「起きろ! 刻ッ!」
「――!!」
はっとして目を開けると、悪い夢から覚めたように全身が軽く感じた。
灼熱の大地に突っ伏していたはずなのに、いつのまにか仰向けになっており、背中からひんやりとした心地よさが伝わってくる。
すぐ近くに、必死の形相で呼びかけてくる少女の顔があった。
怒ったような、安心したような表情を浮かべた彼女と目があった瞬間――。
「まったく! この馬鹿、無茶しおって!」
思い切り怒鳴られた。
「リン……!?」
意識が完全にはっきりした刻は、がばっと起き上がってまわりの景色を確認する。
まぎれもなくリンの屋敷の玄関ホールだった。
「え? 何でここに……」
また、『門』のようにおかしな幻想を見ているのかと疑った。しかし、床に散らばっている壁材やガラスの破片を見て現実世界だと実感する。夢にしてはリアルすぎる。
「どういうことだ? 地獄に行ったはずだよな……俺」
困惑する刻に、満身創痍で座るリンが事情を説明する。
「バフォメットとお前の契約を破棄した」
「はっ? そんなことできんのか」
「契約に不備があるのをリン様が見つけたんです。ちょっと無理やりでしたけど」
その質問に答えたのは、目元の涙をぬぐいながら嬉しそうに笑う椿。
だが、刻は生き返ったことを手放しに喜べなかった。
「でも契約破棄なんてしたら、またバフォメットが悪い魔女を生産するってことだろ?」
魔女と言う存在に飽きつつあった、悪魔バフォメット。今回の一件は、下手したら寝た子を起こす結果となり、彼にふたたび魔女界への興味を与えてしまったのかも知れない。
悪魔の契約を解消させたなど前代未聞だろうから、リンが個人的に恨みを買った可能性もある。
「……馬鹿はアンタだ」
刻は、ぼそりと言った。
「あのままにしておけばよかったのに。せっかく解決し――――痛ッ!」
額に衝撃が走って、言葉が切れた。
「何が解決だ!」
刻と同じように額を押さえたリンが、声を荒げる。
「まさか私が、お前を犠牲に得た平和を喜ぶとでも思ったのか? 椿もジュリアもハルも皆……簡単に立ち直れると思ったのか!」
「は? 違うのかよ」
「違うに決まっておる!!」
玄関ホールにふたたびゴン、と鈍い音が響いた。
「ってーな、そんなボロボロの身体で何してんだアンタ!」
だらりとさがった片腕、腹を押さえるもう片方の手。はたけないから頭突なのは分かるが、そこまでするほど怒らせた覚えがない。
困惑する刻に、リンはじれったそうに言った。
「無性に腹が立ったのだ! 本当に心配したと言うのに……っ」
「え?」
「自分はよそ者だと、そう勘違いしているのなら間違いだ。ここにきてまだ日は浅いが、お前だってこの屋敷に住む家族の一員なのだぞ。何があっても失うつもりはない。……しっかり覚えておけ」
――家族。
涙ぐんだ目できっぱりと言われ、刻は何も返せなくなった。
「あ、あの、私ハルさんとジュリアさん呼んできますね」
遠慮がちに沈黙を破った椿が立ち上がり、大部屋へと入っていく。
その背中を見送りながら、刻は大事なことを思い出した。
「そう言えば、エレナはどうした?」
「あそこにおる」
リンの視線を追うと、床にへたり込んでピクリともしないエレナがいた。
悪魔と契約をしていないにもかかわらず、その姿は魂が抜けたようである。
「バフォメットに見捨てられたのが相当こたえたらしい」
少し憐れむように、リンが言った。
「そうか……。なあところで、契約の不備って何だったんだ?」
「え……」
刻が気になって聞くと、リンの顔色が急に変わった。
「どうかしたのか?」
「い、いや。その」
彼女は決まり悪そうにうつむく。それから深く息を吸って、刻を見つめてきた。
あまりに深刻そうなので、刻は思わず身構える。
リンはためらうように、ゆっくりと口を開いた。
「私はバフォメットに、お前がすでに別の契約を結んでいたと説得したのだ」
「別の契約?」
「ああ。刻、お前には『従者の契約』と呼ばれる魔法がかけられている。正確に言えば、代々この屋敷の執事を務めてきた真城家の男すべてだ」
まるで罪を告白するような暗い声で、リンは語り始める。
「魔女はよく、しもべとして使い魔と呼ばれる生き物を使う。カエルだったりカラスだったりな……。だが『従者の契約』は、人間をしもべとしてそばに置いておくための術だ。私の師匠がこの屋敷を去った際、私の世話をさせるために初代の執事、真城真一にかけたと思われる。さらにこの術は、一族の一世代にひとりずつ遺伝して行くらしい」
「アンタの師匠が去る前にかけた魔法って……その、猫になったのと関係してるのか?」
刻の問いに、リンは静かに頷いて肯定する。
「罪もない人間の人生を奪うのだ。やはり、それなりの代償がある。私の場合、『半日を猫として過ごす』が、お前達真城家の自由を奪った代償として支払った条件だ。……まあ、その制約を決めたのはルネだがな」
私は甘すぎる代償だと思う。そう、リンが申し訳なさそうに言った。
「すまない……刻。お前達の人生を私は奪った。今からでも自由にしてやりたいが、この契約を破棄したとたんに、バフォメットがしゃしゃり出てくる可能性がある。私のそばで働いてもらうしかないのだ」
彼女はうずくまるようにして、深く頭をさげる。
「…………」
どう答えていいか迷った。
魔法をかけられていると言っても操られている感じはまったくないし、この屋敷にきたのも、他にやりたいことがなかったからだ。人生を奪われた実感などない。
しかし、目の前の彼女はひどく自分を責めている。
どうしたものかと思い、刻は頭を掻いた。
「あー……話はよく分かった。でも、アンタが思ってるほど俺は気にしてない」
「え……?」
「それに、その契約おかげで子孫の命が救われたんだし、先祖だって文句はねーだろ」
無愛想に言った。が、一応慰めたつもりだ。
地獄にいた時、この屋敷の住人達を放っておけないのだと気がついた。
目の前の魔女は特に手が焼ける。偉そうなくせに子供っぽくて、無鉄砲で、気まぐれで。
魔法が解けたとしても、今さらリンを見捨てることはできないだろう。
だから――。
「アンタがちゃんと稼いで給料払うなら、俺はこの仕事を続けることに文句はない」
「刻……」
リンは掠れる声で「生意気な小僧め……」と、泣きながら笑った。
本当に、素直じゃない困った主人である。
刻は自然と微笑んでいた。