39話
椿は深呼吸をして、悪魔召喚の呪文を唱え始める。
『汝、地獄の使者にして人を惑わす闇の王。流れ出る血をすすり喜びを得しサバトの支配者よ。我と契約を結ばん!』
黒い礼服姿の男は、ふたたび音もなく玄関ホールに現れた。
「我を呼び出した人間はどこだ」
さっきと同じ台詞を吐いたバフォメットは、リンを見るなり、あからさまに嫌そうな顔をした。
「また貴様か。もう契約は終了したと言ったはずだが」
「いや、終わってはおらん。刻とお前が交わした契約には不備があるのだ」
自信にあふれたリンの声色に、悪魔の眉がぴくりと動く。
「不備……だと?」
「ふん。まあ、いいから私の話を聞け」
リンはバフォメットに、従者の契約の概要を力説した。
はじめのうちは興味なさげに聞いていたバフォメットだが、最後の方になるとだんだん呆気にとられたような表情に変わる。
そしてリンがすべて説明し終えると、
「すでに『従者の契約』によって結ばれているから、小僧が貴様のもの……だと?」
と、悪魔らしくない気の抜けた声を漏らした。
「ああ、身体も魂も私のものだ。先に契約を交わしたのは私。つまり、主である私の許可なく勝手に刻を連れていくのは『従者の契約』違反だ! 分かったか!」
リンは鼻息あらく言い放った。悪魔は腕を組み、何かを考えるように下を向く。
椿がハラハラした様子でリンとバフォメットを交互に見つめ、何とも言えない重苦しい空気が玄関ホールを支配している。
長い長い沈黙の後で、悪魔がようやく表を上げた。
その借り物の精悍な顔は、まるで苦虫でも噛み潰したように歪んでいる。
「……このようなケチをつけられたのは初めてだ。腹は立つが……貴様の言う『従者の契約』とやらが魔力によって行われた以上、無下にもできぬ。後で何か面倒なことになっても困るしな」
魔力とは、独立派の魔女だろうが、悪魔だろうが、悪魔崇拝派の魔女だろうが関係なく、すべて同じ原理のもと成り立つ偉大な力だ。だからバフォメットも、その偉大な力によって取り行われた契約は無視できないと言いたいのだろう。
「しかし、よいのか? 小僧が命がけで我と契約したおかげで、貴様の脅威となる悪魔崇拝派の魔女は滅びたのだぞ」
よほど刻の魂があきらめきれないのか、もともとそういった性格なのか、悪魔はこの期に及んでやたらとネチっこく聞いてくる。
「契約破棄となれば、小僧の魂が戻る代わりに、我はふたたび悪しき魔女の象徴となる。それでもかまわないと?」
「ああ、かまわん」
リンは迷わず即答した。一番大事なのは、刻を生き返すことなのだから。
「では仕方がないな。今回の契約は解消とする――」
バフォメットが残念そうに宣言し、胸の前でパチンと指を鳴らした。